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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
3.後編 近場千花は夢を見たくない
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2-2 昼休憩の儀式

 昼休憩の男子更衣室は唯一僕が気を許せる場所だった。

 小さな部屋にロッカーと机と椅子だけが機能していて、他は段ボールや誰かが置いていってそのままになっているコートやマフラーがかかっていた。

 正直埃っぽく妙な匂いがする。明らかに物を食べる環境ではないのだが、贅沢は言っていられない。

 温めてもらった大盛りのナポリタンスパゲッティをレジ袋から取り出して、ビニールを剥がす。湯気が顔の皮膚を湿らせて同時にケチャップの匂いが僕を包んだ。プラスチックのフォークを中心に立てぐるぐると回す。ワイシャツにつけないように気をつけながら大口を開け一気に頬張る。もちもちとした食感とケチャップとアクセントのベーコンが混ざって口の中に広がった。

 ず、ずず……と麺を吸う。一人なので行儀の悪さを咎める奴もいない。右手でフォークを動かし、左手でスマートフォン等を机の上に置いた。

 近場さんもまだ休憩中なはずだ。

 スマートフォンを見て、今日の彼女の休憩時間内であることを確認する。隣から全く音がしないが、静かに何をしているのだろうか。コンビニで購入すると言っていた昼飯は俺と違って完食しているだろう。黙ってスマートフォンで動画でも見ているのだろうか。イヤホンがなければ、音がこちらに漏れるはずなので、見ているのであれば用意周到に持ち込んでいるはずだ。それくらいここの壁は薄い。あるいは友人とメッセージでも送り合っているのか。バイトが上手くいっているなんて、浅はかな考えを……。

 ──まあヤりたいなら応援するが。

 リーダーのセクハラ発言を思い出し、胃からほぼ嚙まずに飲み込んだ麺が戻りそうなゲップが飛び出す。これも聞こえてしまった可能性があると女子更衣室の方の壁を思わず見つめた。

何も反応はない。聞こえていたとしても反応しづらいとは思うが。

 胃液の味がする口内を洗浄すべく、ブラック珈琲のペットボトルの蓋を捻った。冷たい苦味が身体中を巡っていくようで心地よい。ヤりたいわけないだろとまで考えて、ふと近場さんに彼氏がいるのかなんて本人に聞いたら僕もセクハラ野郎の仲間入りをする疑問が浮かぶ。いようがいまいが関係ないが、脳の奥からまた誰かが叫んでいるような感覚に襲われた。

 コツン、と硬い感触が右手に伝わる。気がつけばナポリタンを全部胃に収めていた。

 それじゃあ、あとはストレス解消の時間だ。僕はプラスチックの容器をレジ袋に入れ、口を縛りながら机をじっと見つめる。指先で動かして音量をあえて最大にした。

 悪いのは近場さんだ。社会を舐め切った学生が、社会人の苦労を何も知らないで出しゃばるからこうなるんだ。

 大音量のBGMと共に僕は背もたれに体重を預け、電子書籍をタップする。途中まで読んでいた漫画は序盤のクライマックスを迎えていて、主人公とその仲間が敵を協力して倒そうとしていた。あいにくと僕には仲間がいないし、倒すなんて野蛮なことはできないから、別の手段で人生を戦い抜くしかないのだが。

 迫力ある戦闘シーンをうっとりと眺めながら、また珈琲に口をつける。午後の近場さんの様子が楽しみだと自然に口角が上がっていったのだった。


◇◇◇


「お疲れ様です」

 休憩を終えた僕を待っていたのは、平然とした近場さんだった。僕の方を向き元気に挨拶をしてから、モニターへと向き合う。

「あ、ああ。お疲れ」

 聞こえていたよな? あんなに大音量にしていたんだ。イヤホンで鼓膜が心配になるくらいの音量でロックでも聴いてないと防げないはずだぞ。

 逆に動揺する僕に気づかず、近場さんはただキーボードを叩き続けていた。そして電話が鳴り、今回はワンコールで出て、二日目にしてすっかり慣れてしまった挨拶を高めの声で口にする。

「はい。三号店ですね、お調べいたしますので……秋本様。電話番号は……」

 ペンが走る音がする。どうやら予約内容を忘れてしまった客からの照会の電話らしい。インターネットフォームから予約をすればメール等が届くが、電話だとこちらは記録を残すが客は記録を残さない。信じられないが、詳細を忘れて問い合わせてくることが割と起こるのだ。メモを取れだとか、予約後に一緒に飲む奴に聞けだとか言いたいことは山ほどあるが、客に説教をして生き残れる社会ではない。余計な仕事を増やしやがってと苛立ちを収めながら、記録を探るしかないのだった。

 ペンを走らせる音が書類の山の向こうからする。「復唱しますね」と客の情報を繰り返した後に僅かに保留音がしてきた。カシャカシャとキーボードを叩く音と「えっと」と小さい呟きがやけに鼓膜を揺さぶった。顔をしかめながらそっと書類の山の向こうを覗く。

