第207話 権力の一端
翌日は、少しだけ静かだった。
神もいない。
戦争もない。
会議だと叫ぶ王国の使者も来ない。
ただ、都の外れに広がる静かな草原と、青と白のドレスを着た少女と、この世界で怯えずに生きていく術を教えるという、ひとつの素朴な目的だけ。
アリスはまだ……壊れやすかった。
身体はもう大丈夫だ。歩ける。食べられる。時々、無理をせずに笑うこともできる。
けれど、心のどこかに“びくつき”が残っている。
気を抜いた瞬間、空が落ちてくると信じているみたいに。
だから私は、彼女に“確かなもの”を与えることにした。
魔法だ。
「よし」
私は腰に手を当てて彼女の前に立つ。
「今日は訓練だ」
アリスはぱちぱちと瞬きをして、緊張したまま頷いた。
「は、はい」
ルナは少し離れた場所で腕を組み、半分閉じた目で立っている。守護者の像みたいに無言で、ただ状況を観察していた。
参加はしない。ただ、危険評価をしているだけ。
ニャは草の上に少し浮かび、誰にも見えない簡易図式を投影している。
そしてアリスは――
“失敗を許されたことのない生徒”のように、私の前に立っていた。
私はしゃがみ、彼女と目線を合わせる。
「始める前に」
「基礎を理解しないといけない」
アリスは真剣な目で私を見る。
「魔法はただの道具じゃない」
「宇宙の構成要素そのもの。世界とあなたを繋ぐもの。物質的なものも、概念的なものも全部だ」
私は軽く彼女の胸に指を当てた。
「意志が現実と握手する方法。それが魔法」
彼女は息を飲む。
「でも……やり方が……」
「だから私がいる」
私は小さく笑う。
「まずは火だ」
アリスは少し身構えた。
私は手を上げ、小さな炎を灯す。
危険ではない、ただ温かい光。
「火を“破壊”だと思わないで」
「動き。熱。エネルギー。反応だ」
彼女はゆっくり頷く。
「目を閉じて。無理に引き出そうとしなくていい。自分のマナを“感じる”だけ」
彼女は従った。
しばらく沈黙。
やがて眉が寄る。
「……なにか、ある」
「川みたい」
「いいね」
「それを手のひらへ。押すんじゃない。流す」
アリスは震える手を上げた。
一度目。何も起きない。
二度目。沈黙。
肩が落ちる。
「ごめんなさい……」
「却下」
即答した。
「謝罪禁止。これは試験じゃない。練習だ」
頬を赤らめて頷く。
再挑戦。
数分。
一時間。
彼女は必死だった。世界を力で従わせようとするほどに。
そして――
ぱちっ。
ほんの小さな火花。
蛍ほどの光。
でも、確かにそこにあった。
アリスは目を見開く。
「できた!」
私は笑った。
「できたな」
その笑顔は小さい。でも、本物だった。
「次。水」
火は本能。
水は忍耐。
温度の変化、圧力、流動のイメージを教える。
時間はかかった。
けれど最終的に、小さな水滴が宙に浮かんだ。震えながらも、確かに存在している。
彼女は泣きそうな顔で笑った。
「上出来。火と水が使える初心者は多くない」
次は土。
全滅。
地面をじっと見つめるアリス。
地面は微動だにしない。
風。
彼女は気まずそうに手を振る。
通り過ぎた風は、たぶんただの自然現象。
「私、下手すぎる……」
「違う」
「学んでるだけ。土は安定。風は意志。火と水は感情系だ。そっちの方が今のあなたには繋がりやすい」
「感情……?」
「火は情熱、水は想い。土は安定、風は自由」
彼女はぼそっと呟く。
「風の方が簡単そうなのに」
「そうでもないらしい」
昼過ぎ、彼女は疲れ切った。
休憩。
私は木にもたれ、水を飲みながらアリスを見る。
彼女は草原を走り回る。
花を摘み、蝶を追い、思い出すみたいに笑う。
ニャは少し離れて観察。爆弾を見る科学者みたいな目。
「まだ分析してるのか?」
「対象は不安定」
「人間だ」
「人型の存在的危険物」
ため息。
その時だった。
空気が変わる。
ルナが即座に顔を上げる。
ニャの瞳が細まる。
私の本能が警鐘を鳴らす。
森の影から、それは這い出た。
巨大な影の蜘蛛。
煙が骨格に閉じ込められたような身体。
長すぎる脚。赤く光る目。
捕食者。
アリスが凍りつく。
花が手から落ちた。
そして、叫ぶ。
走る。
「リリア!」
ニャの声が脳内に響く。
【警告。敵対個体確認。目標:アリス。接近中】
思考より先に身体が動いた。
「アリス!」
彼女は転ぶ。
蜘蛛が迫る。
脚が振り上がる。
アリスの叫びが――爆ぜた。
それは普通の悲鳴じゃない。
世界そのものが驚いて目覚めたような音。
空間が裂ける。
衝撃波。
草が倒れ、木が軋み、地面が震える。
そして蜘蛛は――
蒸発した。
焼かれたわけでも、切られたわけでもない。
存在がほどけた。
一瞬で。
静寂。
私は止まり、消えた地点を見る。
そしてアリスを見る。
彼女は震えている。何が起きたのか理解できていない目。
駆け寄る。
「怪我は?」
涙を流しながら首を振る。
「食べられると思った……」
「もういない。安全だ」
彼女は呟く。
「……私が?」
答える前に、ニャの声。
【解析完了。アリス・クリムゾンの休眠権能が覚醒。恐怖刺激による発動。最低出力:大陸規模衝撃波】
胃が重くなる。
大陸規模。
悲鳴で。
「ごめんなさい……」
「謝らない」
私は強く、でも優しく言う。
「誰も傷つけてない。自衛だ」
「危険になりたくない……」
抱きしめる。
「だから訓練する。制御を覚える」
ニャが近づく。
「評価を再計算する必要がある」
「どうでもいい」
「不安定化した場合――」
「安定させる」
「彼女は武器じゃない。神に狩られた少女だ」
ルナが静かに言う。
「覚醒した」
「ああ」
「油断するな」
「しない」
アリスが涙を拭く。
「……続けてもいい?」
「もうあんな叫び、出したくない」
胸が柔らかくなる。
「もちろん」
私は空の地平線を見る。
そして彼女を見る。
ようやく理解した。
神々が彼女を鎖で縛った理由。
悪だからじゃない。
恐怖が、偶然に世界を壊せるから。
彼女に必要なのは呪文だけじゃない。
勇気だ。
もし恐怖のたびに力が目覚めるなら――
世界は彼女の悪夢に耐えられない。
でも私は耐える。
私が、支えるから。




