3-4 夢から覚め、復讐に手を染める
誰しも夢を見るように、僕も夢を見て社会人になって、そして社会の荒波ですさんでいった。
ミスを全く認めず自分が被害者であると信じて疑わない取引先に、頭を下げる。明らかに不可能な納期を上司から間に合わすよう命令され、残業を続けた結果上司に苦言を呈され謝罪の言葉を口にする。美醜、個性、性別を揶揄する周囲に同調しなければ責められて謝る。
理不尽しかない世界が会社には広がっていて、息苦しい。こいつらと同じ加害者になってたまるか。けれど、被害者の僕にはここにしか居場所がないのも、わかっていた。転職が当たり前に行われる時代だと言うけれど、そもそも転職活動を行う余裕が生活にない。使う暇もないのに安い給料から生活費だけが抜けていき、貯金すらできていない。ニュースで報道される老後までに貯めておきたい金額だとか、年代別の貯金額の平均だとかは見たくもない。そんな生活を送っていれば当然の如く体調は常に不調で、休日に泥のように眠っても倦怠感も頭痛も吐き気も何もかも治らない。金、時間、健康、心の余裕。全部がなくてどうしようもない中で唯一の希望は昇進だった。
三十を過ぎてチームのリーダーになれば、一気に給料が跳ね上がる。新入社員の頃夢見ていた開発の仕事に携われる。
酔っぱらった先輩からも上司からもそう背中を叩かれて、手に持ったジョッキにビールをつぐ。飲み会が減ったなんて嘘っぱちだと思う。少なくとも僕は平然と残業後に付き合えと居酒屋に連行されていた。だから泥を啜ってでもしがみついて三十歳までは耐えろと口を揃える。お前の出向は会社が出世コースに乗せてくれた証明で“栄転”だ。だからどんな理不尽も耐えてみせろとゲラゲラと笑っている。
“被害者”から解放されると、やりがい搾取ではなくやりがいを持って働けるのだと、また夢を見ていいのだと光に向かって走っていこうと決めた。
なのに──!
重い瞼を上げれば薄暗く、真っ先に蒸し暑さを感じた。壁に寄りかかり、足を折り曲げて座っていた。ここはどこだ? 身体を引きずるように立ち上がらせたかったが、妙な体勢で寝ていたせいか節々が痛い。鼻で息を吸う。すると酸っぱいような悪臭が鼻をつき、口元やら目元やらに何かが張りつき乾燥しているのに気づいた。
全てを思い出し、「うわあっ」と叫びそうになる。けれど叫び声は乾いた喉が張りつき、痰が絡んだような濁音となって激しく咳き込んだ。
やってしまった! でももう耐えられなかった。
恐怖が身体を無理やり動かして立ち上がる。痛む腰を労わりながら、面倒だとポケットから電子機器達だけは取り出してスーツも下着も何もかもを洗濯籠に放り込んだ。スマートフォンに表示された時刻は二十時。まだ洗濯機を回しても問題はないだろうがシャワーを浴びたい。風呂場とついでに洗面所の照明のスイッチをようやく入れた。
無精髭が伸び、頬がこけているのに腹には贅肉が乗った全裸の男が鏡に写し出された。シャワーのレバーを上げて、生ぬるいお湯を全身でしばらく受けていた。髭が引っ張られる感覚がして、洗顔料をなすりつける。鼻の下の髭から茶色と黄色の中間の色をした固形物を乱暴に引き剥がして流していった。髪、身体の順で洗っていく。もう何カ月も湯船につかっていない。水道代が勿体ない気がしたし、湯船につかっている時間があれば寝てしまいたかった。学生時代、趣味を増やそうと今は連絡が来なくなった友人達と手広くやってはいたが、何十年も前の出来事のように“楽しい”だとかそういう感情は風化してしまっている。
風呂からあがり、全裸のまま洗濯したもののたたまないで床に積んである下着とパジャマに手を通す。そしてベッドに寝そべりながら、さっきは見ないふりをしたスマートフォンの通知を恐る恐る目に入れた。
リーダーからメッセージが十数件表示されていた。
震える指先で画面をなぞれば意外にも冷静な文面で逆に目を剥いてしまう。けど、ああ。そうだった。矢野尾リーダーはそんな“ヘマ”はしない。こんな僕が人事部に提出できてしまうパワハラの証拠は残さないのだ。「体調が悪かったのか」「それと突然オフィスを飛び出して帰宅してしまうのは別問題だ」「明日は早めに出勤してこい」「仕事は俺が謝罪しに行って何とか収めた」「近場さんに明日お礼を言うように」……そんな感じの文言が並んでいて頭に血が昇っていった。
近場さん……あいつさえいなければ!
