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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
3.後編 近場千花は夢を見たくない
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1-2 君は何も知らない

「はい。……それでは高橋様、復唱します。通路バル五号店、三十日の六時から三名様席のみご予約でよろしいでしょうか。……ありがとうございます。お待ちしております」

 そう言って近場さんが数秒受話器を持ったまま動きを止める。そうして、ゆっくりと受話器を置いた。相手の電話が切れるまで待っていたらしい。

 左の端末には電話をしながら入力が済んでいた。頬と肩で受話器を挟んで器用にキーボードとマウスを動かしていた。小さく息を吐いて、右の、僕側のモニターへ身体ごと向ける。

 カチカチ、と数回音がして近場さんが顔をモニターに近づければ、また電話が鳴る。ツーコールも経たずに受話器を左手で取ると耳元に持っていった。

「お電話ありがとうございます。通路バル予約センターです。ご予約でよろし……はい。六号店の本日七時から八名様、夏の肉寿司コースですね。少々お待ちください」

 保留ボタンを押し左のモニターで検索を始める。そして机の上の地図と、右のキーボードを動かしながら保留を解除した。

「お待たせいたしました。申し訳ございません。六号館のそのお時間は満席でして……ただ、六号館から徒歩で五分、隣の通りの駅から歩いて右側にあります七号館でしたら同じ内容のご予約が取れますが……。かしこまりました。そうしましたら、お名前とお電話番号を……」

 左モニターの七号館ファイルに情報を入力していく。程よい速さのブラインドタッチで画面上に文字や数字が増えていった。

「ありがとうございます。お待ちしております。店舗の場所等ご不明な点がございましたら、十六時まではこちらに、それ以降は店舗に直接お電話をお願いいたします。失礼いたします」

 また相手の電話が切れたのを確認してから受話器を置く。右モニターの方のマウスを数回クリックさせて、そうして机の端に置いてあるミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばした。

 こく、こくと小さな音がして喉が上下する。ペットボトルの蓋を閉めてまた端に置けば、不意に僕の方へと向いた。

「変なところがあったら言ってください」

 しまった。観察していたのがバレていたのか。視線を泳がしつつ、返事をした。

「へ? あ、ああ。今のところ問題はないよ」

「ありがとうございます。引き続き……あ」

 また電話が鳴り、近場さんが受話器相手に少しだけ高い声を出した。電話の話し声に対し、律儀に表情がころころと変化する。そうして、手と目を素早く動かしながら相手の要望を聞き出していた。

 はっきり言ってしまえば、仕事を予想の倍以上こなしてくれている。質問も最初の数回だけで、あとは自分の知識とマニュアルとメモ帳を見返しながら一人でやっていた。

 矢野尾リーダーから事前に“短期バイトを繰り返している子”だと聞いていた。こんなことを言えば偏見だと世の良識派からは批判されるだろうが、やはり“継続の選択肢を取らない子”は仕事の覚えが悪い。多少の困難で音を上げて「バイトだから」を言い訳に無断欠勤からのフェードアウトしてしまう。だから今回“も”そのパターンだと睨んでいたが当てが外れたらしい。

 また受話器を置いた途端に電話が鳴る。画面上をカーソルが走り、二つのモニターを見渡そうと首が動いていた。

 ぴりぴりと胃の奥が熱くなるような感覚がする。代わりに冷えた指先が震え無意識にスーツの左ポケットに手を入れていた。ごつごつとした冷たいそれを指先で撫でる。浅くなっていた呼吸がほんの少し戻った気がした。

 この子は、近場さんは──

 脳が塗りつぶされていく感覚に身を任せていれば机の端に置いたスマートフォンが震え、ハッとして手に取る。リーダーからのメッセージで開けば一言「当たりだね」と記されていた。

 右を向けばにんまりと笑みを浮かべて、リーダーがこっちを見ていた。僕はぎくしゃくしながら、何とか頷く。冷房が効いた部屋なのにもかかわらず、シャツが背中に張りついていた。

