3-1 折り返し地点
アルバイトの子を雇っている時だけ、日中のリーダーからのパワハラが急激に減る。
SNSで何でも不特定多数の人間に情報が伝わり、大勢の“正義感”がマスコミに伝播しテレビのニュースとなって更に広がる時代だ。だから「バイト先でパワハラをされた」あるいは「自分は何もされなかったが、パワハラを目撃した」なんて情報が流れないようにリーダーは猫を被る。それでも明らかに本性は漏れているので、やがて炎上を経験する可能性もあるのだが。
だからバイトの子を雇っている時の方が僕は胃を痛めることなく過ごすことができる。残業はあるし、バイトの子が帰った後からはいつも以上にリーダーの鬱憤をぶつけられるけど、それでも被害は確実に軽減されていた。この半年、ずっとそうだった。そう、バイトの子を──
後頭部が痛み、思わず手で押さえた。脳の奥で誰かがまた叫ぶ。どうも近場さんがバイトでやってきてから幻聴とは違う、記憶の奥底を無理やり掘り返すような妙な感覚と頭痛に襲われていた。
「はい。当日キャンセルですと、コース料理と同じ料金をいただくことになってまして。……料理を既に店舗の方で仕込んでおりまして、それらがキャンセルになると全て廃棄になってしまうんですね。ですので全額を。……割引はできません。コースの当日キャンセルであれば、どんな事情であっても……ええ。店舗の変更も致しかねます」
近場さんが眉を下げて受話器にずっと話しかけている。さっきからずっと客の怒鳴り声が漏れて部屋に広がっていた。リーダーも僕も無言で、画面と近場さんを交互に見ている。十五分ほど前に近場さんが右手を挙げ、僕もリーダーも近場さんの保留からの相談を受ける前に赤ボタンを押すのを了承した。明らかに厄介な客の怒鳴り声が電話を取って一分も経たずに既に受話器から漏れていたからである。
会話のログがカスハラ対策共有画面に、次々と文字となって表示される。ところどころ妙な漢字変換がされているが精度は高い。漏れた声と近場さんの対応で察していたが、客から当日キャンセルをしたいと告げられ全額負担の決まりを告げたところ激昂したらしい。別に珍しくはない。ルールを守らずに怒鳴り散らせば自分だけが“特別”にしてもらえると思い込んでいる愚かな奴は世の中に想像以上に多いのだ……リーダーみたいに。
「ええ。インターネットフォームからお申込みいただいておりますので、お客様自身で入力いただいたメールアドレスに届いております。……はい」
何とかならないのお! 融通が利かない女だな、上に代われ! と画面に表示される。この手の「上を出せ」発言で今まで実際に上が出たのを僕は殆ど見たことがない。ふんぞり返って「お前の仕事だろう」と突っ返され、「上は席を外しておりまして」と必死に対応させられるばかりだった。椅子を引き覗き込めば近場さんがマニュアルを手に取りじっと見つめながらまだ納得をしない客の鬱憤をぶつけられていた。だから僕も近場さんが助けを求めてきたらリーダーの手前助言はするが、電話を代わるつもりはなかった。
数分、互いに平行線の会話が延々と続きログが次々と更新される。やがて段々と客のわざとらしい溜め息の「はあー」が増え、そして。
「はい。……かしこまりました。ではご来店よろしくお願いします」
近場さんが少しだけ受話器を耳から遠ざける。するとブロックを崩したような切電音が受話器から響き渡った。珍しいな、固定電話だったんだ相手。そんな場違いな感想を抱きながら近場さんを観察する。さすがに疲労が表情に出て、不機嫌そうに眉根を寄せている。受話器を置いてはあ、と溜め息をつく。そして赤いボタンに手を伸ばし僕とリーダーの方を向いた。
「今共有のシステムを解除しました。すみません、時間かかっちゃって」
「お疲れ。針川君に代わっても良かったのに頑張ったね」
リーダーもホッとしたように息を吐く。僕も慌てて「ごめん、途中で代わるかメモを出すべきだったね」と思ってもない謝罪を口にした。
