5-3 刃は平等に振り下ろされる
「正確にはその女性だけでなく、女性が休職した後の半年間に雇ったアルバイトの子にもリーダーと二人でしていたようですが……。まあ、順を追って話します」
半分くらい残っている近場さんのアイスティーのグラスの氷がカランと音を立てる。トントンと指で机を二回弾き、近場さんが淡々と続けた。
「最初におかしいなと思ったのはそもそも席に誰かいた私物が残っていたことです。私が用意してもらった席は前の人のクッションもペン立ても荷物を入れる籠も“誰かが在籍しているように”残っていた。向かいの物置と化していた席みたいに人の痕跡がないのではなく、残さないといけない、片付けられない理由があるんだと思ったんです。席の私物から……決めつけはよくないんですがここに座っていたのは女性だなと判断しました」
「で、でもそれなら」
彼女は何を言っている? 冷水をぶっかけられたような気持ちのままようやく出した声は甲高く響いた。
「女性なら産休や育休って可能性はあるだろう」
「男性でも育休を取る時代だと思いますが価値観の話はいいです。産休や育休の場合、そうやって言いませんか? 特に女性への差別意識が強いリーダーなら『出産ごときで』とか言いそうです。それから針川さんは『前の人の私物』って言い方をしたんです。もう戻ってこないような、戻ってきても困るような発言だと私はそう受け取りました」
「近場さん、それはその……君がさっきから憶測や妄想では。それに前の人の私物をどかさなかったのは知ってのとおり過酷な職場で時間がなかったからで……」
「これだけならそうだと思います。人には例えば入院や手術を伴う病気や怪我、家族の介護等、色んな事情があって急に長期の休暇を取ってる可能性だってあるのは私だってわかりますよ。でも決定的だったのはペン立てなんです。埃被って長い間誰にも触れられてなかったあれに、引き出しがついてたの覚えてます?」
たしかにそんなことを近場さんが始めて言って知ったのだった。あれは、彼女の私物はどうなったんだっけ? 今回の大幅な異動ついでにたしか人事部が全て回収して、女子更衣室のロッカーの中も……。女子更衣室?
“あいつ”が休んでいるし、何より女子更衣室だから僕もリーダーも一度も足を踏み入れてない。あそこはアルバイトに来た女と定期的にやってくる清掃員しか入室していないのだ。
わなわなと震える唇を誤魔化そうとメロンソーダを飲み干そうとして盛大にむせる。近場さんがそっと紙ナプキンを僕に差し出した。
「あの席の本来の在籍者が休職前にどんな状態だったのかはわかりません。ただ、引き出しの中に小さいメモがあって書いてあったんですよ。『この席で私の代わりにバイトに入った子へ。針川と矢野尾はセクハラとパワハラをしてくるから気をつけろ。されたらすぐ逃げろ』と。それから更衣室にも同じ置手紙がありました。あなた達にされた仕打ちの一部が書かれていて、警戒しようとそう決めました」
「でたらめだ。そんな……あいつは、そんなものを残せるほど」
「残せるほど……?」
喉奥が引きつって悲鳴が上がる。近場さんは相変わらず子猫を見つめるような優しい笑みを湛えていた。