 体温が上がったまま、午前、午後とそうやって仕事が進み、十六時となる。近場さんはパソコンの電源を落として机の上のペットボトルを机下の鞄にしまおうとしていた。

「お疲れ様。いやぁ、助かっちゃった。『無理ですぅ』なんて言って途中で泣き出したり怒ったりする子もいるし、中にはもう明日から無断欠勤する子だっているからねぇ。近場さんは大丈夫そうだ」

 上機嫌にリーダーが豪快に笑った。

「いえ。針川さんがわからないところを丁寧に教えてくださったので」

「そんなことないよ。質問も最初の何回かだけであとは全部自分でやっていたじゃないか。これはあと九日間、僕達も他の自分の仕事に専念できるよ」

 ハハハと笑えば近場さんがふんわりと微笑んだ。女の子が肩を縮こませて気恥ずかしそうにしている様は見る人が見れば“癒し”なのだろう。

「では、明日も九時ですよね。先に失礼します。お疲れ様です」

 深々と頭を下げて近場さんが退室する。ゆっくりと扉が閉まり、オートロックがガチャンと作動する音がした。

 ふう、と僕とリーダーが同時に息を吐く。そうしてそのまま腰を沈めてパソコンに向き合った。

 まだ定時じゃない。定時になってもどうせ帰れないけれども。

「珈琲買ってきます」

 さすがに深夜まで残業をする気はなかった。けれど、頭をスッキリさせたくて僕はこのビルの一階の自動販売機に向かおうとポケットに財布をねじ込んだ。

「針川ぁ! お前そういう時に『リーダーの分も買ってきます』って言えないから昨日みたいなミスをするんだぜ」

 リーダーが一転して、机に備えつけの引き出しを蹴った。ガシャンとスチールが嫌な音を立てる。

 ポケットに入れていた手に力が入った。リーダーは一日中目尻に皺を寄せて浮かべていた笑みを忘れてしまったかのように、そのふっくらとした下膨れの顔の目玉をぎょろぎょろと僕に向け、唸っていた。

「すみません。じゃあ、買ってきます。砂糖ありのいつもので」

「なんだ、俺が太ってるって言いたいのか」

「言ってないです……。いってきま」

「座れ」

 恐る恐る僕は椅子を引いて元の位置へと戻る。リーダーが眼鏡のレンズを紺色のタオルハンカチで豪快に拭いてかけ直していた。

「バイトの子に負けてんじゃねぇか。何年やってんだ、この仕事」

 冷たく鋭い声が僕の心臓を刺す。内臓を絞られているような痛みが走ったまま、僕は答えた。

「五年目です。二年本社にいて三年目からここで……」

「じゃあ何で近場って女に電話応対負けてんだよ。たかが短期バイト繰り返してるだけの素人だぞ! 昨日のお前酷かったモンなあ? 折り返すって客に言った電話忘れて当然叱られて! よくあんな先輩面できたもんだ」

 リーダーが机を拳で叩く度にヒュっと喉が鳴り、息が上手く吸えなくなる。視界の端から黒く染まっていく。苦しさを紛らわすように俯いた。

「しっかし近場ちゃん? あれも仕事はできるがそれだけだな。でかくてぶよぶよしていて女らしさがないっての? やっぱり女の子は男より小さく細くないとな。“出てるところが出てる”だけが合格だっての」

 興奮しているのか声が震え、大きくなっていった。革靴のつま先を見ながら僕はただ沈黙を選び、重い頭を下げていた。リーダーは昔からフィクションでしかみないようなモデル体型を超えた病的に「ウエストや腕が細くて、そして胸の大きな女しか認めない」と口にしていた。

 他人の体型に言及するのがそもそもアウトだが、あえて言えば近場さんの体型は背は高いが他は平均だと思う。ただの健康的な姿だった。なのに、それが目の前の男はわからないらしい。

「“出てるとこ出てる”から採用してやったのに、それをわからないだなんてこれだから女は。ちゃんと自分の利点を活かせってのな。あんなきっちりしたブラウスなんか着てこないで、胸の開いた服、売ってるだろ」

