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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
3.後編 近場千花は夢を見たくない
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4-1 清々しい最後の出勤

 学生時代に買ったナイフは小さく斜めにすればスーツのポケットにもぎりぎり入る代物だった。

 当時、本格的なキャンプをしたかったのではなく、ただ“キャンプを楽しむ自分”というものに酔っていた。なので僕達はテントも何もかも用意された宿泊施設に行っていて、正確にはグランピングと呼ぶものだけを体験した。用意された焼き肉店の机のようなバーベキュー台で肉を焼き、用意された焚火セットに火を灯すだけ。だからナイフは必要なかったのだが、どうしても購入したかった。刃物だというのに、子どもがヒーローに変身する時計のおもちゃをほしがるように僕はバイトの給料で購入した。結局家で野菜を数回切ってそれでしまい込んでいたけれど、まさかこんな形で使うことになるとは。既に蒸し暑いアスファルトを歩き、ICカードに千円だけチャージして改札を潜る。昨日、ポケットに入れていた以外の荷物は会社に置いてきてしまったのだ。電子機器と財布をポケットに入れていた自分に拍手を送ってやりたい。

 ポケットに入るからといって、さすがに通勤中にナイフを忍ばせる勇気はない。クローゼットに乱雑にしまわれていた就職活動時代の黒い合成革の鞄を引っ張り出し、最低限の荷物を詰めた。スマートフォン等はいつものポケット。だからナイフと着替えとビニール袋だ。刺したら返り血を間違いなく浴びる。もう人生が“詰んでいる”んだ。逮捕されても構わないが、それまでに少ない貯金をはたいて寿司でも食いに行きたい。だからある程度の逃亡時間は確保したくて用意した。久々に職場に向かう足が羽でも生えたかのように、軽い。

 早めに来いと言われたから、いつもより前の電車に乗り込んだ。水色と黄色が混ざったかのような空がゆっくりと窓の外を流れていく。保身も夢も何もかも考えなくていい世界はこんなにも綺麗だなんて。門出には良い朝だと微笑めば対面の席に座っていた会社員が目を逸らした。

 オフィスの最寄り駅前からスキップでもしそうな勢いで、足を進める。これから行うことに反して、まるで親から欲しかったゲームをプレゼントされた後のような心地よい興奮に支配されていた。

 これから僕は人を刺す。なのに、楽しい。当然だ、正当な復讐なんだから。

 昨日嘔吐したビルの隙間を通り越して、ビルの入口を潜る。トイレに行っていつもの儀式。ポケットに必要なものを鞄から移し替えた。今日は右にナイフを入れる。見えないようにしつつ、すぐさま取り出せそうに個室で調整をした。

 階段を上がり、オフィスの扉の前に立つ。そういえばリーダーに返事を一切していないなと他人事のように思い出す。まあいいか、今日でお別れだし。一度深呼吸をして、ドアノブに手をかけようとしたら──

「おい」

 ドアノブが下がり、扉がひとりでに開いていく。思わず後ずさりをすれば、腕を思い切り掴まれた。

「本当に早く来たことだけは褒めてやる。……入れ」

 リーダーの太い腕が僕の折れそうな腕を引っ張る。前のめりに転びそうになりながらも体勢を立て直せば、そこにはこの世で一番憎悪を抱いている人間が何故かいた。

「昨日の件だが、俺が客に謝罪して結局三号店に行ってもらった。素直に謝った結果、客からは特に対価を求められず許してもらえたのは僥倖だったな。……でだ針川“君”」

 引きずられるように自分の席まで連れていかれる。ふと視線を逸らせば置いて帰った鞄が机下の収納に昨日のまましまわれていた。さすがに着席する勇気はない。何よりも。

「システムのトラブルじゃないからそこまで大騒ぎにはなっていない。だが、依頼先の企業の顔に泥を塗ったんだ。当然報告義務はあって、そこは近場さんに随分と色々やってもらった。わかるか、お前が逃げ帰ったせいでバイトの子が長時間残業して! お前の代わりに」

「リーダー! あの」

 充電が切れそうなおもちゃのようにぎくしゃくしながら振り返る。振り返らなくても、リーダーに腕を掴まれ、部屋に引きずり込まれた瞬間から目に飛び込んできていた。

「私のことは気にしないで、ください」

 近場千花が一瞬、驚いたような顔をして僕を見つめていた。


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