3-3 失敗
昼飯から帰って近場さんを待っていたのは鳴り響く電話で、僕を待っていたのは大量の契約先からのメールだった。昼のことなんか忘れて、キーボードを叩き続ける。そうしていればあっという間に時間は過ぎ去り、十六時十分。近場さんが荷物を片付け始める隣でぬるくなった珈琲を流し込んで、両頬を叩く。残業を覚悟してまたキーボードに手を伸ばした時だった。
電話が鳴り響き、近場さんが「七号店からです」と声を上げる。十六時以降、内線専用となるのだが電話とは珍しい。
「これだけ出てから帰りますね」
「ごめんね。よろしく」
鞄を机の下に押し込みながら近場さんがいつもの挨拶をした。
「お電話ありがとうございます。通路バ……はい? ええ、はい。少々お待ちください」
保留音が僅かに聞こえ、「針川さん」と名を呼ばれた。
うん? 書類の山の方へ首を捻ろうとすれば、その前に近場さんが立ち上がる。書類の山を飛び越えて、心配そうな顔で僕を見下ろしていた。
「どうしたの?」
「七号店の店長さんからお電話で、針川さん指名です」
「針川君心当たりは」
「ないです。本当に僕?」
「はい。針川って社員の方いますか、と」
さすがに代わらなければマズいだろう、忙しいのに。近場さんが自分が座っていた椅子をそっと差し出してきてそこに腰を下ろす。そうして、保留を解除した。
「お電話かわりました。針川と申しま……」
『おい! 二十人のコース予約があるなんて聞いてないぞ! どうなってる!?』
「はい?」
『ふざけるな! さっき客から今日六時から二十人の席だけ予約をしている者で、もう一人だけ増やしたいが大丈夫かと問い合わせがあったんだ! そんな予約、初耳だと言えばセンターの針川にたしかに伝えたと……。そんな情報、お前は送ってきてないだろう! どうするんだ、今日はもうあと四人掛けの一テーブルしか空いてないんだぞ!?』
「ま、待ってください! 僕も何も受けてないです! いつの話で……」
激昂した店長が早口で予約情報を捲し立てる。予約を受けたらしい日付は数日前で、近場さんがバイトにやって来た二日目だった。
右の方から鋭い視線を感じる。横目で見やれば、リーダーが眉をつり上げ、ぎょろぎょろした目を細めて僕を睨んでいた。
「あの、近場という女性じゃないですか? 現在電話予約の応対は全て彼女が……」
『男の! 針川に言ったと! お前、お客さんを疑うのか!?』
「ですが、僕はその日予約の電話を」
そこまで口にして受話器を落としそうになる。近場さんが先に昼飯を食べに女子更衣室へ向かった後、僕はたしかに電話で予約を受けていた。それを……どうした? 受けて、電話を切って……。
入力していない──! 目の前が真っ暗になって、珈琲が胃からせり上がってきた。受話器の向こうではずっと店長が何かを叫んでいる。どうしよう、どうしたら!
突然、近場さんが僕の席に座り、右のパソコンを動かし始める。滲む視界の中で、必死な顔が歪んで見えた。
『おい! 聞いているのか。上を出せ、聞こえているんだろう!』
「三号店! まだ二十四人分空いているそうです! スマホで電話してみますか!?」
店長と僕が同時にヒュッと息を吸った。近場さんの声が向こうにも聞こえたらしい。
「三号店と七号店なら徒歩五、六分です! それでもお客さんに謝るのは同じですが席を用意できてるかどうかで差が……」
「あーもしもし。矢野尾です。ええ。センターの。すみません。大変申し訳ないのですが……」
リーダーがスマートフォンを耳に当てていた。「ええ。申し訳ございません」「お客様にサービスとして特別対応をした際には……」と低い声が延々と部屋に響いていた。
リーダーがスマートフォンを置く。そして苛立たしげに近場さんの背後を通り越し、僕の受話器を引っ手繰った。
「もしもし。センターの責任者の矢野尾と申します。大変申し訳ございません。たった今……」
三号店の方で五時半までは席を仮予約として開けてくれていて、お客さんが了承するなら引き受けてくれるらしい。現在折り返しになっている七号店からの電話は代わりに自分が引き受けて謝罪をする。それから……。
足ががくがくと震えていた。近場さんがいるから上司としての責任を果たしているリーダーが逆に恐ろしい。俯いて目を閉じてしまいたいのに、身体が動かせない。視線だけが泳いで、鬼の形相で口からは謝罪の言葉を紡ぐリーダーと書類の山と壁と……。
僕を明らかに心配している近場さんと目が合った。
「とりあえず今から俺からお客さんに謝罪の電話を入れ、三号店の案内をすることになった」
受話器を置いたリーダーがメモに書いた電話番号を一つ一つ押しながら唸った。
「近場さん、ありがとう。どうなるかわからないけど、三号店って代替案を出せたのはデカい。叱られるだろうが、何もないよりかは圧倒的に状況が良い」
「いえ……その」
申し訳なさそうに近場さんが俯く。お前は何も悪くないだろう! やめろ、そんな目で俺を見るな。同情するな見下すな!
「針川君も近場さんにお礼を言っておくように。それから近場さんはあとは俺と針川君に任せて帰って大丈夫。むしろこれ以上いると時給が発生しちゃうから」
「あ、はい……」
「本当にいて助かったよ。もう正社員で働いてほしいくら……」
バンと机を叩き、キャスター付きの椅子が後ろに弾け飛んだ。リーダーと近場さんが「あっ」と悲鳴を上げる。苦い液体を何とか嚥下して僕は扉へと走り出していた。
「針川!」
「針川さんっ!」
無理だもう駄目だどうしよう、どうしよう!
ポケットの中に入っている端末だけは落とさないよう、押さえながら階段を駆け下りる。ボロボロと涙が零れ、口の中に塩気のある水が入っていった。踊り場で足をもつれさせ、壁に手のひらを叩きつける。構うものかとそのまま足を動かし、ビルの外へ出た。
真夏の太陽がまだ青空を作っていて、汗が全身から噴き出す。ビルから飛び出してきた僕を向こうの通りの日傘をさした女と男が目を丸くして見ていた。
熱風に包まれて一層吐き気に襲われた。そのままビルとビルの間に身体を捻じ込ませ──そのまま嘔吐した。
喉が熱く焼けていく。ビチャビチャと濁った色の粘り気のある水と共に昼の固形物が漏れていく。
ふざけるなよ! あいつ!
リーダーの顔が浮かんで、吐しゃ物をかけていく。近場さんの悲しげな表情が過ってそれにもゲロを吐きかけた。
あそこは、僕の居場所だ。僕が何としても未来のために守った──!
そこから家まで記憶がない。ただ吐いた口を拭いもせず、ズボンの裾に吐しゃ物がかかったまま悪臭を放ち、電車に乗って家まで戻ったらしい。
玄関で靴を脱ぎそのまましゃがみ込んだ。僕は、何を、してしまったんだ。後悔をすべきだ。明日のことを恐れるべきだ。なのに、頭が動かなかった。
憎悪だけが心を塗り潰していた。




