1-2 高校一年 四月 その二
しまった。俺は椅子に腰かけたまま、目の前に立つ千花を見上げていた。
千花は俺の顔を目を丸くして凝視したまま固まっている。遠くから悲しみを乗り越えようとしている真っ当な精進落としを行なっている者達の笑い声が響いていた。喫煙所からは誰も出てこない。この場には、変わらず俺と千花だけだった。
俺は場違いなまでに、満面の笑みを、浮かべていた。
母親を見殺しにして、そして父親を見殺しにしてあと少しで葬儀が終わる。ようやく本当の意味での復讐が終わり、縁を切れる。その気の緩みが、歓喜がどうしても堪え切れなかった。だからあの重苦しい場を抜けてここで一頻り笑みを浮かべてから戻ろうとしていたのに。
「叶大君」
千花がもう一度俺の名を呼んだ。その声は震えて、顔は驚きを張りつけたままだ。俺の顔から笑みが消える。上がっていた口角が下がり半開きの口を作った。血の気が引いていく。身体が冷え切って呼吸が浅くなってきた。呆然と、千花を見上げたまま脳の奥底で様々な記憶や思考がぐるぐると回っていた。どうしよう、どうすればいい?
退怪者だとか怪異だとか記憶を失っているだとか思い出すだとか虐待だとか殺人だとか気づいてくれないだとか。今までの全てがどうであっても、この瞬間だけは関係がなかった。
だって父親の葬儀で俺は一人離れた場所に移動して笑っている。心底嬉しそうに、この世の幸福を煮詰めたような笑みを浮かべていたに違いない。
親の死を喜んでいる。その事実だけで千花が離れていくには十分だった。
「あっ……」
半開きの口から漏れたのは情けない鳴き声だった。そのまま口を押えて土下座をするように俯く。また視界が絨毯に染まる。千花の黒い靴の爪先がただ動かず、まるで俺の罪を裁く裁判官のようにそこに在った。
何を言い訳すればいい? さっきあまりにも気落ちしていたからスタッフさんが気を遣ってジョークを言ってくれた、とか。無理に決まってる、意味がわからない。どうしよう、どうしよう。感情は張り裂けそうに身体中を駆け巡っているのに、思考がままならない。いかないでくれ。違う! だったら言い訳を考えなくては。消えないでくれ。千花はきっと俺のこの笑顔を他の連中には伝えないのだろう。今までどおり一緒に過ごしてはくれるのだろう。けど、駄目だ。心の底で俺を軽蔑して、やがて互いに大人になった時におじさんとおばさんの庇護がいらなくなった途端に去って行ってしまう。髪をぐしゃりと両手で掴んで頭を抱えた。だから考えろ。駄目だ、どうやっても笑っていた事実と親の死に悲しんでいる遠出叶大が繋がらない! 心臓が痛い。焦っている。額からぽたぽたと汗がまた二滴絨毯に沈んだ。口が乾く。頭が重い。「ほら叶大。ちゃんと起き上がらなきゃ」とクソ親共の幻聴がした。「いーち、にいー、さあーん……」と数えられる。やめろ、ふざけるな。これはお前達への正当な復讐だ。理不尽に対する罰だ。俺は見殺しにしたのを後悔していない。でも、千花は。理不尽を許さない、千花は。
「気づかなくて、ごめん」
「え」
嘔吐しそうな口から漏れたのは間抜けな声だった。
今、何て言った?
