3-18 愛憎の分岐点
──祈りながら目を閉じていれば意識がぼやけてきたようだ。夢と現実が混ざり曖昧になり、俺はまた、過去の“罪”を追体験していた。
千花が僕……俺が虐待を受けていることだけには気づかない他の連中と同じだと、恨みを抱え始めたのは六年生の春頃だった。ゴールデンウイークも終わり、俺も千花も中学受験生として勉強をしながらそれでも友人と遊びながら毎日を過ごしていた。千花には沢山の友人がいて、俺にとっては遊ぶ相手は千花だけだったが。
共に遊んでわかったことが沢山ある。千花はお人好しで誰ともでも話すが、クラスの中心にいるタイプではない。でも、ずっと周囲を無意識かもしれないけど見渡している。見たいものも見たくないものもどちらも真っ直ぐに視界に入れていた。だから気がつけば暗い顔をした誰の手を引いて微笑んでいて、遊びながら心を癒していった。そうして明るさを取り戻したその子は千花に感謝して去って行く。そんな友人の背を不満もなく笑顔で見送っているのが、近場千花という人間だった。
なのに、俺が今も父さんと母さんから虐待を受けているのには、全く気づかない。気づいてほしくて、助けてほしいのに、千花はそこだけは蓋をしているように鈍感だった。
お前も一緒なのか。クラスメイトや先生と。
俺がそう恨み始めるのは仕方のないことで、それでも俺には千花しかいなかった。気づいてほしい、助けてほしい、報われたい。ずっと祈りながら彼女を見つめ続けていた。
生贄に捧げられ動揺する俺を見た時は察してくれていたのに、千花は“門”が開いた後遺症で忘れてしまった。何故あの時できたことがもう一度できないのか。できないなら……と“無理難題”を思いついては脳内から消えるように首を激しく振る日々が続いていた。
愛憎渦巻くなんて言葉を受験用の国語の教科書で読んで、まるで俺だと一人頷く。千花と一緒の学校に行きたいから始めた勉強は自分でも驚くほどに順調だった。問題は千花が女子中学校に行きたいと言い出さないかどうかだけだったが、本人も千花の両親も共学を希望していたから一安心だ。
そうして俺達は同じ中学校に合格し、中高一貫校なので六年間一緒の学校に通う権利を得た。ブレザーに手を通し、二人で学校へ向かう。そんな生活が幕を開けた。
ある日のことだった。学校から帰り、制服を脱いだ俺は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、台所でプラスチック製のコップへ注いでいた。
パタパタと足音と父さんと母さんの声が廊下からする。バタン、バタンと扉を激しく開け閉めしている音もした。
珍しいな。俺は顔を顰めながら麦茶を喉へと流し込む。冷たい香ばしい味が口内に広がって喉を鳴らしていく。鍵穴に鍵を差し込む金属音がして、二つの足音が下へと響く。道場に行ったのだと思いながらまたペットボトルの蓋を開けた。
ドンドンドンと音が上がってきて、こちらに近づいてくる。扉がけたたましく開いて、膨らんだ影が二つ室内へと入ってきた。
「どうした?」
カップを持ったまま、俺はダイニングへと足を進める。そのまま自室へと戻りたかったが、何となくだが呼ばれる気がした。
「叶大。俺と母さんは明日から数日家を空ける」
父さんが真剣な顔でテーブルの上に写真を並べていた。床には退怪者が怪異との戦い、よくある言葉でいえばお祓いする時に使用する様々な道具が無造作に転がっている。
「大型の怪異でも発見された?」
「そこまでではないわ。ただ、すばしっこい奴らしくずっと逃げ回っては凡民に幻覚を見せては事故死に偽装して殺しているらしいの。よくある手口よ」
「人間は見たいものしか見ず、見たくないものは見ない生き物だ。だから怪異はその心理を増幅させる呪いをまずかけることが多い。目の前で “超常現象が起きていても、正常だと誤認させる”のが常套手段だ」
「怪異は人間のマイナスの感情で歓喜する存在。だから本人、もしくは憑りついた人間を恨んでいる者の心の底の罪悪感や憎悪、悲しみを読み取り、“憑りついた人間が目を背けている感情や現実に関連する形を取ることが多いの”。では、続きは?」
母さんが黒のボストンバッグに床に転がった道具を入れる手を止めて俺を指差した。
