第204話 アリス・クリムゾン
ゼウスがヌル・ゼロへと消えた瞬間、まるで誰かが糸を断ち切ったみたいに、嵐はあっさりと終わった。
雷鳴は、轟きの途中でぴたりと止まる。
思考多元宇宙――あの、無限に積み重なった無限たちも、ニャがごく単純で、ほとんど優しいとさえ言える命令でフレームワークを解除したことで、きれいに沈黙へと折り畳まれていった。
「思考多元宇宙:オフライン。」
現実が、自らを縫い直していく。
そして気づけば、俺たちは再びオリュンポスに戻っていた。
あの、墓場へと変わり果てた玉座の間へ。
血が、至るところに飛び散っていた。
人間の血じゃない。
神の血だ――黄金、漆黒、星屑、嵐のイコル。それらが砕けた大理石と亀裂だらけの柱にぶちまけられ、まるで神々の言語で描かれた警告文みたいになっていた。
あちこちに、身体が転がっている。
死んでいる者もいる。
気を失っている者もいる。
あまりにも完全に消し飛ばされ、かつてそこにいた痕跡として空白の輪郭だけが残っている者もいた。
ルーシーは、ひび割れた柱のそばに立っていた。眼鏡は無傷、コートにもほとんど埃すらついていない。
リサはまたしても空中で逆さまになっていて、ブーツには血が飛び散っていたが、まるで軽い運動を終えたみたいな笑顔を浮かべていた。
ローグの拳には血がこびりつき、その笑みは「こいつ、全部楽しんでやがったな」と一目でわかるものだった。
フレイの表情は穏やかだった。だが、その手はまるで墓場を庭いじりしてきたみたいに、べっとりと汚れていた。
ルナは退屈そうだった。まるで「神々を時間軸に圧縮する」なんて、ただの朝の日課ですけど? と言わんばかりに。
エタニティは静かに宙へ浮かび、淡く発光していて、ぱっと見は無垢ですらあった――あの子の中身が、子どもの身体に収まった宇宙論そのものだと忘れさえすれば、だが。
俺は彼女たちを見て、瞬きをした。
「……ええと」
誰も答えない。
俺は咳払いをひとつした。
「その、心配なんだけど」と、正直に言った。
「いやもう、かなり本気で心配なんだけど」
リサが陽気に手を振る。
「私たちは平気だよ!」
ルーシーの声は平坦だった。
「敵対的神性戦力は、すべて無力化済みです」
ローグが肩をすくめる。
「当然の報いだろ」
フレイが一度だけ頷いた。
「悲鳴は、なかなか良かった」
俺は彼女たちを見つめた。
「……うん、オーケー。そういう話はあとでじっくり掘り下げよう」
なぜなら、今の最優先事項は――
帰還。
俺たちは素早く動いた。
戦の余震にまだ震える回廊を駆け抜け、砕けた天使像の脇を通り過ぎ、塵へと崩れ落ちていく神聖文書庫を横目に進む。天上界そのものが死につつあった――王が追放された今、その権威ごと血を流して崩壊しているのだ。
俺たちはポータル・ホールへたどり着いた。
オリュンポスの心臓部に刻まれた巨大な門。そこには次元離脱座標が脈動している。
向こう側には、下層区域が待っていた。
俺は一歩、前に出る――
だが、そこで足を止めた。
妙な感覚が走った。
違う。
危険じゃない。
脅威でもない。
もっと別の何かだ。
まるで、熱にうなされる夢が自我を持ち始めたような。
まるで、読まれていると気づいた物語のような。
腕の毛が逆立つ。
「……待ってくれ」
俺は低く呟いた。
ルーシーが振り返る。
「何ですか」
答えず、俺はその“引き”に従った。
別の回廊へ。
砕けた封印の先へ。
本来なら誰の目にも触れないままであるべき収容区画の奥へ。
ニャが一瞬で俺の肩口に現れる。その表情には、めったに見ない種類の緊張が浮かんでいた。
「マスター」と、彼女は鋭く言った。
「進まないでください」
俺は無視した。
その気配が、もう一度こちらを引く――控えめで、孤独で、静かで。