脳の奥でまた誰かが叫んでいる。喉が絞まり呼吸が浅く、視界がぼやけていく。それでも無理やり立ち上がりスマートフォンをベッドのマットへと投げつけた。バウンドして、そのまま何事もなかったかのように僕の方へリーダーからのメッセージをアピールしていた。黙れ、黙れよ! そう叫ばなかった自分を褒めたい。ゼイ、ゼイと息が荒く、眩暈がする。それでも地団駄を踏むように床を蹴り、僕は部屋の隅の引き出しに向かった。
窓際の組み立て式の安い棚。大学二年の時にここに引っ越してきてからずっと鎮座していた。就職を期に中身をかなり捨ててしまったが、三段の一番下の深めの引き出しの中身は変わっていなかった。
膝をついて引き出しに手をかける。思ったよりも重い手ごたえのそれをゆっくりと引けば、菓子の缶が甲高い音を立てて手前へ滑ってくる。元カノと行った観光地のお菓子が入った缶を捨てられず、その中に彼女とのペアアクセサリーを入れて突っ込んだ記憶が蘇り霧散する。縋っても別れを撤回しなかったあの女のことは今はどうでもいい。
どこにしまったっけ。小さな缶や箱を一つ一つ開けながら、脳内を激しくかき乱すのはやはり近場さんだった。
彼女の無知で苦労を知らずにたかが一つの仕事を言われるがままこなしているだけでちやほやされている笑顔が浮かぶ。嫌味すら通じない頭の悪さを思い出しては胃が鋭い痛みを訴えている。
リーダーはクズだ。三年間ずっと僕にパワハラをし続けている。基本的に会話は肯定しか許さず、揚げ足を取っては人格否定に近い罵倒を浴びせてくる。その日どころかその時間の機嫌で意見がコロコロ変わり、対応に迷っていると「察しろ」と怒鳴ってくるのも日常茶飯事だ。気に入らない仕事は全部僕に押しつける癖に、手柄は自分の物にする。今日だって近場さんがいなければ、尻拭いなんてしなかったはずなのだ。そんな無責任なのに、僕の仕事を執拗にチェックし重箱の隅をつっついてきて、どうでもいい訂正で残業をさせるのもほぼ毎日だった。とにかく挙げればキリがない。
更にひどいのは女を自分の性欲の対象となるか否かでしか判断せず、その意見に無理やり同調させることだった。飲み会で性行為の経験について教えろとにやつかれ、差し障りのない回答を仕方なくすれば「つまらない」と死ぬほどどうでもいい説教を始めた。公共の場で言ってはならない卑猥な単語を平然と会話に捻じ込んでくるのにも辟易している。
ずっと僕はあいつの被害者だ。僕が心身の健康を失いかけているのはあの加害者が原因だった。
だが、僕の上司だった。クズで何一つ見習うところがないが、会社という立場社会の中では命令は絶対で、そして彼の部下というのが僕の“居場所”だった。僕が将来的に成功を収めるために、被害者という立場から脱却するために必要な試練なのだ。だから必死に我慢してしがみついてきた。こびへつらって、無理やり口角を上げて、何も悪くない“罪”を自らでっち上げて土下座をしてきた。
どこにも居場所がないくらいなら理不尽に虐げられても僕は地獄を選ぶ。居場所を失うのは死と同等だ。
冷房をつける時間も惜しくて風呂上りなのに汗だくになっている。カーテンに僕のしゃがみ込んだ影が大きく映っていた。缶と缶がぶつかり金属音がする。箱の中身が手に取る度に中で動き、手首に重みを伝えた。これでもない。でも捨ててないから絶対にここに。箱の蓋を開けては閉じて、端に積んでいった。
なのに、だ。じんわりとまた水の膜が視界に張り、缶の上に水滴が落ちる。今日、全てを壊してしまった。近場さんが来る前日にミスをして、更に今日別のミスが発覚したからじゃない。ミスなら何度もして、その度に心をすり減らしてきた。
目の前で起きている“近場さんに居場所を奪われる”現実に耐えきれなかったから、僕は立ち去るしかなかった。
手にとげとげした感触があって視線を落とす。紙箱の角を握りつぶしていた。
あいつは僕が二年と少し耐えた居場所を奪った。被害者である僕に追い打ちをかけ、更にその事実に気づいてもいないのだ。
近場千花──! あの女が、ただの短期アルバイトの人間が僕の居場所を奪った。僕の頑張りを全部、全部“無邪気な有能さ”で理不尽に奪ってしまった。
「うっ……うう」
目を逸らしていた現実が遂に僕の胸にのしかかり、痛みを訴える。どうしよう、どうしよう。嗚咽が漏れ、髭に涙が降り注ぐ。どうしよう、いや違う。もう“どうにもならない”。もう終わってしまった。僕の頑張りがしがみついた居場所が全部、壊れてしまった。出世、金、余裕、夢。全部全部閉ざされてしまった! 何度ミスを犯しても必死で謝ってせめて逃げなかったのに! 落第者として社内で、社会で後ろ指をさされ噂をされながら永遠に虐げられる人生を過ごすしかない。これが社会人の世界だ。
だから、もう僕に残されたのは、正当な復讐だけだった。
戦わなくては。箱の蓋を勢いよく開ける。今までそんな“野蛮な手段”は取らなかったけど、あいつが悪い。
ずっしりとした黒い箱が棚の奥から現れる。これだ! 僕は手に取り、そっと蓋を開けた。
学生時代、一時期友人達とキャンプに行っていたことがある。自由で開放的であの女と同じく何も社会の理不尽を知らなかった時代の恥ずべき過去だ。でも、たしかに今僕に力を与えてくれた。
ケースからそっと抜いてみる。蛍光灯を反射して刀身が鈍く光った。キャンプ用のナイフを僕は握りしめ、そしてハンガーラックに近づき、予備のスーツの右ポケットに入れた。
死なば諸共だ。一緒に地獄へ堕ちてもらう。
脳の奥からの悲鳴を無視して、気づけば僕は泣きながら声を出して笑っていた。