知らずの内にギュッと閉じていた瞼を開けていく。小学生の時、修行が辛くて泣き腫らした翌朝よりも瞼が重かった。毛が固くなって少し色褪せている絨毯に、千花の靴。何も変わらずにそこに在る。
千花は喋らずにじっと俺の反応を窺っているようだった。頭に視線が刺さっている。抱えていた手をだらんと下げれば、息を呑んだのがわかった。
何を、言った? 下げた指先が冷たいのに、手のひらは汗をかき始めていた。言葉は理解している。だが、期待するんじゃない。俺の想像と違う可能性の方が圧倒的に高いんだから。むしろ有り得ないんだ。だって彼女は全部。
ごうごうと耳鳴りがして、更に心臓の鼓動まで聞こえた。それ以外の音がなくなって、世界に千花と俺だけになったみたいだ。背筋が冷たいのにまた額から汗が絨毯に落ちていく。吐いた息が熱く、荒い。息を吸っているのに苦しくて、それでも頭を上げるしかないのだ。
視界の端から黒く染まっていく。ごうごうと音がする。立ち眩みのような状態を起こしていた。本当にゆっくりと重い頭を、上げた。
千花は眉を下げ、泣きそうな顔をして、俺を見つめていた。
「えっと」
「立てる?」と聞かれたので反射的に頷く。すると意を決したかのように手首を掴まれた。
「お父さん達がきっと何とか場をもたせてくれるだろうから。……こっち」
俺の手を引いて千花がエレベーターの方へ歩いていく。無言で俺もついて行き、一階まで下りた。
途中、何回かスタッフさんとすれ違い、律儀に千花は会釈をしていたので俺も真似をする。そうして斎場を出て、ぐるりと回り、裏側の駐車場へと辿り着いた。
アスファルトのそこには、自動車が疎らに駐車されている。その一番遠くに生垣代わりに細長い木が一定の間隔で植えられた場所があった。千花が立ち止まり、手首から手を離す。まだ昼過ぎの駐車場は温かな日差しに照らされて、枝葉の影が向こう側の公道にかかっていた。
くるりと千花が振り返り、俺を見上げる。そしてその小さな口を開いた。
「ここならたぶん誰にも聞かれないから。で、あのね。外れていたら本当に失礼だし、ううん。外れていなくてもこんなこと指摘されるの叶大君を傷つけるだけかもしれないけど。他人の心に無遠慮に踏み込み過ぎっていうやつかな」
一度俯いて黒の靴の爪先でアスファルトを叩いた。両手は腹の前で組んで、そしてまた俺の顔を真っ直ぐ射抜く。
「外れている方がむしろいいんだと思う。けど。……叶大君。もしかしてだけど、ずっと叶大君のお父さんとお母さんに酷いことをされ……」
温かいと、思った。俺より小さな身体が腕の中にいる。身体が衝動的に動き、千花を抱きしめたのだと、数拍遅れて気づいた。
セクハラだ、過剰なスキンシップだ。最低だ、良くないことだ。妙にそこだけ冷静に俺は自らの失態だとこの行動を恥じた。だが腕が動かない。それどころか一層強く自分の身体に押しつけるようにしていた。
風が吹きつけて、細長い木がしなってくすぐったい音がしている。頬が冷たくて、ようやく俺は知らずの内に涙を流しているのに気がついた。
「何で」
既に鼻声で、俺は小さく腕の中の人に囁く。千花の憶測に対する肯定でしかなかった。
「何で」
「だってあんなに嬉しそうに笑ってたから。心配でついて行ったらすごい幸せそうな顔をしてて驚いたんだけど、納得もしてしまって」
駄々っ子のような俺の疑問の意味を察してくれたらしい。俺の胸板に潰されて声がくぐもっている。
「納得?」
「さっきの叶大君を見るまで本当に何にも気づかなかったの。でも、見た瞬間に色んな記憶が蘇ってきて」
「記憶ってお前」
「小学校の時の校門の前で寝てた理由は思い出してないよ。それじゃなくて一緒に遊ぶようになってから違和感……と言ったらいいのかな。もっとも“今考えたらあれがそうだったのかも”レベルだけど」
森の記憶は戻っていない。それに安堵して続きを待った。
