4-4 僕と彼女の怒り
部屋の温度が下がった気がした。
近場さんはじっと僕に背を向け、リーダーの方を微動だにせず見つめている。
僕は近場さんの背後でその背とリーダーを交互に見つめ、リーダーは僕なんか見向きもせず、大きな口を開けて手のひらを突き出したまま近場さんに視線を向けていた。
パワハラ。パワーハラスメント。
この場にいる全員がその言葉が何をさすのか理解している。僕が二年と数カ月耐えてきたもの。リーダーが僕に行ったもの。近場さんの目の前でたった今繰り広げられたもの。
特にリーダーは自分の行いがパワハラに該当するのをちゃんと理解していた。だからこそ、僕に送ってくるメッセージの文面は全て“まともな上司”面したものだった。証拠を残さないように立ち回っていて、小賢しいと溜め息をよく自宅でついていた。
フフッとリーダーが君の悪い声で唇を震わせる。侮蔑と呆れが混じっているのが明らかだった。
「近場さぁーん」
リーダーが腕を下ろし今度はわざとらしく口元に手を当て、笑いを堪えるポーズをとった。
「わかるよぉ。たしかに今、僕は針川君を怒鳴りつけた。うんうん、よくあるパワハラの構図だ。けどね、親が子を叱るように“怒鳴らなきゃいけない”時ってのが存在して、それが今だったの。針川君のミスが原因でお客さんと取引先の店に損害が行くところだったし、社会人は勤務時間を守らないと最悪クビになってしまうんだよ。学生は遅刻、早退ってちょっと内申に響くだけかもしれないよね。でも社会人はそこでこの会社にとってその人は必要な存在かってのを篩にかける。だから俺は針川君のためを思って悪者になったわけさ。そういうところをこれから学んでいって」
「先ほどの発言は針川さんの仕事のミスや勤務態度を咎める範疇を超えた人格否定だと思います。えっと……すみません針川さん。嫌な記憶を思い出させてしまうかもしれませんが『無能、愚図、のろま、役立たず、寄生虫に害虫、お前を置いておく場所はこの会社にはない、何のために生きているんだ』でしたっけ? これ、仕事のミスや勤務態度を叱るんじゃなく人格否定ですよね? 訴えられたらリーダーが負ける範疇だと思うんです」
「だーかーらぁ! バイトの分際で何で会社の方針を否定するかなぁ!?」
「会社の方針の話なんですか? でしたら会社自体が社員を『無能、愚図、のろま、役立たず、寄生虫に害虫、お前を置いておく場所はこの会社にはない、何のために生きているんだ』と思いながら雇っていることになるんじゃないですか」
「脅してるんじゃねぇぞ! それこそ脅迫罪で訴えてやる!」
リーダーが机の棚を激しく数回蹴り上げ、僕は肩を跳ねさせた。しかし、近場さんはぴくりとも動かなかった。
「じゃあ、私も今の発言を脅迫罪で……とやり返すなんて話をしてるんじゃありません。とにかく一連の言動は全部パワハラなのでやめてもらっていいですかと上司であるあなたに訴えているだけです」
「ただのバイトだろ!? それにお前に言ったんじゃねぇ、女の後ろで縮こまっている玉無しの針川に……」
「あと僅かですがアルバイトとして雇われている身です。正当な主張だと思いますが。それに針川さんを庇ってるんじゃないですよ。間接的被害っていうじゃないですか。私は自分の身に降りかかっているパワハラをやめてほしいと言ってるだけです」
ちらりと近場さんが振り返る。その瞳に謝罪ではなく強い意思を感じ、僕は目を見開いた。
何かを僕に訴えている。僕を庇っているのではないのにだ。
──まさか。
都合の良い妄想が急速に頭の中で膨らんでいく。でも、そんなことありえない。だって。
ガアンと金属音がまた数回鳴り響く。リーダーの荒い息がこちらまでかかってきそうなぐらい大きく口を開けて肩で息をしていた。