「あとはまあ、針川さんが散々毎日聞かせてくれた録音データですね。えっと、ちゃんとは覚えてないんですが……まず『ここの社員がまた減っちまうことになるぞ。お前が一番わかってるだろ』でしたっけ? まるで針川さん次第で、社員が減ったことがあるみたいな言い方でしたね。その後の『本当、ひでぇ奴だよな』も不思議じゃないですか。リーダー自身、セクハラとパワハラをしている自覚があったのにここだけは明確に“針川さんが何かをした”と言っている。それから『一蓮托生』も今考えればおかしいんですよ。針川さんがリーダーにICレコーダーを突きつけた後にも言ってました。──同じことをしたように」
「なあ、近場さん。僕は被害者なんだよ。あの矢野尾リーダーに二年以上傷つけられてどうすることもできなかった弱者なんだ。そんな人を休職に追い込む気力なんて」
「別問題です。いや、リーダーが仕事のストレスをあなたにぶつけて発散していたように、“針川さんはリーダーからのパワハラのストレスをその女性やアルバイトの人間にぶつけて”発散していたんじゃないですか?」
ガタン、と椅子が勢いよく後ろに吹き飛び、後ろの席の会社員が「うわっ」と声を荒げた。直接身体に当たってないからいいだろう? 器の小さい奴め。
「ど、どど……」
ズキンと鋭い頭痛が左側頭部を襲う。頭を押さえていれば、店員が奥から近づいてきて、近場さんが何かを言って頭を下げれば戻っていった。ふらつきながら椅子を戻して座る。脳内で悲鳴が、笑い声が……声がした。
──すみません。針川さんあてにお客様から苦情のお電話が……いえ私でなく針川さんを出せと。……あの、私に全て任せて先に帰ろうとするのやめてもらえますか。せめてこのお客様と何があったかは教えていただかないと。
──褒めていると言われても困ります。職場で身体を揶揄するような発言はやめてほしいって言ってるんです。
違う。だって受け入れない。お前が悪い。鋭い頭痛が今度は右側から。この世で一番聞き慣れた男の声がした。
──何でそんなミスをするんだ。もしかして生理? 股から血ぃ出してる暇あったら脳に栄養回しなよ。
──僕がスケジュールフォルダに何も入れてないから伝わってない? はいはいはい! すぐ人のせいにして……気ぃ遣えよ疲れてるんだから。あのね、僕の方が一年年上なの、わかるぅ? だから僕のスケジュールくらい察して行動しろよ!
「どうして、そんん、なわけ」
近場さんが深く息を吐く。
「置手紙にも書いてありましたし、確定ですね。……リーダーはあなたを虐げ、あなたはあの席の女性をリーダーと一緒になって虐げた。そもそも妙だったんですよ。暑気払いの繁忙期のための短期バイトだと聞いてたのに、半年前から二人体制になって何人ものアルバイトが仕事でミスを犯しただの、すぐに逃げていったとそう言ってましたよね。繁忙期だからじゃなく、ずっとあなたとリーダーのストレスの捌け口として必要だっ……」
「もっ……もういい!」
リーダーみたいに机を叩けば、一瞬店内が静まり返る。メロンソーダとアイスティーがゆらゆらとグラスの中で揺れていた。
──いい加減にしてください! 個人的な付き合いはできないと言ってるじゃないですか!
──あれは針川さんのミスだったじゃないですか! どうして私のミスだとリーダーに報告を……! リーダー! 信じてください!
