2-1 X回目(前編)
ワンシーズンで流行りも去り、くたびれるデート用の服に金を使うなんて馬鹿げている。試着してしわくちゃになったダークブルーのシャツを棚に放り投げる。使い捨てのティッシュのようだ。俺は冷ややかに一瞥だけして買い物籠の中に綺麗に折りたたまれたものを入れる。大衆向けの服飾店の一番良いところはスーパーマーケットにあるようなプラスチック製の買い物籠を使えることかもしれない。欲しいものがあればとりあえずキープするために放り込んでおける。ブランドばかり振りかざした服飾店ではそうはいかない。
するとスマートフォンがジーンズのポケットで震えた。取り出して通知を見て、またポケットに捻じ込む。夜に次に会う日時の話をしようと送ったのにあいつはさっきから俺にメッセージを連投してくる。あの艶めかしい肉体を味わう前に捨てるのは残念だが、もう潮時な気もするしずっと悩みの種だった。とりあえず“もしものために”次の連休のバーベキューで敦也に会社の同僚の選りすぐりの美人を用意させた。自然と緩む頬を撫でながら、俺はハンガーラックの列を進む。シャツに黒のカーゴパンツを合わせたい。それからUVカット効果がある薄手のウインドブレーカーも一応用意したい。グレーの迷彩柄なんてどうだろうか。
鼻歌まじりに体格の良いマネキンの前を通る。そうして洗濯物が干されているようにハンガーラックに吊るされた大量のカーゴパンツを発見した。
「短めもあり、か」
所謂十分丈か九分丈の要はよくある長ズボンにしようとしていたが、七分丈のものを見つけ、姿見を探す。黒色の九分丈と七分丈のものを籠に入れ鏡の前に立ち腰に合わせてみる。どちらも中々良いんじゃないだろうか。
「次はお前の番だからな。覚悟しておけ」
「服を選ぶだけで覚悟って何」
「胸に手を当てて考えるんだな」
乳繰り合ってる不快なカップルことチカとカナタの二人はカナタの服は買い終わったらしい。次はチカの服だとメンズのコーナーからレディースのコーナーへと移動をし始めた。といってもハンガーラックの列をかき分けてすぐの場所ではある。俺とは真逆の方向にいったが、声が僅かにここまで届いていた。
ああはなりたくないものだ。
そう肩を竦めながらこの服飾コーナーの中央へ向かう。やはり実際に履いて確かめないと。大きな試着室と書かれた半個室へ吸い込まれるように俺は入り、先程と同じように真ん中の試着室の前で革靴を脱いだ。
正面は全身を映す鏡。右側は荷物起きの棚が壁にくっついていて、左側は床にフェイスカバーとそのゴミ箱が置かれていた。『被り物を試着される際は』とお決まりの文句が書かれた張り紙の上に銀色の出っ張りが二つあり、片方には紺色のリボンがついたブラウス、もう片方には何故かピンク色のフレアスカートとがかけられたハンガーがぶら下がっていた。今更だがこの個室はどちらかと言えば男性用に作られている──トイレのように明確に男女別で分かれてはいないがここはメンズの服が、もう一つの試着室はレディースの服が近くのため自然とそういうように皆使用していた──ような気がするが、何故かレディースの服が残されている。あれからダークブルーのシャツ以外も試そうと試着した時は白のワンピース、その次は花柄のオフショルダー、更に次は黒のタイトスカートがあったっけ。結局ダークブルーの無地のシャツのままにしたが。
にしても。
鏡に俺の怪訝な顔が映っている。右手が伸び、紺色のブラウスに触れ、ハンガーを出っ張りから外し、手に取ってみる。化学繊維で作られたそれは表面が光沢を帯びていて、手触りも良い。特に湿っているのが心地よく、俺の手をじんわりと濡らし、錆びた匂いがした。
これはあいつと初めて二人きりで食事に行った日に着ていた服だ。ここで購入していたのか。
スカートも同様に湿っていた。ああ、あの時はここから伸びる程よく肉付いた脹脛を噛んでやりたいと唾を飲み込んだのだった。
服を丁寧にハンガーに戻す。濡れた手をジーンズで拭けば、またポケットが震えた。
『すみません。ちょっと色々連絡を取ってて返事できませんでした。結論から言えば来週のバーベキューなんですが、女の子達全員欠席です』
敦也からの衝撃の連絡に俺は「ああ?」と柄の悪い声を上げていた。
『埋め合わせはできるんだろうな』
『今連絡を取れるだけ取ってます。でも難しいかもしれません』
『後輩の男とだけバーベキューする趣味はないぞ。何のためのルーフバルコニーでのバーベキューだと思ってんだ』
『あの、勝尾さんには誘えそうな女性いないんですか?』
ピタリと手が止まる。俺に誘える女だって?