一方近場さんは本当に動かない。淡々と主張だけを述べている。
これがあの純真無垢な、無知で愚かな近場さんなのか。背筋が凍りつくような感覚に包まれて、僕は一歩後ろに下がろうとした。
「針川さん! 動かないでください」
すると近場さんが肩をいからせて声を張り上げた。反射的に返事をすれば、一瞬上がった肩がまた戻っていく。
何故、僕に? そんな疑問を考える前にリーダーがまた唇を震わせていた。
「たかが一週間にも満たない時間しか過ごしていない奴の何がわかる!? いいか、針川はこの二年、ミスをし続けては俺や当時いた連中にも迷惑をかけ続けた。これくらい言わなきゃやってられないんだ! ……もしかしてお前らデキてるのか? だから急に庇い始め……」
「関係を持っているかと聞かれたら一切ありません。それから針川さんの社員としての能力も関係ないんですよ。針川さんがたとえリーダーの言うとおり“無能”だとしても許されない発言をしていると言っているんです。あと、ええと……」
またちらりと僕の顔を近場さんが見た。相変わらずじっと何かを訴える瞳を向けて、そしてすぐにまた前を向いた。
「間接的と言いましたが、今のは直接的なセクハラ発言じゃないですか。……というより『胸がデカいことしか取り柄がない。胸の開いた服を着てこなきゃ価値がない』……でしたっけ?」
「何で知っ……!」
ハッとリーダーの顔から血の気が引いていく。振り乱した前髪が額に張りつき、だらんと顔の前に垂れ眼鏡に引っかかった。
肯定以外の何物でもないリアクションだった。
というか、え?
リーダーと同じ台詞を吐き出したいのは僕の方だった。血の気が失せた顔のままリーダーが僕の方を睨む。黙って首を振って、返事をした。
今の発言は近場さんが帰宅した後のリーダーと僕の会話だった。だから知っているはずがないのだ。実は近場さんが帰宅せずに扉の外で耳を澄ましていたとしても防音性の高いこの部屋の会話は聞き取れやしない。そして近場さんがそれを知らないのは“一番僕が知っていた”。だからありえないのだ。でなきゃ、知っていたとしたら……。
先ほどの冷たい目を思い出す。もしかしたら、やっぱり。
近場さんが小さく息をついた。
「リーダー。私は自分の身の安全を確保して、アルバイト最終日まで働きたいだけなんです。“ナイフで刺したり殺そうとしたりしようとしてるんじゃない”んですよ。でも、この環境が続くなら話は別です。リーダーからすれば『近場はバイトなんだからバックレればいいのに』と思うかもしれませんが、少なくとも今はここは私の“居場所”です。だから正当なパワハラの証拠を元にあなたと今交渉しているだけなんです」
心臓が飛び跳ね鼓動が早くなっていく。やっぱり、近場さんは。都合の良い妄想が、現実味を帯びていく。でも、僕は。
「正当な証拠ぉ? ……何を持ってるんだ」
「交渉中なので手を明かしたくないです。でも“出そうと思えば、すぐに”」
「ガキが。嘘ついてんじゃねぇぞ」
リーダーが低く唸る。それでも近場さんはやはり怯まない。
「嘘かどうかはもうすぐわかると思います。ただ、これだけは言わせてください」
ああん? とガラの悪い声を上げたリーダーを無視して、近場さんが一度身体ごと僕の方を振り返った。殆ど変わらない目線がかち合う。
「乗るならチャンスですが、自由です。……それから右手は“私は”許します」
囁き声が小さな唇から僕の鼓膜だけを揺さぶった。
鼻の奥が痛んで、でも涙は出ない。そうしてまたリーダーの方を向いて、電話でお客さんを相手しているような口調で語り始めた。