「大丈夫です。何とか引き下がってくれましたし」
「ログ見る感じ、結局この人飲みに来るの?」
「二号店、本日十九時から二時間飲み放題付きコース八名です。キャンセルして別のお店に行きたかったらしいんですけど、キャンセル料が必要な旨を伝えたら結局……ですね。二号店に要注意のお客さんとしてメールで連絡しておいた方がいいですか」
「頼むよ。本当、無理を言えば全部通ると思ってる奴が多くて困るねぇ」
「昨日も『コース料理の刺身の盛り合わせのサーモンを三人分だけホタテに替えろ』って電話ありましたね」
「それも電話全部一人で応対してくれてありがとうね。近場さん、本当に助かるわ。……またバイト募集があったら受けない?」
「不定期だから俺も“次”がわからないけど」と含み笑いを浮かべていて、近場さんは「ありがたいですねぇ」なんて返していた。
近場さんがここで短期アルバイトを始めて今日で六日目。折り返し地点を過ぎた日だった。
理不尽社会の洗礼というか、無理難題を自分が被害者のような体で訴えてくる客の電話を近場さんは三日目を過ぎた頃から毎日何件か受けていた。非は全て客の方にあるのに、こちらを融通も気も利かない悪者として声を荒げ、罵声を飛ばし、責め立てる。一応、電話が繋がる前に電子アナウンスで会話のログを取らせてもらっていることを告げているのにも関わらず、だ。所謂“訴えたら勝てる”発言だって珍しくない。なのにあいつらは自分だけは色んな意味で大丈夫だろうと堂々と振舞ってくる。恥をどこかに捨ててきてしまったのだろうか。
「メールしておきました!」
「おお。ありがとう」
今日のペットボトルは無糖の紅茶らしい。そっと床を蹴りキャスター付きの椅子を後ろに動かす。僕がこうする時は話しかける時。そういう学習をしていた近場さんがペットボトルから唇を離してこちらに視線を向けていた。
「嫌じゃないの」
「何がです?」
「面倒な客の電話ばっかり受けて。腹立たないの」
「え! 腹立ってますよ?」
近場さんは目を丸くしてあっさりと答えた。
「嘘だぁ。近場さんって『こんなところで怒鳴るなんて相手にも事情があるかもしれない』とか『体調悪いのかな』とか“優しく同情”してそうだよ。今だって受話器置いた後はちょっと嫌な顔はしたけどすぐ元に戻ったしさぁ」
人間の悪意を知らない浅はかな奴、という意味を込めて言った。
「そんな優しい人間じゃないですし、事情があってもこっちが怒鳴られる必要全くないじゃないですか。内心イラっともしてますし、さっきも『目の前にいたら骨の何本かは折ってやる』って思いながら電話してました」
途端、リーダーが「ブハハ」と汚い笑い声をあげた。ツボに入ったらしくて「骨の何本って」と繰り返しては頬の肉を震わせていた。
「でもそんな素振りは」
「感情的になってトラブル引き起こしたら申し訳ないので、頑張って抑えているだけですよ。私、ただのバイトですけど仕事中ですし」
そう微笑んでまたペットボトルに口をつけた。ごく、ごくと音がする。背筋が冷たくなっていく中、リーダーはようやく咳き込んで笑いのツボから戻ってきたようだった。
「じゃあ、普段は……例えば彼氏と喧嘩したら?」
「泣き喚きながら殴りかかるかも?」
楽し気にそんなことを言うものだからリーダーがまた汚い笑い声を上げた。振り返れば目元に溜まった涙を指で拭っている。明らかなセクハラ発言なんだが大丈夫なのだろうか。
運“悪く”電話は途絶えている。近場さんも呑気に気づかずに笑っていてそんな地獄が数分続いた。
「お、そうだ針川君」
リーダーがニコニコと口角を上げる。そして腕時計を見つめてこう続けた。
「十一時半か。せっかくだ。近場さんを連れて外に食べに行ってきなよ。こんなにバイトなのに頑張ってもらってんだから奢ってあげなさい」
「自分の分は払いますから!」と立ち上がり顔の前で手をぶんぶんと振る近場さんの社交辞令に吐き気を覚えながら僕は黙って机の中の財布を右ポケットに捩じり込んだ。