 手のひら大の電話用のメモに少し歪んだ数字が並んでいた。急いで書いたせいかインクが擦れたそれがとても汚らしいものに見えた。

「お待たせいたしました。秋本様。ご予約いただいたのはもしかして、三号店ではなく……」

 店舗まで間違えていたのかよ。僕が小さく溜め息をつけば、リーダーが思わずふき出した。

「はい、五号店で……できれば三号店に変えたい? わか……かしこまりました。今三号店の空きを確認しますのでもう少々お待ちいただけますでしょうか」

 また保留音がして、近場さんがキーボードを叩く。リーダーが目を細めて「近場さーん」と呑気な声を発した。

「お客さん。予約店舗間違えてたの?」

「そうみたいです。五号店と三号店の場所を間違えて一週間前に予約を入れていて、今から変えられるなら変えたいとおっしゃってますね」

「変えられたら変えるのは全然オッケーだけど、変えた後にちゃんと五号店の予約を消去してメールも送っておいてね。でないと架空の予約が入ったままになっちゃうから」

「わかりました。これを調べたらすぐやります」

「“何度もやらかした子”が何人もいてねぇ。店長からお叱りの電話があって俺も一緒に謝ってさぁ」

 にやけ面を僕に向けてきて頬肉を震わせて「ハッハッハ」と笑う。胃がキリキリと痛み、喉奥からまた苦い味がした。

「難しいところなんですね。事前にミスしないように教えてくださってありがとうございます」

 それだけ口にして、近場さんは保留を解除し客との会話を再開した。どうやら三号店は空いていたらしく、無事に予約の変更ができたようだった。

 受話器を置いて一旦、「うーん」と手を頭の上に伸ばす。そうして左のパソコンでリーダーに指摘されたとおりの作業をするつもりだろう近場さんの背に僕は声をかけた。

「どうしました?」

「それってさっきのメモかい?」

「ああ、これです? お客さんの電話番号ですね。あとでシュレッダーにかけないと」

「……近場さんって結構字汚い方だったりする?」

 務めて明るい声で僕は笑顔を張りつけ、まるで自然な世間話ですと念を押すように言った。

「字、大きいし末尾が六か零かわからないし、意外だなぁって。文字は人柄が反映されるっていう言葉があるけど迷信みたいだ……」

「やっぱり字汚いって思います!? ペン習字の本とかに挑戦した方がいいんですかね?」

 食い気味に近場さんが困ったように笑う。えっ、と目を丸くするのは僕の方だった。

「テスト前にノートをよく友達と貸し借りするんですけど、中高の時から『お前は字が汚いからもっと綺麗にノートを取れ』って言われ続けてるんですよ。大学の前期テストもノート貸したのに『俺とペン習字やるか』なんて嫌味言われて……。字が汚いのは認めますけど、ノート借りてるんだから目を瞑ってほしいですよね」

「そんなに汚いのかい?」

 気がつけばリーダーが僕の背後にいて近場さんのメモをひょいと取り上げる。「うーん。数字だけじゃ判別できないなぁ」と顎の下に手を置いた。

「電話のメモ、ヤバいですよ。お昼休憩前にそれ以外シュレッダーかけちゃいましたけど」

「いつもメモ取ってるノートは?」

「見ます? たぶん汚くて引きますよ」

 ノートをリーダーが開いて、またふき出す。口元を押さえて「クックック」と昼に読んだ漫画の悪役みたいに喉を引きつらせた。

「たしかに汚いなぁ。これ自分で読めるの?」

 そんなにか。僕から嫌味をしかけたけど気になってしまい、立ち上がる。すると所謂“蚯蚓が這ったような字”が並んでいた。

「メモ取ったすぐ後には。だからページ捲ると」

 リーダーが手のひらで撫でるようにページを捲る。すると「おお」と声を上げた。

「そっちも走り書きですけど、もう一度書き直してます。そっちも綺麗じゃないですけど、読める文字ではある……はずです」

「なるほどなぁ。たしかにペン習字、やった方がいいかもね」

「今年の夏休みは……バイトとペン習字で過ごしますかね」

 ケラケラとリーダーと近場さんが顔を見合わせて笑う。僕もつられたように喉を震わせた。喉が絞めつけられているように狭まっていく。笑い声が口から出て、二酸化炭素も吐き出されるのに酸素が吸えない。

 また電話が鳴るまで笑い声が続き、それまで視界の端から黒く染まっていった。全部が塗り潰される前に鳴らしてくれてありがとうと何処の誰かもわからない客に心の中で礼を告げた。

 リーダーが席に戻っていく。僕の後ろを通った時に電話応対中の近場さんには聞こえない声量でそっと「本当、お前よりノリもいいし、ミスも少ないし助かってるよ」と粘っこい声で嗤った。「すみません」と絞り出し、俯いて必死に息を吸う。胃の更に奥、背中が攣ったように悲鳴を上げていた。

 ふざけるなよ。こんなバイトのせいで。

 近場さんが受話器を置く音がする。僕は弾かれたように顔を上げてさっきと同じように声をかけた。

「ところで忘れてない? 五号店の予約の消去とメールを」

「ありがとうございます。さっきのお客さん対応中に実は終わらせておきました」

 心から感謝した様子で近場さんが無垢に頬を緩ませる。

 吐き気を感じて僕は、「トイレ」と呟いて扉へ足早に向かった。


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