3-24 最後の復讐
玄関で靴を脱ぎ、まずは手洗いうがい。寝室のデスクに立てかけるように鞄を置いて、制服をハンガーにかけながらスマートフォンをベッドに投げた。部屋着のよくわからない表情をした猫と妙な英単語がプリントされたスウェットに首を通して、ベッドに転がり込む。腹も減っていたし、喉も乾いている。鞄の中に飲みかけの緑茶のペットボトルが入っていたが起き上がって取るのが億劫だった。少し休んでからにするか。スマートフォンに手を伸ばしSNSに流れているニュースにぼんやり目を通していれば、画面中央に大きな横線が入った。
「知らない番号……?」
着信の表示がされて、喫茶店のパフェの写真が隠れてしまっている。ゴールデンウィークに千花と少し遠くに行ってみたいから調べてたのにと舌打ちをして、そのまま放置する。こういう“迷惑電話”は、出ないのが一番だ。
じっと画面を見つめていれば着信の表示は消えて、つやつやとした苺が猫の耳のようにアイスに乗せられているパフェの写真が見えるようになる。あいつ、こういうの好きだろう。場所もここから一時間半程度だし全然日帰りで遊びに行け──
スマートフォンが震える。画面にまた同じ番号からの着信が表示された。
「何なんだよ」
何回も何回も。迷惑メールや電話が絶えない世の中だが、ここまで連続でかけてくるのは中々ないんじゃないだろうか。面倒だと手を離して、シーツの上に置けばブルブルとまだ震えていた。立ち上がり鞄のファスナーを開ける。緑茶を流し込みながらスマートフォンを見ていれば、切れたと思えばまた着信を繰り返していた。
──千花に何かあったとしたら?
千花の家はここから十五分くらいの場所だ。分かれ道で別れてそこから数分で千花は家に到着しているはずだし、俺に用があるなら自分のスマートフォンから電話をしてくるはず。他のかけてきそうな、例えば木寄やその上司、未成年後見人も同様だった。
忍び足でスマートフォンに近づく。こんな電話出ない方が絶対にいい。でも千花絡みだったら? 無意識に唾を飲み込んでいた。ペットボトルを左手に持ち替えて、俺は右手をゆっくりと伸ばした。
指先で受話器のマークをスライドさせる。恐る恐る耳元に当てて、凄むような声を出した。
「……もしもし?」
「叶大……かぁ」
べコっと音がして裸足に冷たい緑茶がかかる。俺は息を呑んで、そのまま部屋の真ん中で突っ立っていた。
電話は父からだった。
この電話番号を漏らしたのは誰だと奥歯に力を込める。父が入院してから一度も俺は顔を合わせてはいないし、このスマートフォンも契約したのは入院後なので番号どころか存在すら知らないはずだ。
「かな……ザザ……聞ザザザ……る……」
木寄だろうと消去法で決めつけ、俺は無言のままスピーカーモードにして机の上にICレコーダーを並べて置いた。何かあった場合の証拠を残す習慣がついてしまっていた。
「聞こ……ザザザザザ……か……てく……」
ICレコーダーの意味があるのかわからないほど、雑音が酷くて聞き取れない。顔を顰めてそっと引いた椅子に腰を下ろす。二つの電子機器の前でじっとあいつが何をしたいのか見極めようとして──俺は目を見開いた。
「叶大ァ! 何処だぁっ! お前がなぁ! お前のせいでぇ!」
勝手にビデオ通話にスマートフォンの画面が切り替わり、薄暗い中に立つ無数の何かを背景にして痩せ細り目を血走らせた父親の顔面がスマートフォンの画面に照らされて表示される。画面左上にある円形の影はおそらくこいつの指で、早足で何処かを歩いているのかそのまま顔も上下左右に揺れていた。時折映る骨と皮だけの首筋とその下の襟からパジャマを着ているようだった。ザザザと風の音がする。パジャマで外に?
