3-22 誰も救わず、ただ過去を愛す
どっこいしょ、と叔父が胡坐をかく。首筋を掻いて木寄に目配せをした。
「君はもう身体的にも抵抗ができる年齢だ。過去の罪は裁かれるとして、現在も虐待を受けているなんて訴えはちょっと違う気がするなぁ」
「“警察官の任務”とは重責を伴うもので、むしろ家族はそれを支えるべきだろう。情状酌量の余地はあると俺は思うが」
「叔父さん。つまり、俺を引き取りたくないんですね」
叔父が目を剥き唸りながら拳でマットを殴り、木寄が身じろいだ。図星か。要は「自分の子を虐待していた兄とも今以上に関わりたくないし、更にそんな家庭で育った俺を引き取りたくないから“どっちもどっち”で二人で暮らしてほしい」が本音なのだ。
そうか、ふざけるなよ。だが好都合だった。
「ただ……木寄さんはよくご存じかと思いますが、父さんは今回の件で心身ともに重症でして。これから無期限の入院生活が待っています。ですので、俺は十三歳の身で一人になってしまうんですよ」
「遺産や兄さんの貯金はあるようだけど、残念ながら僕達家族は君を受け入れる余裕はない。だからこんな家を売り払って施設に」
「家は売りはらって近くのマンションで一人暮らしをします。財産管理等は親権喪失の申し立ての後、未成年後見人を選任してその方に。それくらいの手伝いはお願いしたいです」
「えっ」と声を上げたのは俺以外の全員だった。手のひらに汗もかいていない。大丈夫だ、過程は想像外だったが結論は同じなんだ。
ガキの知識だ。間違っている箇所が多いのは承知だ。けど、叔父がこの態度ならむしろ想定していたよりも上手くいく。
「未成年、後見人?」
だって叔父もよくわかっていないのだ。付け焼刃の知識で押し込めると俺は腹に力を入れた。
「俺の過失については意見が分かれるところですが、事実として虐待が今も続いている証拠があります。ここは叔父さんも木寄さんも意見が一致しているはずです。それに虐待の有無以前に今日一緒にいて父さんが親権を行使できない状態なのはわかるでしょう。だから親権喪失の申し立てをします」
続けて俺が木寄に彼等の上司の名を告げれば、苦々しげに首を縦に振った。父の快復の可能性が低く、今俺が言った手続きが一つの選択肢としてあると実は母の遺体と対面させられる前に告げられていたのだ。
叔父が木寄の顔をじっと見つめていた。旗色が悪くなってきた予感がしたのだろう。
「この人に未成年後見人になってもらうのか」
木寄が冷たく叔父を指さした。
「余裕がないとのことなので、専門職の方にお願いしたいと。ただ俺の年齢で裁判所への申し立てが可能かまでは調べてないので不可能ならそこだけは頼みたいです」
「つまり、その」
「簡単な話なんです。元々俺が叔父さんに頼みたかったのは十三歳の俺が一人で生きていけるための援助で元々叔父さんの家に引き取られたいなんて微塵も思ってはいませんでした。俺は父さんが社会的に制裁されて、できる範囲の縁切りをして、親からの暴力に晒されない場所で一人で生きていきたい。俺が受けた虐待について制裁の方は木寄さんがきちんと報告してくれるようですし、だったら“お互いに”問題はないのでは?」
これくらい通じろよ、馬鹿が。そう吐き捨てずに俺は相手に掴ませたい手をちらつかせた。
「叶大……」
数秒の沈黙の後、父が急に立ち上がった。その顔は絶望に歪んでいて、ゾクリと歓喜に震えた。
「お前は、俺から、退怪者の誇りを奪うのか」
「タイカイシャ?」
叔父が怪訝な顔で復唱して、木寄が「遠出先輩!」と叫ぶ。
途端、身体に強い衝撃を受けいつものマットの匂いが濃くなり、急激に首を圧迫された。
父が仰向けに突き飛ばされた俺に馬乗りになって、俺の首を両手で絞めていた。
「退怪者が、退怪者が俺の、俺の……全てだったのに。奪うのか、俺から! てめぇっ!」
唾が降り注いできて俺はその両手を引き剥がそうと掴んだ。「こぼっ!」と自分の口から間抜けな音がして視界が急激に暗くなっていく。不意に首の苦しさが緩まったかと思えば、左頬に何度も鈍い痛みが走る。慣れているから殴られているのだと、他人事のように理解してしまっていた。
無様だ、それがお前の本性だ。何もかも奪ってやった!
