2-2 現在 その二 遠出叶大は夢の中で祈り続けたい
目を開けたらデジタル時計が十時過ぎを表示していた。
「ヤバ……くはない、か」
バイトのシフトは夕方からだ、問題ない。喉に違和感を覚え、出した声は掠れている。目の周囲に肌が引っ張られるような感覚がして触れればザラザラとしていた。考えなくてもわかる。過去の夢を見て、涙を流していた。
立ち上がり残り五パーセントで耐えてくれていたスマートフォンを充電器に差し、枕カバーを外す。枕カバーを手にしたまま、両手を上にかざし伸びをする。そうしてもう一度ベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめた。顔をとっとと洗いたいが、明らかに質の良い睡眠ではないせいか、気だるさに包まれていた。
愛憎の“憎”が消滅して、空いた場所に入りきらない愛が押し詰められた。親父の葬儀後の俺の千花に対する感情は一言で表せばそれだった。満たされた、救われた、報われた。様々な言葉を並べても表せないくらいの幸福の中で俺は高校生活を過ごすこととなり、ほんの少しだが心に余裕ができたらしい。気がつけばクラスメイトや同級生ではなく一応友人と呼べる集団の中にいるようになり、在学中に別の理由で両親を亡くしたことでさすがに絶句していた教師達もホッとしていたらしい。
そして一方で。
寝返りを打って頭を枕から落とせば頬に当たったシーツが湿っている。溜め息をつき、シーツも変えようと決心する。服も脱いで洗濯しよう──カーテンの隙間から夏の濃い青空が広がっていた。
面倒くさがってタオルケットを蹴り飛ばし、フローリングへ滑らせた。そして四つん這いになって、ベッドマットの角を一つずつ引っ張っていく。ゴムで留められたシーツが勢い良く剥がれていき、ベッドの上でくしゃくしゃに丸めていった。
近場千花への恋心を自覚したのは、高校二年の二学期頃だった。
きっかけは特に覚えていない。ただ心に余裕ができて、千花との関係を深めつつ他の連中ともつるむようになって気がつけば……だった。愛憎の“憎”が消滅して隙間に詰めた愛の一部が押し固まって恋になっていた。何度も歩いた帰り道で夕陽に照らされる千花の頬に見惚れたり、この家に遊びに行くと言われる度に部屋を念入りに掃除するようになった。かつては行き場のない感情に無理やり名付けた感情を手にして困り果てたが、俺なりのけじめとして大学受験が終わった後に告白をした。
「私からしようかと迷ってた」
と、はにかんでいたあの顔を俺は死ぬまで覚えているつもりだ。
シーツと枕カバーを両手に抱えて洗面所へ向かう。汗だくになった記憶があるからだろう。何だかいつもより布の塊が重く感じた。
洗濯機の蓋を開けて、シーツと枕カバーを放り込む。服は、と脱ぎかけてそのまま重量を計ろうとボタンを押す。縦型の洗濯機の中で溢れそうなシーツと枕カバーが半回転した。見た目からして一人暮らし用の洗濯機にはこれ以上入らないだろう。二回に分けて洗濯すればいい。すぐ乾きそうな天気だし。
電子音が鳴ったのでモニターに視線を落とす。表示されたとおりに洗剤や柔軟剤をそれぞれの場所にセットして蓋を閉めた。そうすれば後は勝手に洗い始め、ある程度脱水までしてくれる。便利な世の中だ、と感心しながら洗面台上の照明のスイッチを入れる。
ぱち、ぱち、と瞬いて鏡を中心に僅かに明るくなった。顔を洗おうと洗顔剤を手にして蛇口レバーを上げて水と混ぜる。泡をそのまま顔全体に乗せて、そして両手に溜めた水を顔にぶつけた。髭はバイト行く前にチェックして、もし伸びてたら剃ればいいか。俺は髭が薄い体質らしく、剃るのは二日に一回でいいと言ったら友人に羨ましがられたっけ。洗い流したらうがいもして、排水口付近に静かに吐き出す。
蛇口レバーを下ろして、目を閉じたまま左手でタオルを掴んた。そのまま乱雑に拭いて、上体を起こす。
人より大きな図体の上部にぎらぎらと血走った目を輝かせた、遠出叶大がいつもどおり鏡に映っていた。
洗濯機が唸り声を上げている。照明を浴びた俺の顔は、薄らとついた隈まで暴いて薄暗い洗面所にくっきりと浮かび上がっていた。
あれから千花は、俺が時折体調を夜に崩しているのにも気づいてしまっていた。だが、原因が原因なので生まれつき身体が弱いとだけ伝えるに留めている。昨日の日傘のように、気を遣ってくれることが増えたのをただ甘えるように俺は享受していた。
洗面台に両手をつく。じっと顔を見つめる。
「化け物みたいだ」
と、そう思った。
