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4-1 2X回目

 液体を滲ませ、てらてらと光っている床に力を入れれば足が沈み、水浸しのスポンジを握りしめたように錆びた匂いの水が溢れ出し俺の革靴どころか隙間から入り靴下も濡らした。

 ぬるついた手でショルダーバッグを漁り、ペットボトルの蓋を開ける。ミネラルウォーターを一気に喉に流し込めば妙なところに入ったようで盛大に噎せた。

 口内から飛んだ水滴が床の水と混ざり合う。じっとそれを見届けた後にふらつくように真ん中の試着室へとなだれ込んだ。

 ハンガーにかけてある服はグレージュのプリーツワンピースだった。たしか雨音と銀座のフレンチを食べに行ったときに着てきた……いや、氷鈴だったかもしれない。あるいは湖晴だっけ?

 誰だって良かった。俺は首を大きく横に振って生地が伸びようが構わずハンガーから無理やりワンピースを引き剥がす。そうして胸元に顔を埋め、ゆっくりと息を吸った。顔を浮かし、吐く。また埋め、吸う。十回ほど繰り返せばいくばくか呼吸が整っていた。まだ心臓や肺は酸素不足を訴え、早く浅い呼吸が止まらない。けど通話を終えた時よりかは断然マシで鏡に背を預け、天を仰いだ。

 「煩い」「お前も同罪」「俺と夕衣の間に入るな」とひたすら怒鳴り散らしたことしか覚えていない。やがて俺が咳き込み無言になった隙を突いて敦也が「もうこれっきりです。アンタの言うことなんか聞かなきゃよかった。成哉も同じ意見です!」と口を開き、通話を一方的に切られた。頭に血が上り、再度会話を試みようとしたものの、一切繋がらない。本当に俺との関係を終わらせるつもりだ。

 別に敦也もその更に下の成哉もどうでもいい。俺のおこぼれにあやかって彼女を作ったものの振られるを繰り返していた馬鹿達だ。切り捨てていい駒で今後一切の関わりを禁じられたとしても何も俺の人生に支障はないのだ。

 夕衣のことを口外しようとするその一点以外は。

「大丈夫……だよな」

 相思相愛になろうと努力を重ねた。出会った日に連絡先を交換し、毎日メッセージを早朝出勤前、昼休み、就寝前と送り続けた。内気で人との関わりを持つのが苦手な彼女は俺がリードしてやる必要があったのだ。そうした努力の先で俺達は恋人となり、俺はそっといつものお揃いのマグカップを夕衣に送った。「同居しているみたいでいいだろ」と胸を張れば、「そうだね」と彼女は俯き頬を朱に染めたではないか。

 なのに。どうして。

 足を投げ出せば試着室のカーテンが一昨日のワンピースのように揺れた。風で揺れて、それから。怒りと失望を滲ませた顔。驚愕に満ちた顔──猛烈な睡魔に襲われて意識を手放そうとした時だった。

 ソファとこの試着室の間に転がったスマートフォンの画面が光る。重い身体を引きずり、四つん這いのまま何とか回収した。

「もしもし」

「やっと繋がった。誰かと話してたの?」

「……関係ないだろ」

 あいつは能天気にも取れる声を弾ませた。嘲笑うの方が正しい。

「機嫌悪そうな声したって無駄よ。私はもっとなんだから」

「俺に八つ当たりをするな。切る」

「再来週の予定だけどもういいよ。忙しそうだし。これ以上話しても無駄だと悟りました」

「ああわかった」

 聞き分けの良い奴は嫌いじゃない。こいつへの評価を少しだけ訂正してやろうと頬を緩ませた途端、咳払いが鼓膜を揺さぶった。

「だから──この電話で終わりにする。別れましょう。連絡はこれっきりにします」

 水浸しのスマートフォンが同じく水浸しの俺の手からすり抜け床を滑っていく。這って手を伸ばせば「驚いた振りをしても無駄だから」と冷徹な声が僅かにスピーカーから漏れていた。

「友達に相談したの。元々危険だから二人きりで次会うのは絶対避けた方がいいとは考えてたけど『そもそももう会うな』って皆に言われちゃった。だからこの電話で私達はおしまい。色々言いたいこともあるけど、それじゃあ」

「待て! 待てよ! お前、散々迷惑をかけてその態度なのか?」

 掴んだスマートフォンが手から滑ってまた床に着地する。面倒くさくなって床の上にスマートフォンを置き、その上に寝そべる姿勢を取った。柔らかな床は絶えず蠕動運動のような動きを繰り返しているがマッサージチェアのようとも言えなくもなかった。耳を床とスマートフォンにくっつける。あいつの甲高い声が大きく鼓膜を攻撃するのはもう諦めた。

「誰が誰に?」

「俺を含め全員だろ。俺達が付き合うまで手助けしてくれた奴等にお前の会社……」

「“勝尾君からマグカップを投げられたのがショックで休んだのは皆同情的に受け入れてくれたわ”。あと手助けって後輩のこと? あの合コン、今考えれば本当に酷かったわね。ずっと二人が勝尾さんにはいつも世話になってる、大学時代から感謝しているって褒めてるだけで……言わせてたんでしょう? 自分が一番私達に良く見えるように」

「何言ってるんだ。あいつらが勝手に俺に感謝して」

「合コン終わりに連絡先を交換したの、自分だけだと思ってるの?」

 罵倒の言葉を飲み込んで、俺は床を拳で殴りつけた。あいつ、バラしてやがった──!