「兄さん! そんな、それじゃあ自分で証明することに!」
「先輩! やめてください!」
その後、記憶は一瞬だけ飛んでいる。木寄が泣きながら父を突き飛ばして、俺はそのまま警察に通報した。
取り押さえられる父と共にパトカーに乗る木寄。救急車までやってきて、俺は搬送される。叔父はただ母の骨壺の前で力無く膝をついていた。
後は一つを除いて俺が望んだようになるだけだった。木寄と例の上司が呼んできた専門家が俺の未成年後見人になって、この忌々しい道場の家は取り壊しの上、土地は売却。俺はそこから徒歩十分ほどのマンションで一人暮らしを始めることになった。叔父とも今まで以上に疎遠になり“お互いに”望んだ形だろう。中学も変わらず、同じ学校に通っている。
唯一の妥協点は、父だった。あいつは虐待の件で退怪者の資格をはく奪されたが、所謂“前科”がついたり俺への所業が事件として表に出されることはなかった。はく奪はされたが、懲戒免職にはならず補助の事務員として特殊課に籍を置いて予定どおり終わりの見えない治療を受けさせる。退怪者としての表には出せない治療と守秘義務のためだと上司と木寄に頭を下げられて、俺は渋々了承した。代わりに責任を持って仮に治療が終わろうと父を一生監視する約束となったのが決定打だった。親権が喪失してもあいつは俺を恨んでいて、接触を計ってくる可能性がある。それを避けられるならと利用することにしただけだった。
何よりも。
「お箸とスプーンとフォーク、冷蔵庫隣の引き出しでいいんだっけ?」
「それは机の上のケースに全部入れることにした」
「この筒みたいなの? 何だっけ、カラトリーケース?」
「カトラリーケースじゃないか」
磨かれたフローリングが真っ白い壁を映していた。小さな室内にカトラリー、カトラリーと千花の呟きが響き、数歩分の足音がした。壁の上部につけたシンプルな時計の秒針が規則的にカチカチと鳴る。空が半分、未開封が三割、開けたはいいが手をつけてないのが残りの二割。数は少ないが段ボールに囲まれて俺はフローリングに胡坐をかいて作業を進める。俺の背にあるダイニングテーブルの上のケースにしまってくれたようで、ガチャガチャと音がした。
「叶大君ってもしかしてここで食事も勉強もするの?」
「そっちの寝室に一応勉強用のテーブルはある。小学生から使ってた勉強机は処分しちまったけどな」
「見たい……駄目?」
あまりにも純粋過ぎる「本当に寝室のテーブルが見たいだけ」の声に思わず段ボールを解体する手をとめ、振り返った。
「ここ以上に散らかっているから今度な」
「はーい」
「段ボールだらけで足の踏み場がそもそも二人分はない」
実はそんなに段ボールはないが、寝室に置いたのは下着等でさすがに見せられるものじゃないんだよ。何となく言うのが気恥ずかしく、その後の言葉は俺の心の中だけで消えた。ただ、基本的には全部消し去りたくて殆どの家具を処分してしまっていた。父と母のものは勿論、俺の部屋にあった買い与えられたものもだ。幸いなことに金だけは大量に残していってくれたが、成人するまで何があるかわからない。安価な家具を最低限購入し、小さな1DKのマンションのこの一室を借りた。本当は節約のためにワンルームにする予定だったが今後未成年後見人や木寄と定期的に面会をする必要がある。だから誰にも踏み入れられない場所がほしくて、少しだけ贅沢をした。
「段ボールの解体、私もやろうか。カッターか鋏の予備ある? 軍手なら持って来てるよ」
「いい。代わりに冷蔵庫の隣の棚に食器入れてくれ。床に直で積んであるそれだ。そんなに量もないし順番とか気にしないから適当でいい」
「これ、前に買いに行ったやつだよね。洗った?」
「いや」
「じゃあ、洗っておくよ。しまうのはそれからで。荷解きって大変だねぇ」
「だから感謝してるさ」