俺は今でもクソ親共を見殺しにしたのを後悔はしていない。世の中の大半の連中が理不尽に怪異に襲われていても救いはしない。見たいものだけ見て、俺みたいな虐げられている者を見ようともしない奴等に手を差し伸べてやる義理はないからだ。高校生活を経て助けてやりたい範囲が少しだけ広がっただけで根底は変わっていない。
本当に自分に都合の良いように、“俺の罪が発覚する可能性のある記憶は取り戻さず、俺の虐げられた過去にだけ気づく”という形で千花が俺を救ってくれたのにも関わらずだ。
理不尽に虐げられていた俺は、彼女に気づいてもらい報われた。
俺が見せたいものを見てくれて、見せたくないものが見えていない“近場千花”が、傍にいてくれる。
夢を見ているようだ。あの日からずっと。これ以上の幸福は存在しない。
だから、罪だけが残った。理不尽な親を取り除いて、理不尽な過去を救われて、理不尽な人殺しの化け物である俺だけが残された。
拭き漏らした水滴がこめかみから顎へ伝って洗面台へと落ちた。体温で温くなった液体が流れた後の輪郭がひんやりとして、身震いした。
「まだ、夢なら覚めないでくれ」
鏡の俺に懇願する。
「お前なら、まだできるだろう」
もう一度タオル掛けからタオルを取って顔に押しつける。顔から水分を奪い去った後も、鏡に映るのは化け物みたいな俺に変わりはない。
木寄から以前読まされた本曰く、“門”の記憶障害は一生続く可能性もあれば、不意に門を開いた時と近しい経験を積むことで解消されることもあるらしい。つまり、俺の家庭の事情を知っているという記憶を失う直前の状態に近づいた千花はいつ記憶を取り戻してもおかしくはない。だから俺は千花に怪異に関わってほしくないと遠ざけようと必死だった。でも、不可能だ。この世から怪異という理不尽が尽きることはないのだから。
いつか覚めるかもしれない現在というあまりにも都合の良い夢を俺はずっと見続けている。そして覚めた先で何が待っているのかも、予想ができていた。
──二度と会わない。私……というか男の人も女の人もお互いに本当はずっと一緒にいたいだろうけど、だからこそ会わない。それが一番の罰で、反省だと思う。
──自分が傷を負ってでも好きな人には反省して真っ当な道を歩いてほしいって考えるかな。二度と会えなくても、辛くてもそれでいい。
ただの映画の感想だった。例えば、人は過剰に自分の感情を表現する。少しの苛立ちを「殺意が沸いた」とヘラヘラ笑いながら口にする奴は少なくないように、客観的に見れば千花も大袈裟に言った可能性もあると考える奴が殆どだろう。
だが、俺は違うと断言できる。肉の化け物をもっとも残酷に絶望する形で食い尽くし報いを受けさせたあの姿が証明だった。千花は人の為に怒り手を差し伸べる優しさを持つからこそ、理不尽を許さない。その対象が自分と俺であっても変わりはしない。
俺が殺人者だと気づいた千花は、俺のクソ親共への憎悪を受け止め同情するだろう。そして報いとして二度と俺とは会わない人生を歩む。いっそのこと恨んで殺して“特別”にしてくれればいいのに、俺が楽になる道を選んでくれないのだ。
鏡の中の化け物を見たくなくて逃げるようにダイニングを早足で過ぎ、寝室のカーテンを思い切り開く。清々しい青空が今日も俺の夢を祝福し、同時に目覚めを待っていた。
不意に充電器に差したスマートフォンがサイドチェストの上で震えた。手に取れば千花の名前が表示されていて、俺は慌ててタップする。
「千花」
『あ、叶大君。体調は大丈夫?』
「そんなに心配しなくても平気だ」
『じゃあさ。……今日バイト夕方からだよね? その前は暇?』
「うん? 洗濯して風呂入ったら、まあたぶん」
『バイトまで遊びに行っていい? お菓子買ってく』
もしかして昨日拗ねたのを気にしているのか。思わずフフっと笑みが漏れた。「ああ、いいぜ」と返し、昼も一緒に買って食べようとスーパーマーケットの前での待ち合わせを提案した。了承され、通話を切る。これだけで気だるさが吹き飛ぶのだから俺は単純で、そしてやがて与えられるかもしれない“別れ”は死刑よりも重い罰だった。
そして罰の執行は既に始まっていた。今の会話も“都合の良い夢”であると常に直面させられている。失う覚悟と恐怖を常に味わいながら、見たいものも見たくないものも見続ける人生を俺は生きていた。
どうか夢が覚めませんように。近場千花が怪異に気づかず、他者の脅威には無力なただの人間で在り続けますように。覚めるとしても、できるだけ遅くなりますように。
いつか夢が覚めた時に、千花を傷つけず手放せますように。
そのために、恋人になったのにキスだってしていないんだから。
夢から覚めないようにずっと俺は千花に祈り続けている。
第三章 前編 完 後編へ続く