『無理。何で出会いがほしいのに俺の知り合いからメンバー出さなきゃいけねーんだ』
既読の文字がすぐに画面に表示され、一瞬間が開く。少しして着信と出たため、耳に当てた。
「敦也。どういうことだ」
「すみません。勝尾さん。こっちで説明した方が早いと思いまして」
情けない声が鼓膜に捻じ込まれる。「馬鹿、声がでかい」と諫めればまた「すみません」と頭を下げる姿が想像できてしまう声がした。
「全員急にキャンセルって普通起きないだろ。お前の会社の別部署の女友達と聞いてたが」
棚に尻を乗せ、首をコキコキと鳴らす。同じ部署で顔を突き合わせて仕事をしている三人なら病が流行ってだとか、繁忙期で休日出勤だとかそういった理由もわからなくもない。だが、今回は敦也から事前に「全員別の部署の人間で入社年もバラバラだが同僚や後輩の繋がりから集めた」と説明を受けていた。
「ええ、ええ。そのとおりなんですが。急に連絡がきて」
「もう予約をしたからって引き留めろ。実際してるんだし」
「それは難しいと思いますよ。店のアドレスを送ったんですが、前日までキャンセル無料って書いてあって……」
「何故送ったんだ」
怒りよりも疑問と呆れが先走り、声に感情が一層こもる。「あっ、あ」とどもる敦也に引き攣っていく頬を液晶で押さえながら俺は言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「代わりのメンバーを入れろ」
「えっ」
「お前と……後輩の成哉だっけ? 二人でかき集められなかったらキャンセルした女達に言え。『三人だと寂しいから他に行けそうな人がいたら一人でもいいから教えてほしい』と。知らないメンバーの中に一人乗り込むのはキツいって言われたら『“初めて参加する”大学時代の先輩も来る大丈夫』とか……とにかく適当に考えろよ。お前営業職だろう」
「営業とナンパ目的のバーベキューは違いますよぉ」
「同じだろうが! “商品”を俺に売り込むための会だろ。何のためにお前らにもおこぼれをやろうとお膳立てしてやってんだ」
スマートフォン越しに敦也が息を呑んだ。小さく呻いた後、押し黙っている。
「おい、どうした敦也」
「……それがバレたんですよ」
今度は俺が息を呑む番だった。
「バレた?」
「勝尾さんが女の子を物色するための会だってバレてるんですよ。うちの社内で! 『俺が脅されて女の子をとっかえひっかえする社外の先輩のために合コンを開かされているから行くな』って。女子三人から言われました! 二度と話しかけてくるなって!」
「それはお前のミスだろう! ミスをリカバリーするのが社会人としての」
「とにかく!」
耳元で音が破裂する。敦也が俺に声を荒げたのは初めてのことだった。
「もう今回は無理ですよ! 社内の子達は全員そっぽを向いてます。俺だってこれからどうしたらいいか……社内で何て言われてると思います? 週末人事にも呼ばれて……更には」
しゃくり上げる声が続けようとした一言を俺は「もういい」と遮った。
なんて女々しい奴なんだ。自分のミスで彼女ができないのに、泣くなんて。
「あー……。成哉だっけ。お前の後輩。そっちのツテで何とかならないのか」
気がつけば頭を掻きむしっていた。短く整えた茶髪が手の平で押され、ぐしゃぐしゃになっていく様が鏡に映る。胃がキリキリと痛み、何か発散するものが必要だ。
「俺達と大学、違うんだろ。大学の頃の知り合いとかを呼べないか聞けよ」
「まだバーベキュー、やろうとしてるんですか?」
俺が、こんなに、辛い思いをしているのに。そう意味が込められてそうな泣き声だったが、気づかない振りをする。文句があるのに直接言ってこないお前が悪い。だから泣いてるんだろう?
胃が更に刺されたような痛みを発する。俺はそっと目の前のブラウスに手を伸ばし、抱きしめる。濡れたプラスチックのハンガーがマットレスに転がりまた錆びた匂いがした。気にせずに力を込めればシャツに水気が染みこむ。苛立ちを洗い流してくれるようだ。
「当たり前だ。常に上を目指して理想を追い求めるのが」
「わかりました! わかりましたから!」
ムッとして言い返せばまた面倒なことになる。スカートも手にして下半身に押さえつけた。下腹部をじんわりと包み込む冷たさに身体がぶるりと震えた。
それから適当に日程の確認だけを済ませた。明日出勤したら成哉に女のあてを聞き、メンバーを集める。渋々だがそれで納得したようだ。
「じゃあな。次は良い連絡を待ってる」
切電ボタンをタップしようとすれば「勝尾さん」と呼び止められる。これ見よがしに舌打ちを敦也の鼓膜に叩きこみながらそれでも努めて冷静に「何だ」とだけ返した。
「勝尾さんってその、彼女に振られたんですか」
何を言い出すんだ、こいつは。
「俺は振ったことはあるが振られたことはないぞ」
どうして俺が“俺を引き立てるもの”に捨てられなければならないんだ。
「そうじゃなくて、今付き合っている人が」
「近日中に別れ話をする予定だ。ろくでもない女だった」
スピーカー越しに何か言いたげな気配を何となく感じた。モテない男の僻み。何だか気分が良くなりブラウスに頬擦りをした。
「……ああ、はい。そうなんですね。すみません、では」
些か一方的に電話を切られるが、もうどうでもいい。前屈みになりスマートフォンをマットレスに落とすとブラウスとスカートを一層激しく抱きしめる。冷たい、気持ちいい。ああ、これを着ていたあいつも──
にやけながら鏡を見ればブラウスとスカートを押しつけた部分だけが黒く変色していた。想像していたよりびしょびしょになったが問題はないだろう。服の試着とはそういうものなのだから。
手早くカーゴパンツを履き比べる。初夏のバーベキューなら七分丈の方がいいと結論づけ、名残惜しいが試着室を後にした。