4-3 僕は刃を握りしめた
「君ねぇ。自分に酔うのやめな? わかってるの? 近場さんが来る前日もミスをして客に謝罪してたよね。気の緩み、向上心の空回り……そもそも向上心を本当に持ってる人間は気なんて緩まない、矛盾してんの。なのに“それっぽい”理由と弁明を並べてこの場だけをやり過ごそうとしているのがはっきりとわかる。だってここに来てから二年以上ずっと君は」
頬肉が動く度眼鏡のレンズが上下する。目の前で醜い人形が動いている。そんな認識のまま、震える下膨れの贅肉を見つめていた。
「失敗続きだ。まだ他に人がいた頃、システムのエラーの報告のメールを数日誰にも伝えず無視して先方が怒りの電話をかけてきてから何週間終電帰りだったと思っている? 『あと一時間以内に返事をしなければならないんです』なんて点検に半日かかる作業を俺のところに持ってきた時は殴らなかっただけありがたいと思ってほしいよ。とにかくすぐやれば済む問題を先延ばしにして忘れることが多い! 何回も繰り返す理由がわかるか?」
わかるに決まっている。僕が先方から仕事を引き受ける、重要な伝達があった時を狙ってリーダーは心底どうでもいい話から今みたいに過去をほじくり返す説教を始める。何故かって、僕を怒鳴れる”正当な理由”を作れるチャンスだからだ。二年と数カ月、ストレスの捌け口を作るために僕を何度も陥れてきていた。
「気の緩みだとか向上心が空回りするだとか本調子じゃない場合のミスじゃないんだよ。俺はずっとそんなお前を無能だと、だから会社に貢献できるよう少しでも有能になれと叱ってやっていたのに無駄だったのが今よおくわかった。……無理なんだ。だってお前は元々そういう人間なんだから」
「え?」
思わず出た声にリーダーの顔が真っ赤に染まる。いつもなら慌てて頭を下げるが今日は違った……はずだった。
途端、いつも説教されている時の息苦しさが何故か蘇る。指先が何故か震え始めていた。何で、どうして。自分に問いかけるが答えは出ない。
無能だと罵倒された。愚図、のろま、馬鹿、役立たず、欠陥品。産んでくれた親に謝れ、こんなこともできないでよく給料をもらえるな、ガキの方が賢い、何のために生きてるんだ、価値がない……“お手本”のような罵声をずっと浴びせられても耐えてきた。殺すぞ、次失敗したら階段から突き落としてやるなんて暴力も仄めかされた。それでも加害者が被害者を屈服させるために使う根拠のない悪口だと自分に言い聞かせ“居場所”にしがみついてきた。
なのにこの全てを終わらせる局面になって僕の身体はまた不調を訴え始めていた。凪いでいた心に波紋が広がる。
リーダーが目を細めてニタニタと笑みを作っている。なのに、今まで見たことがないくらい視線が冷ややかだった。
「無能無能だと、ずっと有能になれと何度も注意したが、お前は無能ですらなかったんだよなぁ。“気づかなくてごめんな”、針川。無能だったらまだよかったんだよな? 能力がないだけで何も生み出さないで……仕方ないぜ、向き不向きはあるしそういう奴を支えるのが社会の一員である俺達の役割ってものだからな。成果ゼロでも仕方がないさ! でも、お前は違う。何でも自分でできると思い込んで、一人で全部やろうとして、“俺達の足を引っ張る”。気の緩みだの向上心の空回りだの、全部他人のせいで、お前は他人を自分の都合のいいように利用しようとして、“誰のことも人間として見ていない”。全部自分を引き立てる道具とみなして何もかも壊しちまうんだ」
血の気が引き、背筋に冷たいものが走った。誰も見ていない? 振り返って近場さんを見る。薄べったいクッションが敷かれた椅子に心配そうな顔をしたアルバイトの女。ちゃんと“見ている”。こいつはただの僕の人生を脅かす障害だ。居場所を奪う加害者として……あれ?