「シンク借りるね」と朗らかな声がして千花が床に積まれた食器を台所の作業スペースに移動させ始める。その背中を見守って、俺も再び段ボールを固定していたガムテープにカッターを滑らせていった。
あえて母の死には触れないように、千花は自然に振舞ってくれている。その優しさだけで胸の奥が温かくなり、同時にとてつもない恐怖に襲われていた。
俺はもう、自分の苦しみを誰かに気づいてもらおうと思っていなかった。
見たくないものを見ないで他人の苦しみに気づかない連中は侮蔑の対象で、千花以外の世の中の人間全員だった。俺が虐待を受けていたのに気づかないで、幸福を享受している奴も俺とは別の苦しみを抱いてる奴もどちらも平等に憎しみの対象だった。
どんな人間だろうと、俺の苦しみに気づかないんじゃ一緒だ。それに気づいたって叔父や木寄のように被害者を苦しめるんだ。だったらそれでいい。
俺“も”誰も救わないだけだ。理不尽に虐げられている者を見たって相互不干渉を貫くだけでいい。見捨てる権利がこんなに苦しんだ俺にはある。
俺は理不尽に気づいても、誰も助けない。理不尽の正体が人間だろうと怪異だろうと同じだ。
──だから俺の救いは“過去の”千花だけで、いい。
水音がする。千花が鼻歌を歌いながら食器を一つずつ洗い流しては籠に移していた。たしか共に手を取り合おうみたいな内容の歌詞で、音楽番組で歌手が熱唱していたのを一度だけ見た気がする。くだらない。俺の手を誰も取らなかったのに。
「それ、何の歌だっけ」
「アニソン」
深夜アニメのオープニングテーマだと千花が手をとめずに続けた。
「下手だった?」
「一度しか聞いたことがないからそもそも下手かどうかが」
「良かった。途中何カ所も音外したのバレてない」
上げたレバーを元に戻す音がして、水音がとまる。布巾の在処を尋ねられたので、寝室のハンカチと共に梱包したと伝えた。
「取ってくるから休憩しててくれ」
返事を聞く前に立ち上がり、奥の扉をゆっくりと開けた。閉めて扉にもたれかかるように、その場に座り込む。カーテンの隙間から漏れる日光は馬鹿みたいに輝いていた。
過去の俺の苦しみに気づいてくれた千花ごと、俺は今の近場千花を愛して憎んでいる。恋愛感情かと言われたら返答に困るが俺の感情を表す単語をそれ以外に知らなかった。記憶を失ったが間違いなく地続きの心で彼女は構成され、再び気づいてくれなかったのには腹が立ったが、唯一を手放す気は一切なかった。
だから二度と記憶を取り戻さないでほしい。これは俺が選んだ結末だ。あの日の怪異との凄惨な記憶を思い出して俺の苦しみに気づいて俺を救うか、思い出さないで一生俺の特別な存在になってもらうか。勝手にあいつの未来を想定して、そうなるように後者を選んだ。
だって、思い出してもらったら困るのだ。あいつが過去を思い出すのは、俺が虐待を受けていたのに気づくだけじゃない。怪異の存在も、それに対抗する退怪者も知ってしまう。父がおそらく死ぬまで入院生活を続けている理由も、母の死の真相にも気づいてしまう可能性が高いのだ。千花は、理不尽に激しい憎悪に近い怒りを燃やせる存在だ。俺の受けていた仕打ちに気づいたら必ず両親に憎しみを共に抱いてくれる。
一方で彼女はひたすらにまともだった。俺が小学校で疎まれている存在だと即座に気づいて怒りをあらわにしながらどうしてほしいか声をかけてくれた時も、俺がただ一緒に遊んでほしいと伝えればその理不尽を無理に解消しようとはしなかった。俺の気持ちを尊重して、そして怒りをエスカレートさせることなく、静かな解決を選んでくれた。つまり、肉の化け物にあんなにも激しい怒りをぶつけたのは、あれが理不尽の象徴のような“人ならざる化け物”だったからだ。
「時間かかりそう?」
ノックの振動が背中に伝わって、千花が扉越しに声をかけてくる。「もう少しかかるから休憩しててほしい」と平静を装えば「買ってきたお菓子テーブルの上に置いておくね」と返って来てまた足音が離れていった。
