06
そのさざめきは、魂が行き交う周波数のようだ。波の音が聴こえる別荘で、次第に意識が覚醒する。
「ん……」
ルイーゼが目を覚ますと、夫のマリウスはすでに目覚めていて朝食を準備してくれていた。本来ならば、王族である彼が細々したことをする必要はないのだが。二人きりの時間を愉しむためにバカンス中は敢えて、食事の準備や部屋の整頓などしてくれている。
「おはようマリウス、私の優しい旦那様」
「おはようルイーゼ、僕の世界で一番可愛い妻」
朝交わす口付けは軽く触れる程度だが、愛情を確かめるとても大切なもの。対照的に彼の独占欲の印は赤い花として、洋服からは見えにくい胸元や太ももに散らばっていた。
淡い水色のネグリジェの上にカーディガンを羽織り、遅めのブランチ。
引き立てコーヒーの芳しい香り、レストラン顔負けのエッグベネディクトはマリウスの得意レシピだ。グレープフルーツとヨーグルトのサラダを添えて、バカンスの1日が始まる。
「朝食の準備を王子様がしてくれる上に無茶苦茶美味しいんだなんて、これは私だけの特権ね」
「君の舌を満足させるのが、うちのシェフじゃなくて僕なのは自慢だよ。僕の手料理を味わってくれるキミがいて、本当に良かった」
お互い笑い合って、今日という日を満喫する。その頃、自国アランツ王国ではちょっとした変化が起きていた。
* * *
マリウス王太子の不在は、元婚約者ミエナの関係者にとっては好都合だった。精霊の子を身籠り、阿婆擦れ扱いされて一時期は国外追放となったミエナだが、出産後は密かにアランツ王国で暮らしている。
彼女の味方が増えた理由は、その子供の姿が『本当に人間ではなかったから』だ。
王宮ではマリウス王太子のいぬ間に状況を変えさせようと、ミエナの付き人がある交渉を持ち掛けていた。
「ミエナ嬢が産んだ天使様を、正式に神の神子として認定して欲しいと?」
「はい。元婚約者マリウス王太子もルイーゼ嬢と無事に婚姻して、ミエナ嬢は完全に自由の身です。聖霊の子を宿したと言っても、当時は誰も信じませんでしたが第三の目を見れば皆納得します」
「つまり、ミエナ嬢は不貞を行なっていないという見解を公式のものにしたいということですね」
実際に人間の子供であるはずがないため、交渉役は無言で頷くしかない。しばらく考えて、アランツ王国側のメリットをミエナ側が話し始めた。
「まず、この話はマリウス王太子にとっても、有利になるはずです。元婚約者が不貞をした設定が後の世に広がるより、早めにミエナ様の子は聖霊の子という真実を認めてミエナ様の無実を認めた方がお互いの名誉が守られます」
「確かにそうかも知れませんが……」
「王宮側はミエナ様の過去に言及しなくても、天使様を人間ではないと認定するだけで済みますよ。いずれ、過去のいざこざは無かったことになるでしょう」
本来は王宮側の方が立場が強いはずだが、数年ミエナを不貞扱いして追放した落ち度から、王宮側の方が不利のようだった。
第三の目をもって生まれたミエナの子どもが、将来的にどのような存在になるかは不明だ。しかしながら、すでに彼を信仰する者が増えてきており、大きな派閥が出来てもおかしくない勢いである。
このままではミエナを囲う第三勢力に押されて、国の信仰ごと乗っ取られそうな雰囲気まで醸し出していた。
「お言葉ですが、天使様の存在を認めることで我が国へのメリットはそれだけでしょうか。確かに婚約破棄や不貞疑惑は、ミエナさんにとってショックだったでしょう。しかし、その訂正のために天使様を国認定にするのは性急すぎる。ならば、世間体を考えて不貞の訂正だけでも……」
王太子不在の間にそこまで状況を変えることは出来ないと、王宮側の交渉役も多少の粘りを見せる。
「いえね、こんなことを言いにきたわけではないのですが、ルイーゼ嬢に纏わる噂もミエナ様同様にあまり良くないのですよ。パラレルワールドでは処刑されているとか、最後は必ず悪いエンディングを迎えているとか。ここはお互い協力して、奇妙な噂を全て消すのが最善手なのです」
「ルイーゼ嬢に様々な噂があるのは、存じております。パラレルワールドに関しては、よっぽど決定的な証拠がない限りは都市伝説に過ぎません」
「では、よっぽど決定的な証拠があったら。どうしますか?」
ミエナ側の交渉役がスーツケースから取り出したものは、再生不可能と噂の古代遺跡装置の映像データであった。
何かの魔術が追加でかけられているようで、装置に入れて再生が始まる。そこには、パラレルワールドと思われる世界でのルイーゼ嬢や彼女を失い気が狂れたマリウス王太子の姿が映っていた。
「これは……パラレルワールドの様子は、再生不可能だと聞いていたのに」
「ですから、第三の目の魔術を使えば可能なのですよ。そして、どのパラレルワールドにおいても、ルイーゼ嬢は処刑されたり何かの事情で命を失っていたわけですが。天使様が存在するこの世界でだけは存命でしてね、お互い無くてならない因果があるのではないかと」
タイミングよく、外から教会の鐘の音が聞こえた。まるで、天使の存在を認めれば未来が変わると神が促しているようだった。そんなことは思い込みだとしても、パラレルワールドで気が狂れたマリウス王太子が憐れで、何か理由を見つけて縋りたい衝動に駆られた。
後日、ミエナの子供が第三の目を持つ天使であると、アランツ王国が正式に認める文書を発表。
『ねえ。天使様に関する文書読んだ?』
『すごく頭が良い子供の比喩表現が、第三の目らしいよ。ギフテッドってやつじゃない?』
『まぁミエナ様もいろいろあったんだろうし、こうして生活しやすくしてあげるなんて。さすがは元公爵令嬢のルイーゼ様はお心が広いわよね』
この発表について、ルイーゼ嬢との結婚生活を円滑に活かせるために、ミエナとの仲も和解したのだと解釈する者が多かった。天使の存在について比喩表現的な何かが第三の目なのだろうと、まさか本当に三つ目の天使が動き始めているとは殆どの者が想像しなかった。
ルイーゼ嬢の娘と天使と呼ばれる少年が、禁断の恋に落ちるのは、まだほんの少し先の話である。
第一章〜二章の中間エピソードである番外編は全6話です。
第二章は2026年2月以降を予定しております。