脳の奥であの女が、後輩が僕を叱責する。被害者の僕をどんどん追い詰める。あの女の眉をつり上げた顔を思い出す。そんなものは見たくないのに、“見ないようにしていたのに”、近場さんのせいで向き合わされている。
こいつで失敗したからあの馬鹿なリーダーと違ってセクハラ発言はやめたのに。
頭痛が酷い。周囲がまた喧噪を取り戻したのに、一番大きくあの女の声がした。
「何が」
近場さんの表情にもう笑みはなかった。ただ真っ直ぐに哀れなものをみる瞳で眉を下げている。
「何がしたいの。近場さん、僕にこんなことを伝えて」
「矢野尾リーダーの件で人事部の聞き取り調査を女子更衣室で受けた時、当然置手紙を渡しましたし、ペン立ても回収されました」
ビクンと両肩が跳ね、背筋が震えた。そうだ、だからもう。
「本当に偶然なんですが、あなたが休職に追い込んだ女性はかなり快復したらしく正式に証拠を集めてあの日人事部に連絡を入れていたそうです。……『絶対に許さない』とそう言ってました」
「会ったのか?」
「私がアルバイトをしていたら八日目になっていた日に人事部でそちらのパワハラの件も事情を聞かれて」
「証拠……証拠ってなんだ! なあ、教えてくれ。あいつは何の」
手を伸ばし近場さんの両肩を掴む。揺すっていれば、遠くで何やら大きな音がしたけど構わない。胸倉を掴もうと右手をスライドさせれば、近場さんがじっと僕の瞳を覗き込んだ。
「ひっ」と舌がもつれ、喉が引き絞られるような感覚が走る。憎悪のような激しい怒りが瞳の中で燃え滾っていた。
両手を離し、へなへなと席へ尻を落とす。全身の力が抜け、溶けていきそうな錯覚がした。
「証拠……」
ハッとして、口を押える。何を用意されているかわからない。けど僕が一番知っているじゃないか。僕の左ポケットで僕を支えてくれていたものを、あの女だって持っている可能性をどうして今まで気づかなかったんだろう。
「針川さん」
悠長にアイスティーに手を伸ばし、飲み干す。首を大きく横に振って、グラスをゆっくり置いた。
「針川さんもリーダーに理不尽に虐げられていたんだと思います。私は専門家でないので詳しいことは何一つ言えませんが、もし心身共に傷を負われて不調があるなら医療機関等を頼って正しいケアを受けてほしいです。でも、あなたが理不尽に後輩を虐げていたのも事実なんです」
「僕はどうなるん……」
「私にはわかりません。完全に別問題とするか、情状酌量の余地ありと判断されるかも……被害者や法律や会社が決めることじゃないですか」
スマートフォンがぶるぶると震え、通知が表示される。新しいリーダーからで、「人事から半年前の件で連絡……」とメッセージが途切れていた。
全てが、終わったとようやく気づいた。
近場さんが二枚の領収書の内の一枚を手にした。
「では私はこれで。伝えていいと言われてましたし、私自身どうなったか知りたかったので」
立てかけていた日傘を持ち、立ち上がる。僕は俯いたまま、身体を震わせていた。
「化け物……」
「はい?」
ようやく、言葉にできたのはそれだった。
「君、おかしいよ。だって……だって君が初日から今まで、“パワハラのこと知ってたし被害に遭ってたのに、リーダーと僕を破滅させるために無茶をしていた”ってことだろう? 僕がナイフを持っているのに、自分が殺意を向けられているのに背中を向けて……そこまでしてリーダーを告発した。……そして、次は僕だ。わざわざ自分の席にかつて座ってた人間のために会社に呼び出されて、今日ここまで来て末路まで眺める気だ! まるで僕達に報いを受けさせるためにバイトを続けてたみたいじゃないか」
「え? そうですけど」
「そんなの、正気、じゃ……ない」
時折近場さんから感じていた違和感をようやく吐き出して、僕は更に身体を震わせた。彼女は優しさと残酷さを同じ熱量で切り分けて共有できる。さっきの僕の心身の不調を気遣った言葉も間違いなく真実で、僕をリーダーから助けたい思いも本物なのだ。けど同時に僕の理不尽な行いを彼女は許していない。そのためにナイフに背を向けもする。
彼女は僕達の過去の行いを裁くために、存在していた。
そこに一切の躊躇いがなかった。無茶ができてしまっていた。その苛烈さが時折顔をのぞかせて僕の背筋をがたがたと震わせていたのだ。
「うーん」と近場さんがランチのメニューを悩むような調子で唸る。そうしてポンと手を叩き、きっと笑顔でこう言った。
「たしかに無茶をし過ぎましたね。勉強になります! ……では」
喧噪の中で足音が離れていく。どこかに行って二度と顔を見せないでくれ。頼む、どうか。助けてくれ。
何に祈ればいいかもわからない。けど、僕の心はこれからの破滅への絶望と近場さんが遠くへ行ったことへの安堵で埋まっていた。