「小学校の時にね。叶大君、“全然お家の話をしない”なぁって思ってたの。学校は……その皆と“そういう”関係だったから話し辛いのはわかる。でもずっと私の話を聞いて相槌を打ってるか、私の家で一緒に見たアニメや漫画の話が多かったでしょ。ファントムボンバーズの話だって、“私の家で一緒に見たところしかできなかった”。話すより話を聞く方が好きな子もいるからそっちかなって当時は思ってたんだけど……今考えたら“家で何もできない状態”だったんじゃないかって思ったの。それから……」
息を吸う音が胸元でした。
「葬儀が終わって引っ越しをして手伝いに行った日に叶大君、『この先はずっと楽しみだ』って言ったんだよ。話の流れ的に“私が生活習慣病にならないように甘い物を我慢して苦しむ姿を楽しみに見る”ことだとあの時は思ってた。でも、違ったんだね。だって“同じ顔でさっき笑ってた”。どっちも“親がいなくなった後だった”。だから……さっき気づいたの。だから」
トントンと胸を叩かれて俺はようやく腕を緩めた。腕の中には悲痛な顔をした千花がいて俺を見上げていた。水の膜が張って、視界が歪む。洟を啜れば、膜が弾けて頬を伝う。そんな状態なのに真っ直ぐ俺を見ていてくれた。
「気づかなくて、ごめんなさい。ずっと苦しんでいたのに、何も気づけなくてごめん。私が気づいたからどうにかなってた問題じゃないのも理解してる。気づかなくてなんて、気づいてほしいかもわからないのに傲慢だと自覚はある。でも、ごめん。言えないよね、こんなこと。だから気づいて、少しでも何かできていたら。ごめん、ずっと隣でヘラヘラ笑って……きっと沢山傷つけるようなことも言ってた。気づけなくて、気づけなくて……」
「う、あああ……」
血を吐くような嗚咽が喉から漏れ、腕を下ろした。だって、そんな。嘘だろう。ボロボロと涙が枯れずに零れていく。胸の奥が絞られているように痛いのに、燃えるように熱い。足が震えているのに、浮いてしまいそうなくらい感覚がない。思考が、追いつかない。なのに過去の記憶が延々と脳内で再現されては当時の感情をも引き出されている。
「俺」
「うん」
「……俺、ああ、ううっ」
「うん」
それよりも、何よりも。
「気づいて、ほしかった」
「ごめん」
「ずっと、ずっと……ずっと! お前に、お前に……!」
「……ごめんなさい。言えるわけ、ないもん、ね。気づかなくて、ごめん」
「ああ、うあああああっ! ああっ!」
千花が、千花が気づいてくれた! 俺の苦しみに、俺の憎しみに! そして受け止めてくれている!
しゃくり上げて口元を押さえれば頬に静かに涙の跡をつける千花がそっと両手を広げ、俺の背中に回そうとする。背中の途中でとまり、両手が背をゆっくり擦った。
「こういう時に、胸を、貸したいから、気づきたかったんだ」
「辛かったッ! ずっと、ずっとあいつら……!」
「大丈夫、言えないことは言わなくて」
「ああっ……嫌だった! ずっと、嫌で……」
わんわんと感情を垂れ流して、声をふり絞って、詰まった鼻をぐずぐずにして、ボロボロと涙を零していた。そっと手を回し返し、しゃくり上げて身体を震わせる。千花はずっと頷いて、背中に回された手が温かかった。
あまりにも都合の良い夢のようだった。だって千花が過去の記憶を取り戻さずに、俺の苦しみにだけ気づいてくれた。怪異の存在も知らず、俺の罪に気づく可能性も高まらないまま、今まで気づかなかったのを謝罪し、俺の救いとして抱きしめてくれている!
嗚咽が笑い声に変わる。ぐちゃぐちゃの感情に歓喜が混ざって、一層涙となった。
「ありがとう」
「うん」
「気づいて、本当に気づいてくれて」
気づいてくれた! かつて理不尽にも無理だと言われ、怒りを滾らせたそれを千花は成し遂げた! 俺の想像もしなかった可能性を見せてくれた!
過去の、忘れ去られた肉呪主を食べた近場千花と目の前の近場千花が一つになる。
“これ”は間違いなく千花だ。ずっと千花だったんだ。
見たいものだけじゃなく見たくないものを彼女は見た。見れなかったことを謝罪した。
近場千花は怪異だけ気づかない。それ以外は、俺を救ってくれる。
時間も恥も何もかも忘れて濁流のような感情を吐き出す。
優しい青空が、俺達をそっと照らしていた。