ちゃんと見ている、はずだ。リーダーも近場さんも僕を脅かす障害で敵で……。
「ち、違い……」
僕は被害者だ。僕は何も悪くない。一人頑張って生き延びた、弱者だ。
「いいや違わない! 役立たずって前言ったよな? 愚図、のろま、役立たずだってお前に何度も発破をかけて成長を上司として願っていたよ。鉄は熱いうちに打て……なんて言葉も馬鹿にはわからんか。お前を有能に育ててやろうと俺はずっと厳しく指導してきたんだよなぁ。けど、無駄だった。俺の言うことも人間が話してる言葉じゃなく、自分を不当につぶしに来た化け物の鳴き声だと内心無視を決め込んでるんだろうぜ。だから何を言っても変わるわけがない! 無能なんて言ったら世の中の頑張っている無能達に失礼だ。戦力としてゼロどころかマイナスしか出せないお前はただの寄生虫だからなぁ! 何のために生きてるんだ。害虫が!」
リーダーが机を手のひらで叩いて、唾が僕の机に飛んだ。眼鏡を外し汗を灰色のハンカチでリーダーが拭く。薄い灰色が濃く染まり、生乾きの洗濯物の匂いがした。
握りしめようとした手が震えて拳を作れない。眩暈がして、リーダーがぼやけて何重にも見える。ゴウゴウと血液の流れる音が耳元でして、やかましい。
「違います、そんな」
僕は悪くない。お前のせいで仕事ができなかっただけだ。
「何が違うんだ。あ、そうだ」
カラン、と音がして僕は机に何とか視線を落とした。会社の備品のボールペンが転がっている。投げられたのだと、一拍遅れて気がついた。
「辞めちまえよ、針川。退職届……辞表だっけ? どっちでもいいや。お前を置いておく場所、この会社にはないんだわ。便箋なんて高価なものはお前には勿体ない。印刷ミスした紙の裏側にでも書いておけや」
吸う息は氷みたいに冷たいのに、吐く息は熱湯みたいに熱い。獣みたいに浅い呼吸にリーダーが「気持ち悪いなぁ!」と叫んだ。
「違う」
「だーかーらー。違わないだろ。俺から人事課に連絡しておいてやろうか。『寄生虫は人間の社会には馴染めないので辞めます』って」
「違うって言ってるだろ」
「ああ?」
どっちが寄生虫だ、僕に寄生してストレス解消しなきゃメールの一つ返す集中力すら続かないのに。僕はちゃんと観察してそれを理解していたから、仕方なく我慢してやっていたのに。誰かをモノ扱いしなきゃ生きていけないのはお前じゃないか。お前が悪い、僕は被害者だ。お前が、お前が!
震えた手がようやく両ポケットの中に入った。右の冷たい感触に、安堵する。消さなきゃ、何も予定は変わらない。
動け、僕の右手。どうか。この“化け物”を倒すために!
血液が右手に循環していくような錯覚に囚われ、ポケットの中で僕はナイフを掴む。
出して、ケースから出して、刺す。昨日何度もシミュレートしたはずだ、あのデカい腹に、とりあえず刺されば!
柄をしっかり握った瞬間、世界がスローモーションで動き始めた。リーダーがポケットに手を突っ込みだした僕を見て、「やはりTPOすら理解していない奴を……」と言おうとしていた気がする。でもその唇がゆっくり、蚯蚓みたいに、うねうねと動いているのしかわからなかった。
音が消える。視界が白と黒に染まる。ゆっくり柄が、ポケットから出ようとする。右手をポケットから取り出しそのまま机の向こうに突っ込もうとして左足を上げた。
「死……」
「待ってください!」
両肩を中心に後ろに身体が引っ張られる。うぐ、と呻いて“何故か音が聞こえたのを疑問に感じた”。
「針川さん。待ってください。どうか、そのまま」
振りほどこうとすれば可能だった。だが、身体が動かない。動きたくなかった。視界に色が戻る。スピードも何もかもが返ってくる。
女の声だった。背後から僕のスーツの背中あたりを手で掴んで、淡々と言葉を投げかけてきた。
「もう大丈夫ですから。そのままで」
何が大丈夫なんだと問う前に足がもつれかけ、上げた左足をそのまま下ろせば靴越しに足に痺れが走る。リーダーが呆然と僕を見つめる。手のひらを顔の前で突き出したままだった。僕に殴られると思ったようだ。
全身の毛穴が開いたように汗が噴き出したのがわかった。僕は、今、人を始めて殺そうとした。妄想の中でなく、本当に殺める前だったのだ。それを望んで出社したというのに、心臓がドクドクと早く鼓動を打ち、半開きのままの口が乾いていった。
右手から力が抜け、スーツの右肩が少しだけ重くなる。ナイフを手放していた。
僕には無理だ。人を殺すなんて、そんな。
身体からただ力が抜けていくのがわかった。
「失礼しますね」
見計らったように、スーツから手が離される。ゆっくりと狭いスペースを身体を捻じって進んでいく。
僕の目の前、つまりリーダーと僕の間に女にしては大きな背が立ちはだかった。
「……近場さん?」
「あの……ずっと思ってたんですけど」
僕から近場さんの顔は見えない。けれど、いつもの電話応対後にペットボトルの蓋を開けている時の少し困ったようなホッとしたような顔をしている気がした。
そんな考えが過れば、ふと近場さんが一瞬だけ振り返り、目が合う。僕はそこで自分の考えの浅はかさを悟った。
「リーダー、今までのやりとり全部パワハラですよね? そういうのよくないと思いますよ」
いつもの世間話をしている調子で彼女は腕を組んだ。
僕に一瞬だけ見せた瞳だけが、さっきのリーダーよりも冷たくぎらぎらと光り輝いていた。