「平和主義者なんです、私。怒るのは疲れてしまうし正直避けたい。だからこのアルバイトも賃金に見合う仕事だけして円満に別れたいです」
「じゃあ黙って従ってろよ! なあんでそんな奴を庇って俺が責められなきゃなんねぇんだ。おかしいだろ!」
「それは違くないですか? さっき居場所と言いましたが、他人の居場所を理不尽に脅かしているのはリーダーじゃないですか。あ、でも“どうやら私も知らずの内に他人の居場所を脅かしていたらしいので”罪滅ぼしも兼ねています。……私、悪くない気がするんですが“さすがに怖いので”」
血の気が失せていくのは僕の番だった。ふらついた身体を何とか壁に手をついて支える。
やはり近場さんは、僕の右ポケットにナイフがあるのも、そしてナイフの矛先がリーダーと自分であったのも全部気づいている。
僕が居場所を奪われたと近場さんを恨んでいて、行った所業も。つまり──
「何を言ってるんだ? 人に喧嘩売っておいておかしくなったのか?」
「喧嘩? そんなに好戦的じゃないです。怒鳴って人格を否定してくるあなたがとても恐ろしいので、やめてほしいと主張してるだけじゃないですか。“ナイフを持った人間に刺すなと訴えて何が悪いんですか”」
ほらやっぱりと思えば思うほど気道が窮屈になり、息が吸えなくなっていく。近場千花は全部気づいている。だから。
ボロボロと心の中で何かが剥がれていく感覚に襲われた。胸の奥がむずむずとして、涙が一滴だけ零れていく。疼く度に思考が澄んでいく。狭まっていた思考に、“間違い”に気づいていく。
使い物にならなくなった右ポケットの中身に意味はもうない。じゃあ、僕は。
乗るのは自由なら、どうするべきだ?
内定を獲得した時のガッツポーズが、初任給で両親をレストランに連れて行った時の目尻の涙が脳内で再生された。日々の業務ですり減った心で「実家に帰る暇なんてない」と語気を強めた時の母親の息を呑む音がスマートフォン越しに聞こえて罪悪感に震えた夜が、出向が決まって意気揚々とこの部屋の扉を開けた日が、リーダーの悪意に晒され、土下座を始めて強要された日が、人格どころか生を否定された罵倒が脳を巡った。
理性では答えは既に出ていた。けれど、どうしてもと思ってしまう。
この場所は僕が努力して心をすり減らして守った居場所だ。かつて夢を抱えてやりがいを胸に入社した先へ向かうための唯一の道だ。
俯けば薄汚れた床が視界に飛び込んでくる。誰かが零した珈琲がそのまま染みになって残っていた。埃と脂ぎった毛髪が所々に散らばっている。
こんな場所にしがみつく意味がないのなんてとうの昔に理解していた。居場所は世の中のどこにでもあると知っていた。すり減った心と身体の不調が、それを認めずに留まる選択肢しかないと、“そんなものは見たくない”と自分自身を信じ込ませていた。だって認めれば僕の二年余りの苦悩は意味がなくなってしまう。
報われたい。だらんと下げた右手を握りしめた。
だって二年以上耐えてきたのに。震える膝に力を込めた。
でも心が冷たくなって動かない。
僕は──
「それでもリーダーが要求を呑んでくれないのであれば、私は本日付けでここを去ります。リーダーのいう“バックレる”をしようと思います。だって」
小さな息遣いと大きな唸り声が戦っていた。
「腹が立ちますから。私が逃げるのでも極論構わない。あなたみたいな人を私から離して一つの縁を切ってやるのが、私の復讐です。──それくらいの怒りは正しくぶつけさせてください!」
怒り──たったそれだけの単語が、脳全体を震わせた。血液が巡っていく。心の臓が熱く、思わず右手で胸を押さえていた。
正しく、怒る。近場さんに居場所を取られまいと逆恨みしたのとは違う。正当な自分の権利を守るための主張。