「あの、TPOを気にしたのだと思います。彼女、真面目でしたし……」

 粘っこい声がしてその太めの唇の口角が上がっているのが想像できる。胸元が過剰に開いた服をバイト先に来てくる奴を採用したらそれこそリーダーの問題になるのでは、とは口を挟まないでおいた。

「バイトごときがTPOを気にするなっつーの! それよりも俺やお前をその親からもらった身体で楽しませる方が“真面目に仕事”してるだろうよ。今日だって一番良かったのはお辞儀をする度に胸が」

「リーダー、それ以上は」

「何だ何だ、最近流行りの“ポリコレ”ってやつか? そんな良識派振ってる暇があったらもっと成果を出せ」

 リーダーの口から唾が飛んで、机を通り越し床に落ちた。そもそもポリティカルコレクトネスが何かわかってもないんだろうな、という指摘はやめておこう。

 だって──

 ゼイゼイ、とリーダーの荒い息が小さな部屋に響いている。やがて「ふうううう」と獣の鳴き声のような声を上げたので上体を起こした。一頻り性欲に塗れた発言をして満足した額から汗を流していた。

「とにかく、短期バイトの女に負けんなよ針川。お前を置いておく価値がなくなったら、ここの社員がまた減っちまうことになるぞ。お前が一番わかってるだろ」

「すみません。頑張ります」

「本当、ひでぇ奴だよな。じゃあ、気合い入れも兼ねて珈琲、買ってきて。ほら、金」

 小銭が僕の机めがけて投げられて放物線を描く。スチールの机の上で百円と五十円玉が跳ねて、慌ててポケットから出した手で押さえた。

 そのままリーダーに背を向け、扉へと進む。内臓は相変わらずキリキリと痛み、頭が重く、息苦しい。早く離れたいのに一歩が妙に重く引きずるように足を前へ出す。

「色々あるが今年でお前とは三年目だからな」

 リーダーが僕の背に言葉を投げかける。

「あんなバイトの女に良いところを見せたい奴だとは思わんが一蓮托生なこと、忘れんなよ」

「はい」

「まあヤりたいなら応援するが。社内じゃなきゃ何しても構わんぞ」

 ポケットにまた手を入れる。そして首をゆっくりと振って手を出した。

「嫌ですよ。“あんな女”。たしかに可愛げがない」

 「おっ」と愉快そうな声が上がった。

「世の中の理不尽も何も知らないで、目の前の仕事だけできて喜んでいるなんて“浅い”じゃないですか。せっかくうちでバイトしてもらうならちゃんと社会の厳しさも教えてあげるのが人生の先輩としての務めでしょう」

 それだけ吐き捨てて、扉を閉めた。

 見慣れた薄暗い廊下を歩いて、階段をゆっくりと降りる。頭を巡るのは今日のアルバイトの女こと近場さんだった。

 今のところ、仕事に目立ったミスも妙な癖もない。こちらが望んでいる以上の質と量を熱心に捧げてくれている。無垢な瞳を輝かせて、僕やリーダーの指示を正しく吸収していた。

 だからこそ、酷く腹が立った。

 彼女は、近場さんは世間の理不尽さも、清濁併せ吞む“汚れ”を受け入れないとやっていけない社会人の凄惨さも何も知らない。そんな純粋無垢ではなく無知な笑顔で僕達と向き合っていた。リーダーの本性が女性差別主義者のパワハラセクハラ野郎なのも、僕がそんな奴の下で二年以上苦しんでいる被害者なのも全く気づかないのだ。

 ただ純粋に仕事を愚直にこなせば正しき対価が得られると信じ込んでいる。僕達が温かく受け入れて席という居場所があると思い込んでいるのだ。

 首の付け根付近が妙に痛み、思わず手で押さえる。踊り場で僕は一度立ち止まりもう片方の手で壁に手をついた。

 脳の奥で誰かが叫んでいる──そんな感覚に襲われ眩暈がした。

 だから教えなければ。社会で居場所を獲得するには理不尽に耐え、濁流の水を啜りながらしがみつかなければならないことを。そうしなければ。

 下への階段が無限に続くような錯覚に囚われた。


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