第79話 新しいドラゴンスピリット
森は――静まり返っていた。
折れた木々。
焼け焦げた大地。
そして遠く、まだ息づく“何か”の気配だけが残っている。
馬車の車輪が、凍りついた灰と黒い石を踏みしめながら、
ゆっくりと荒野を進んでいた。
御者台にはロナン。
手綱を握り、険しい顔で地平線を睨む。
後ろでは、ナリが窓際にもたれながら双刃の短剣を研ぎ、
アナ――まだつぎはぎのマントを羽織ったまま――が、不安そうに焼け野原を見つめていた。
「……本当にこの道で合ってるのか?」
ロナンがぼやく。
「セレーネは“子どもの護衛”を頼んだんだぞ。
モンスター狩りとは聞いてねぇ。」
ナリは耳をピクリと動かし、ため息をついた。
「魔力の痕跡が強すぎるのよ。
地面を見なさい。まだ焼けてる。
通ったのは数時間前ね。」
アナがおずおずと声を出した。
「……カダラを襲ったあの竜、なの?」
ロナンは答えなかった。
だが、空気に残る魔力は――間違いなく“同じもの”。
あの王国を半分消し飛ばした、
北へ逃げたと信じていた“それ”。
「……もしそうなら、今は死にかけてる。
なら、今度こそ終わらせるチャンスだ。」
風が冷たい。
焦げた木々の向こう、黒い煙が空へと上がっている。
丘の頂に辿り着いた時――彼らはそれを見た。
巨大な精霊竜。
身体の半分をクレーターに埋め、
鱗は鈍く光を失い、翼は裂け、血で染まっていた。
吐息のたび、胸に霜が降りる。
それでも、その存在だけで空気が重く――息が詰まる。
アナが呟いた。
「……死にかけてる。」
ロナンは無言で馬車を降り、
斧を構えた。
「なら好都合だ。戦う手間が省ける。」
灰を踏みしめ、ゆっくりと丘を下る。
竜がわずかに首を持ち上げる。
黄金の瞳が、ロナンを見た。
ほんの一瞬――
その瞳には、“人間のような”感情が宿っていた。
疲れ。孤独。絶望。
ロナンは斧を構える。
「お前がカダラを滅ぼした。
何千もの命を奪った。
ここで終わりだ。」
一歩、踏み出した――その腕を、小さな手が掴んだ。
アナだった。
顔を青ざめさせ、目を見開いている。
「やめて……見て。あれ、苦しんでる。」
「だからだ!」ロナンが怒鳴る。
「今のうちに止めねぇと、また立ち上がる!」
「でも……苦しんでるのに!
どうして、死にかけてるものを殺せるの!?」
「“慈悲”ってのは、世界を滅ぼすのを見逃すことじゃねぇ!」
アナは震えながらも離さなかった。
「……あたしだってそうよ、ロナン。
あたしも“穢れてる”。でも、あたしは――まだ、あたし。」
ロナンの動きが止まった。
ほんの一瞬、彼は“魔族の少女”ではなく、
ただ怯える子どもを見た。
斧を握る手から、力が抜けていく。
だが――ナリの耳が動いた。
「……来るわ。」
次の瞬間、短剣が抜かれた。
森の影。
低い唸り声。
――氷狼たち。
全身を氷の鎧に覆い、青い炎のような瞳を光らせている。
十……いや、二十はいる。
そして、それは“普通”の狼ではなかった。
魔力が――Aランク級。濃密で、歪んでいる。
「竜の血に引き寄せられたのね……」ナリが低く唸る。
「獲物は、私たち。」
狼たちが円を描く。
ロナンはアナを馬車の陰に押しやり、斧を構えた。
「下がってろ。」
最初の一匹が飛びかかる。
ロナンの斧が真っ二つに裂く。
だが左右から三匹が同時に襲いかかる。
腕の防具で受けたが、胸に深い爪痕が走った。
ナリが飛び出す。
短剣が闇色の魔力をまとい、
舞うように二匹を切り裂く。
だが倒しても倒しても、数が増える。
地面が震えた。
アナは馬車の陰で震え、
ロナンが押し倒されるのを見た。
彼は咆哮しながら斧を振り上げ、
狼の顎を砕く。血が雪に散った。
だが次の狼が腕に噛みつく。
「ロナン!!」ナリの悲鳴。
アナの方に一匹が向かった。
凍える息を吐き、牙が光る。
――跳躍。
世界が、遅くなった。
そして――
黄金の閃光。
狼が空中で崩れ落ちた。
精霊竜が、頭を持ち上げていた。
鼻孔から煙を上げ、
残った力のすべてを込めて――
黄金の炎を吐いた。
光が爆ぜ、狼の群れを一瞬で焼き尽くす。
アナの目が見開かれる。
「……助けてくれた……?」
竜はゆっくりと彼女を見た。
その瞳は、もはや怪物のものではなかった。
――優しかった。
「どうして……?」
声ではなかった。
“心の中”に響いた。
『……おまえは……純なるもの……』
竜の胸から、光が浮かび上がる。
球体となって、アナの方へ――。
「……いや……っ」
彼女が後ずさるが、遅かった。
光は彼女の身体へと溶け込み、
目が真っ白に染まる。
――爆発。
紅蓮と魔力の奔流が丘を呑み込む。
ロナンとナリは吹き飛ばされ、
炎と風が天を裂いた。
空が割れ、大地が震える。
アナが宙に浮かぶ。
髪が伸び、黄金に染まり、
その中に紅の閃光が混じる。
小さな身体が光を放ち、太陽のように膨張した。
「な、なんだこれは……!?」
ロナンが叫ぶ。
ナリは言葉を失った。
「……竜の魂が……融合してる……
彼女、まさか――」
空間が、裂けた。
アナが目を開けた。
それはもう、子どもの瞳ではなかった。
竜の光――精霊の輝き。
「……“真なる精霊竜”になってる……」
ナリが息を呑む。
アナが両手を上げた。
声はもう少女のものではなく、
古代の響きを帯びていた。
「――消えなさい。」
それは命令ではなかった。
“法”だった。
赤金の光線が放たれ、森を貫いた。
狼たちは一瞬で蒸発し、
周囲の数里が光と灰に飲まれた。
衝撃が遠くまで響き、
――静寂。
やがて炎が消え、
アナはゆっくりと地に降りた。
身体が淡く輝き、
やがて元の小さな姿に戻る。
ぼんやりと、自分の手を見つめた。
まだ、微かに光が残っている。
ロナンは口を開けたまま動かず、
斧が地面に落ちた。
ナリは肘で小突いた。
「……息してる?」
「……ああ。
……ただの子どもが……森を消し飛ばしただけだ。」
アナは無邪気に首を傾げた。
「わたし……悪いこと、したの?」
ロナンは顔を覆い、深くため息をついた。
「……お前、まったく分かってねぇな……」
だがその時――
アナの周囲に、微かな紋章が浮かび上がった。
炎と光が絡み合い、理解不能な“印”を描く。
そして遠く――〈時の織り目〉の奥で。
リリア・フォスターはその“鼓動”を感じた。
新たな精霊の誕生。
創造を揺るがす、新しい絆。
「……アナ。」
彼女は静かに呟いた。
「想像より……早く進化しているわね。」