ずっと、持っていた。ようやく僕は自分の本心に気づいた。
僕はこんな職場からとっとと逃げてしまいたい。少なくともこの出張所からは。新しい居場所はきっと別にある。その決意をして、正しく怒ろう。出世から外れてしまったら転職を考えたっていい。だって。
近場千花という殺意を向けられても許してくれる存在が味方なのだから怖くはない。
「リーダー!」
腹から声を出そうとしたのに掠れた。舌がもつれそうになる。麻酔を打った後みたいに口の動きが不安定で感覚がない。
“左”ポケットに手を突っ込み、今度こそ勢いよく引っこ抜く。鈍く光るそれを突き出しながら、僕は近場さんより前に、リーダーの机の前に立った。
「いっ……今までのパワハラの……。暴言は殆どICレコーダーでし、証拠とっ取ってます! これを人事に提出して相談します。人事が駄目なら外の労基に……」
だって僕はずっとICレコーダーを持ち歩くためにスーツを真夏でも着続けたいと嘘をついたのだ。いつでも復讐できるように! 居場所を失いたくないのに、居場所を破壊するための証拠を僕は二年余り集め続けていた。相反する感情の片方をようやく選び取ったのだ。
「ふざっ……!」
リーダーが顔を真っ赤にして机越しに僕に掴みかかろうとする。避ければそのまま前のめりに上体を倒し散らかった机に強かに顔面を打ちつけた。
「針川ぁ……一蓮托生なのを忘れたのか」
眼鏡のフレームが歪んでいる。鼻の頭に消しゴムの消しカスが付着している。それでもICレコーダーを奪おうと手を伸ばしてきて積まれた書類が宙を舞った。
「寄越せ! そんなもの盗撮だ! 人権侵害だ!」
誰もいない席の方に僕が逃げ、リーダーが後を追おうとしたその時だった。
まだ営業時間前なのに着信音が鳴り響く。僕達は全員、正確には近場さん以外は動きを止めた。
こんな状況なのに近場さんはそっと受話器を取る。そしてただ「はい」とだけ、通話先の人間に返事をした。
「リーダー」
近場さんが顔から表情を失くす。あえてそう、演技しているようだった。
「人事部からお電話です。理由はここに来ればわかるかと」
「針川さんも見ますか」と小首を傾げられる。僕達はあんなにいがみ合っていたのに足早に近場さんの机へと近づいていった。
リーダーの絶叫と僕の驚きの悲鳴が同時に上がる。膝から崩れ落ちるリーダーの隣で、僕はただ“そこ”から目が逸らせなかった。
──さっきのカスハラ対策のシステムだけどね。あれ受話器の向こう側、要はお客さんの声を拾うのは勿論なんだけど、こっちの声もかなり広範囲で拾うの。
迷惑客の通話ログを記録するシステムはたしかに僕達三人の会話を共有していた。
ああ、証拠ってこれか。彼女は最初からリーダーのパワハラを許すつもりはなかったんだ。
全身の力が抜け、僕も薄汚い床へと座り込む。すると近場さんがそっと寄ってきた。
リーダーは泣きながら言い訳を繰り返している。あのシステムで全部を見ていたとなれば、もう何を弁明しても無駄だろう。
「あんなこと言って最初から僕を助けるつもりだったの?」
リーダーの醜態を見ながら呟けば、近場さんが困ったような声を出した。
「本心が望んでいる方だったら、ですね。それが途中まで確証持てなかったから探ってたんですよ」
「どっちにしても私の労働環境のために訴えるつもりでしたが」と付け加え、首をコキコキと鳴らす。「結局僕を助けてくれるつもりだったんじゃないか」と漏らした一言に返事はない。こんなバイトの女の子の手のひらの上だったのか。でも清々しい気持ちだ。
予約が始まる前までに決着がつけばいいけれど。そんな客を気遣う感情が久しぶりに湧いてきて僕は隣に立つ女の子に温かい気持ちを抱くのだった。