まるで、鍵のかかった扉の向こうから、誰かが囁いているみたいに。
俺はそれを追って、保管庫棟へ入った。
捕縛ホール。
冷たい空気。
静寂。
壁一面に並ぶ封印室。そのひとつひとつに、名前、称号、脅威警告が刻まれている。
大半はもう開いていた――アルテミスの混乱と非常解放で破られたのだ。
だが、ひとつだけ。
完全に封じられたままの部屋があった。
完璧に。
過剰なくらいに。
俺はその前で足を止める。
ひとつのタグが、かすかに光っていた。
ALICE CRIMSON
夢と物語の始原存在
警告:極度の実存災害
開封厳禁
ニャの声が一気に切迫する。
「マスター、だめです。繰り返します。だめです。この封印には理由があります。これは囚人ではありません。これは――」
「何なんだ?」
俺は独房から目を離さずに尋ねた。
ニャの瞳孔が細くなる。
「物語の根です。自らを記述する災害。夢返す夢です」
俺は唾を飲み込んだ。
この独房から感じるものは、暴力じゃなかった。
それは……悲しみだった。
孤独だった。
まるで、悪夢の中にあまりにも長く置き去りにされた誰かみたいな。
微かな音が聞こえる。
悲鳴じゃない。
囁きだ。
「……たすけて……」
胸が締めつけられた。
「……神どもめ」
俺は囁く。
「お前ら、一体この子に何をしたんだ」
ニャが俺の手首を掴んだ。
「マスター。この扉を開ければ――」
俺はそっと、その手を外した。
「わかってる」
それでも、俺はやった。
掌を掲げる。
「究極物質創造:マター・クラッシュ」
封印は“壊れた”わけじゃない。
折り畳まれた。
圧縮され、
権威の下でひび割れ、
扉は紙みたいに剥がれ開いた。
その中にいたのは――
ひとりの少女だった。
鎖に繋がれている。
あまりにも多くの鎖に、まるで“罰そのもの”でぐるぐる巻きにされたみたいに。
金色の髪が顔にかかっている。
青と白のヴィクトリア調ドレスは、埃と薄い血で汚れていた。
小さい。
華奢だ。
顔を上げる力すらないほど弱っている。
想像していたのと、まるで違った。
彼女のまぶたがかすかに震える。
蒼い瞳――暗く、焦点の定まらない目が、ゆっくりと俺を見上げた。
「……たすけて……」
その囁きに、俺の心は一瞬で沈んだ。
考えるより先に、俺は中へ踏み込んでいた。
「どんな化け物なら、こんなふうに人を鎖で縛れるんだよ」
背後でニャの声が上ずる。
「マスター、近づいては――」
完全に無視した。
俺は少女のそばまで歩き、膝をつく。
「大丈夫だ」
俺はできるだけ優しく言った。
「もう平気だ。俺がいる」
鎖へ手をかける。
それは激しく抵抗した。
物理的に、じゃない。
概念的にだ。
まるでその鎖そのものが、肉体ではなく、ひとつの物語そのものを封じ込めるために書かれているみたいに。
俺は指先に力を込めた。
「ヘックス・オーサー」
鎖は砕け、害のない塵となって崩れ落ちた。
少女の身体が前へ倒れる。
俺は間一髪で抱き止める。
温かい身体。
軽い。
弱々しい。
彼女は、俺が消えてしまうのを恐れるみたいに、俺の袖をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫、しっかりしろ」
俺は低く囁く。
「ちゃんと支える」
彼女の気配は――
どこか、おかしかった。
邪悪じゃない。
攻撃的でもない。
ただ……現実味がない。
“人”というカテゴリに、そのまま収めてはいけない何か。
なのに、彼女は声もなく泣いていた。
そして俺は、俺だ。
だから当然、そのまま彼女を抱えて外へ出た。
ポータル・ホールへ戻る。
全員が振り向いた。
ローグの笑みが、一瞬で消える。
フレイの目が見開かれる。