虐待という理不尽を俺に押しつけてきたのは両親だった。
一方で殺人という理不尽を両親に押しつけたのは俺だった。
両親が……あのクソ親共が任務に出かけると言った日、怪異を写した写真から既に“気”の大きさが俺だけにはわかっていた。圧倒的にあの怪異は凶悪で、あいつらクラスの退怪者が束になっても犠牲者が増えるだけなのは明らかだった。その犠牲者にクソ親共がなろうとしているかの瀬戸際に俺は立たされて、二人の死を俺は願い見て見ぬ振りをした。
俺はクソ親共を見殺しにした。
結果、本当に母は亡くなって、父は今も病室で怪異にやられた後遺症で苦しんでいる。
世の正義感溢れる連中からすれば俺は外道で、「そんなのだから躾が過激にならざるを得なかった」なんて嘲笑われるのだろうが、俺は正当な復讐だと後悔はしていない。見殺しにしてからしばらくは何度も何度も嘔吐して、眠れない夜を過ごした。今でも発作のように思い出し身体が痙攣したり、高熱が出て頭を掻きむしりたくなるがそれでもだ。過去に戻れたとしても同じ選択を必ずする確信がある。
だが、理不尽を許さない千花はどう思うんだろう。
また扉越しに同じ鼻歌が聞こえてくる。穏やかで優しい曲で、たまに高音が出ないようで、音が途切れているのがこんな時じゃなきゃ笑いを誘っていた。
激しく叱責してくれるのはいい。俺が抱いているように憎悪してくれてもいい。ただ、理不尽の権化となった俺を叔父や木寄のような目で見つめ、かつて肉の化け物にしたように一番の罰を見抜いて俺の前から去って行くのだけは絶対に嫌だった。
千花という救いの残照だけが、俺の救いだった。俺の“殺人”が裁かれても、こいつだけは譲れない。
だから近場千花は怪異に気づいてはならない。記憶を取り戻す可能性は念入りに潰して、俺の犯行に気づかせてはならない。俺がただの理不尽の化け物だと知られるわけにはいかなかった。
あの日クソ親を見殺しにして復讐を果たし、現在の救いを捨てて、俺は過去を一生手元に置いておくことを選んだ。
「叶大くーん! 食器、自然乾燥に任せようよ。せっかく珈琲買ってきたんだしさぁ」
頬を伝っていた涙を手で拭ってゆっくりと立ち上がる。立ち眩みがして視界が黒く染まった。扉に手をついて明るくなった視界で振り返れば、四肢が妙な方向に曲がった母と俺の首を絞めた鬼のような形相の父がカーテンの前に立っていた。怪異ではない、ただの俺の心が生み出した幻覚だった。ざまあみろ、虐待なんかするからだ。急激な頭痛に襲われながら、心は清々しく口角が自然に上がっていた。満面の笑みを浮かべた時には既に消え、相変わらず馬鹿みたいに輝いている日光が差し込んでいた。
扉を開ければ千花が机に紙コップと一口サイズのシュークリームの詰め合わせを並べていた。隣には無糖と大きく印字された珈琲が入ったペットボトル。床に近所のスーパーマーケットの名前が書かれたレジ袋が転がっていて、そういえば差し入れだと買ってきてくれたのを思い出した。
「食べよ食べよ。無糖がいいって言うからちゃんと選んできたんだよ」
「甘い物に甘い飲み物なの、俺は過剰糖分だと思う質なんだよ」
「えー。私、チョコレートケーキに砂糖が大量に入ったロイヤルミルクティーで食べるよ?」
「……この先ずっと、絶対お前を生活習慣病にさせないように見張っておく」
「この先ずっと?」と千花が不思議そうにシュークリームの袋を開けてプラスチックの容器を取り出す。椅子を引き、腰を落とした。いただきますと向き合って律儀に互いに手を合わせて一口サイズのシュークリームに手を伸ばした。
「腐れ縁って言うだろう?」
もし地獄があるなら一緒に堕ちてもらう。俺の苦しみに気づかないお前が悪い。気づいてしまったら困るのにも関わらず俺は身勝手に“心優しい”友人の未来を呪った。
「この先はずっと楽しみだ」
中学一年の夏休みはこうして過ぎていった。