「何処だぁ! 何処にいる!」
思わず内カメラを指で押さえたが、父の反応に変化はない。だから一方的に父側だけビデオ通話になり、俺の方はカメラがオフになっているらしい。何も操作していないのに? 疑問を抱えたと同時に俺は目を凝らす。そして「はあ」と息を吐き、無意識に首を横に振っていた。
父が入院する前に一応場所の説明を受けていた。周囲を森に囲まれた表向きは国立の療養所となっている退怪者専用の医療施設。どうやらそこから抜け出したらしく、沢山の木の間を、時折幹に躓きながらもうろうろと歩き回っていた。
「お前がぁ! お前があの時ぃ!」
カメラを塞ぐのも、何故操作もしていないのにこうなっているかを考えるのも最早必要ない。俺は手で口を覆い、漏れ出しそうになる声を留めるのに必死だった。恐怖でも怒りでもない。ただ、画面の奥に。
「生きていた! 肉呪主が、俺を! 俺をおおお!」
全然違うぜ、父さん。肉呪主はたしかに千花が食べちまったし、“後ろにいるのはもっと弱い怪異”だ。まあ、今のアンタと比べたらとんでもなく強いようだがな。
画面の奥から真っ青な蛸かイカかわからない怪異が足を引きずって、父をゆっくりと追っていた。
何故父がそんなものに追われているのかは知ったこっちゃない。ただ、俺の“目”は父とその怪異の圧倒的な力の差をきちんと感知していた。このまま放っておけば、当然。
もうやることは決まっていた。ただし今回は伝染型のようなので後処理が必要だが。俺のスマートフォンの画面が勝手に変わったのはあの怪異が次の獲物として俺を選んだからで、だったら不本意だが木寄あたりに“お祓い”を頼むしかなかった。
恐らく……というか確実に俺でも倒せるが、千花に見られたりしたら一大事だ。だからたまには働いてもらおうか。
父を見殺しにする選択があっさりできる自分に一瞬だけ驚いて、俺はスマートフォンを机からはたき落とす。そして、慌てて拾い上げる振りと同時に通話を切り、ICレコーダーの録音も消去した。
「ああー。すっきりした!」
喉から飛び出した声はあんまりにも明るい。これで、本当に俺の復讐はお終いだ。とりあえず、とティッシュ箱から二枚取り出して、零してしまった緑茶を拭き取る。足も丁寧に拭いてペットボトルのラベルを剥がし、一緒にごみ箱に投げ入れた。ペットボトルはリサイクルするから燃えるゴミとは別にしなければ。キッチンとダイニングを兼ねている隣の部屋へ行き、台所で軽く濯ぐ。ビニール袋に入れてベッドの上に戻ればようやくドクドクと今更心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなった。胃が収縮していくのがわかる。堪らず立ち上がり扉を蹴り破る勢いで開けて狭い部屋を駆ける。玄関から見て左の洗面所を通ってまた扉を開ける。頬を膨らましながら、便器に頭を突っ込む勢いで屈み、熱くて苦い液体をぶちまけた。
鼻の奥が痛い。摂った水分がまとめて出て、それから粘性の胃液が口から伝う。喉を切ったのか口内に鉄の味が混ざった。それすらも吐き出して、咳き込んで、唾液か胃液かわからない液体を口から滴らせている。
今でも母を見殺しにした後の嘔吐や身体の痙攣や高熱等、発作は不定期に起きていた。頭を掻きむしりながら眠れない夜を過ごして千花に心配されるのも何回と繰り返しているし今日もそうだった。時が過ぎようとも収まることはなく、きっと俺が死ぬまで続く確信だけはあった。
殺人の後悔は一切していない。けれど身体が罪を咎めてくる。
二人だからこれからは二倍かもしれないな、と不謹慎な想像をすれば眩暈がしてそのまませり上がってきたものを便器に吐き出す。はあ、はあと呼吸を繰り返せば痰が絡んだような音が喉からし続けていた。
「さすがに連絡しねぇと」
そろそろ怪異は父を仕留めているはずだ。だったら“俺のせいにならないためにも”早く連絡をしなければ。長めに切ったトイレットペーパーで口を拭いてレバーを引く。黄緑の液体が流れていくのを見届けて、さっきの父みたいに足を縺れさせながら俺は寝室に戻りスマートフォンを手にした。
登録された普段なら名前も見たくない奴の電話番号をタップする。コール音が五回して酷く焦った声が耳元で破裂した。
ここからはまた被害者の演技だ。俺は虐待されていた父から突然連絡があり、怯えてスマートフォンを落とし、通話を切ってしまう。様子が変で怪異に怯えているようだったし、俺のスマートフォンもおかしかったので呪われたかもしれない、と。
『叶大か! 今忙しいんだ。後で……』
「父さんから、父さんから連絡があって、それで!」
血と胃液の匂いをまき散らせながら、俺は悲劇を演じ切った。
翌日、父が怪異によって殺害された連絡が錯乱しかけた木寄からあり、遺体と対面させられた後に俺への“お祓い”が終了した。
こうして二度目の親の葬儀に臨むこととなったのだった。