ルナの平静が、初めて崩れた。
ルーシーの姿勢が硬直する。
リサが二度まばたきした。
「え、誰そのかわい――」
エタニティの笑顔が消えた。
空気が張りつめる。
ローグは、俺の腕の中の少女を凝視していた。まるで、幼い頃の悪夢がそのまま現実になって立っているのを見たみたいに。
「……いや」
彼は掠れた声で呟いた。
俺は眉をひそめる。
「何だよ」
ローグが一歩下がる。
「リリア……それ、誰だ?」
「収容室で見つけたんだ」
俺は早口で言った。
「鎖に繋がれてた。弱ってた。助けが必要だった。だから連れ出した」
フレイの声は静かだった。
静かすぎた。
「……アリス・クリムゾンの独房を、開けたのね」
俺は瞬きをする。
「そうだけど? なんで今の言い方、俺が存在そのものを爆破したみたいになってるんだ?」
ルナの顎が強張る。
「実際、そうした可能性があるからよ」
ついにルーシーが口を開いた。その声は張りつめている。
「マスター。対象の識別を」
俺は腕の中の少女を見下ろした。
彼女は震えながら、俺を見返している。
「……わからない」
俺は認めた。
「アリスって名乗った。それだけだ。見た感じ、無害にしか見えない」
ローグが一度、鋭く笑った。そこにユーモアはまったくない。
「無害、ね」
彼はルーシー、リサ、エタニティを見る。
「お前ら、わかってない」
リサが首を傾げた。
「じゃあ、説明して?」
フレイの目が鋭くなる。
「彼女は夢と物語の始原存在よ」
リサの笑みが消える。
エタニティの目がゆっくりと見開く。
ルーシーの指先が、ぴくりと一度だけ動いた。
ローグが続ける。その声は緊張で張っていた。
「物語構造の原初の創設者だ。夢、虚構、“物語”を現実化して世界にする、その根幹そのものだ」
ルナが一歩前へ出て、アリスを見つめる。
「もし彼女が完全に目覚めたら……」
フレイがその先を引き取った。
「……彼女の夢は、際限なく現実を産み出す」
ホール全体が冷え切った。
ついにリサも唾を飲み込む。
「……それは、まずいね」
ルーシーの視線がまっすぐ俺に突き刺さる。
「マスター」
その声音は慎重で、制御されすぎていた。まるで爆弾に話しかけるみたいに。
「あなたは、何をしてしまったのですか」
俺は彼女を見返し、それからもう一度アリスを見下ろした。
彼女はまだ震えている。
まだ弱っている。
まだ、俺だけが唯一の“確かなもの”であるかのように、しがみついている。
俺は無意識に抱く腕へ力を込めた。
「……その件は後で考える」
俺は無理やり平静を装って言った。
「今は帰る。まずはそれが先だ」
ローグは反論したそうな顔をしていた。
ルナは、俺の“情け”という概念そのものを消去したそうな顔をしていた。
フレイは、実行したくもない処刑手順を計算しているみたいだった。
ルーシーの顎は硬く結ばれている。
エタニティは、まるで知らなかった従姉妹でも見つけたみたいにアリスを見つめていた。
だが、天上界は崩壊している。
そして下層区域には、俺たちが必要だ。
だから、俺たちは動いた。
ポータルへ向かって、足を進める。
そのときアリスがまた俺を見上げた。その声は、ほとんど聞き取れないほど小さい。
「……ありがとう」
俺は静かに頷く。
「ああ」
囁くように答えた。
「もう安全だ」
ローグが小さく呟く。
「……それとも今、俺たちは終末を家に連れ帰ったのかもな」
そしてポータルが閃光を放つ、その瞬間――
俺には見えなかった。
だが、ニャには見えていた。
アリスの唇に浮かんだ、ほんの小さな笑みを。
感謝じゃない。
安堵でもない。
別の何か。
まるで、ようやく読者を見つけた物語みたいな笑みだった。
次の瞬間、世界は白く染まり――
俺たちは下層区域へと戻った。