 スピーカー越しにクスクスと嘲笑われている。何度も床を殴っていれば水飛沫が上がり俺の身体に降り注いでいた。

「お前が自分勝手な女だってのは理解した」

 拳を犠牲に、怒りで茹だった思考が落ち着きを取り戻す。この際、もう別れを告げるのは自分からというプライドは今回だけは捨てよう。ただ、今までどおり……いや今まで以上に話し合い、これ以上の悪評をこの女が広めるのだけは止めなければならなかった。

「だからもう一度話し合いの時間をくれないか? 会いたくないなら電話でもいい。池袋の衆人環視の目がある喫茶店でも」

「勝尾君。それ本気で言ってるの?」

 付き合いは情報戦だ。こいつの実家の住所も、燃えるゴミの収集が火曜日と木曜日なのもプレゼントしたネックレスをカラーボックス内のジュエリーボックスにしまっているのも知っている。最寄り駅を七時十二分発の電車に乗り八時三分に下車。東口を出たところにあるコンビニエンスストアでストレートティーのペットボトルを購入し、二十分には職場のビルに到着しているのを勿論恋人である俺は把握していた。

 だからこれは最後の俺からの情けでもある。説得に応じてくれれば“回収”と“破棄”、それから他言無用の約束だけで俺達の関係は清算できる。何よりもう価値のない女に手間を取りたくないのだ。

 床に胡坐をかく。おそらく考え込み黙っているこいつの解答を俺は我慢強く待ち続けた。

「あのね。これも友達に『危険だから』って止められるまで気づけなった私が悪い……いや本当に悪いのは勝尾君だけども。マグカップを“頭に”投げつけてくる男と二人きりでなくとも喫茶店で会うの、馬鹿だなって思ったの。あの時は避けれたけど、目にでも当たっていたら……。だからもう、会わない。本当に怖かったし、一生許さない」

「一生って……ちょっと手が滑っただけのことをよくもそこまで」

「部屋の“グレーのカーテン”と“紺のブラウスとピンクのスカート”。弁償するって勝尾君は言うけど、問題はそこじゃないよね。“アイスコーヒー”をかけるって立派な暴力。その謝罪もなしで物だけ弁償しようとしているの、人として最低よ」

「傷一つも負ってない癖に暴力なんて誹謗中傷だ。訴えればお前の職も奪ってやれる発言を今したんだぞ!」

「訴える、訴えるって馬鹿みたい。じゃあ本当に弁護士さんにでも相談に行けばいいと思います。──洗いざらい勝尾君と“二股相手の代田夕衣さんと私”の関係を自分が正しいと言えるほど恥知らずだとは思わなかったわ」

 呼吸が一瞬止まり、またスマートフォンを落としそうになる。

「ちょっと待て。“日毬”、今……なんて」

 身体に浴びた錆び臭い水が体温を奪っていく。

 今この女……“日毬”は何を言った?

「浮気に気づいてないと思ってたの? 勝尾君、付き合っている女の子全員に同じプレゼントを催促して、同じネックレスをプレゼントをしているでしょう。そして余った物は売ってしまう。夕衣さんと同じ会社でこっぴどく捨てた子が何人もいるのね。私が“付き合って三カ月記念に勝尾君がほしいって言ったピアス”をもらったネックレスをつけて見てたら店頭で囲まれて尋ねられて……偶然って怖いわ」

「お前は俺よりその偶然出会った女達の妄言を信じるのか」

「ええ。大切な“友達”だし、証拠もある。珈琲の件で証拠を取り忘れた失態を私は忘れない」

「証拠?」

 汗と水に塗れた身体が急速に冷える。胡坐をかく足が小刻みに震えていた。

「証拠って」

 吸わなければ、抱きしめなければ。俺は試着室に戻ろうと膝に力を入れる。瞬間ぐにゃりと床が歪み、スマートフォンを落とす。そして仰向けに倒れそうになった。

 背後に粗末な鉄パイプで組まれたソファがあったのを思い出し、何とか頭を両手で押さえ身体を横に捻じった。

「ぐっ……」

 鈍い衝撃に襲われ蹲る。それでも身体の痛みよりも、恐ろしい記憶から意識が離れなかった。勝手に蘇っては再生される記憶が俺を責め立てていた。

 ──俺を見下ろしている誰かが舌打ちをした気がした。

「ええ。敦也と成哉だっけ? 彼等を皆で脅したらあっさり夕衣さんのことを吐いてくれた。三週間前、駅前で勝尾君と夕衣さん、手を繋いで歩いていたでしょう。だから後をつけて、夕衣さんには申し訳ないけど休みの度に張らせてもらった。勝尾君が家まで送るなんて随分と甲斐甲斐しいのね」

 今の衝撃でスピーカーモードになったらしいスマートフォンから甲高い声が響く。敦也と成哉の奴がかなり前から俺を道連れにしようとしていた事実にショックを受ける暇もストーカーかと揚げ足を取る必要はなかった。

 的中してはならない予感が、的中しようとしていた。

「一昨日、夕衣さんのマンションに行ったでしょ? ちゃんと部屋に入る瞬間の写真も撮ってるから。……まあ、一般的に未婚の浮気について慰謝料の請求なんて条件がそろわなきゃ難しいらしいけど、夕衣さんが勤めている会社の他の被害者達と力を合わせればデートDVの証拠は大量に出てきそうだし、それこそ法で戦うのが希望なら民法が適用されるんじゃない? 泣き寝入りさせられていた子達、まずは子分から復讐を始めたようで、次は……こっちの同僚の盛男を失職させる手伝いをしてくれるって言ってた。夕衣さんだけは勝尾君をまだ信じてみるって言って私達と連絡を絶ったけど……まさか夕衣さんに酷いことしてないわよね?」

 ──ああ、こいつも夕衣と同じ目に遭えばいいのに。視界が真っ赤に染まり、口角が歪んで上がった。


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