「さっき父さんが言ったとおりです。目を背けている感情や現実に関連する形を取るから、憑りつかれた人間は目の前の事象を正常だと無意識に信じ込もうとして、異常……怪異を“見たいものとして無意識に誤認する”。気がついた時にはもう手遅れになっています。だから退怪者は強き心を持ってありのままを受け止める必要があり、修行は心技体と多岐に渡ります。稀に、凡民の中でも心の強き者、現実を受け止める器を持つ者は怪異が見せる幻覚をもそのまま受け止め異常だと気づける……ですよね?」
「満点だ。俺達や木寄の長き修行の成果だな」
──ああそうだ。最近もそんな人間達を見てきた。電車の中で出会った見知らぬ子を助けようとした男に、先輩は現実を目を背けずに受け入れられる人だった。だからこそ恐怖を味合うことになったのだが生き残れたのだろう。一方で服屋の男や先輩に絡んでいた四人組は駄目だった。自分の感情からも罪からも逃げて、見たくないものを見なかったからどうにもならなかったのだろう。
父さんが満足気に頷いて、母さんを呼ぶ。そして肩を並べ写真の前に立った。木寄の本でしか見たことのない単語が飛び交っている世界を目の前に俺は麦茶を飲み干す。父さんと母さんの背後をゆっくりと歩く。台所でコップを洗うため戻ろうとして、ふと視線を落とせば二人の背中の間から写真が目に留まった。
空のコップが指をすり抜け、落ちそうになった。
慌てて腹と手のひらで押さえれば怪訝な顔をした二人に振り向かれる。
「どうした叶大」
「いや……大変だな、と思っただけ」
最後の方はもはや独り言のような声量で早口言葉のような速度だった。そそくさと台所にコップを置き、胸に手を当てる。心臓が聞いたことのない速度で脈打ち、飲んだばかりだというのに口がカラカラに乾いていた。眩暈がして、胸にやっていた手をシンクに置き身体を支える。排水口を見つめていた視線を上げ、ふらつきながらもう一度ダイニングへと重い足を引きずって行く。眉間に力を込めてじっと両親の背を、その向こうの写真を見つめた。
今までの記憶、感情、計画の全てがパズルのように組み合わさって俺の中で一つとなった。幼い頃の父さんと母さんに手を引かれて歩いた商店街、笑顔で皿に自分の唐揚げを分けてくれた顔、退怪者だと告げられた日、嫌でも見せられた人間の身体がひしゃげちぎれ飛びその中央で異様な形をした怪異の映像、修行だと殴られ痛む心と身体、食事を抜かれ鳴る腹を埋めるために夜中に抜け出し蛇口を捻り水を飲み続けた夜、己の存在が生贄だと知ったあの日……全てが濁流のように押し寄せ、けれど笑いそうになるくらい落ち着いて一つ一つを瞬時に精査し、今まで持て余してきた問いに対する解答を得てしまった。
何をすれば、復讐となるのか気づいてしまった。
この瞬間が俺にとっての人生の分岐点だと、身体の芯から震えが走った。
「叶大?」
母さんが俺を睨みつける。先ほど背後で棒立ちしていた息子がまた同じ体勢を取っているのだから当然の反応だろう。
「おい、さっきからどうした。言いたいことがあるならはっきり今、言え」
父さんが腰を伸ばし苛立たしげに吐き捨てる。テーブルには沢山の特殊なカメラで撮影した怪異が映りこんだ写真。その前に顔を歪めた俺の両親。
何を言えばいいのか。俺は──
浮かんだのは森の奥の建物で、「一緒に明日から遊ぼうよ」と僕に告げた千花の姿だった。俺の現状に気づいていたあの瞬間だった。
気づかないなら、思い出してくれと無理難題だとわかっているのにずっと祈っていた。けど逆だ。
千花。あの日を絶対に思い出さないでくれ。俺に気づかなくていいから。代わりにずっと一緒にいてくれ。“思い出のお前”を一緒にずっと俺は愛するから。気づかないお前の罰だと思ってくれ。
彼女からの救いを、俺はこの瞬間、捨てた。
「……何でもない。任務の邪魔だよな。部屋戻ってる」
ドンと内側から殴られたように心臓が一回跳ねた。もう一度じっと二人の顔を見る。爪先から頭の天辺までなめるように、刻むように何度も。本来ならいないはずの、あの時贄として怪異の腹に収まっていたはずの我が子に向ける冷たい瞳をしていた。
「明日は母さんと一緒に六時には家を出る。だからお前は戸締りだけはして学校へ行きなさい」
「朝食は自分で用意できるわね。これから電話で会議だから」
自室へ戻ろうとした俺の背に無感情な声が投げかけられた。やはり正解だと小さく頷いて、俺は廊下へと飛び出す。フローリングが熱を持った足の裏を冷やしていく。一度立ち止まり、その場で足踏みすれば温度差から足跡がついていた。
これでいい。後悔はない。
自室のドアノブを握ろうとした手がぬめりと滑る。レバーが大きな音を立てて跳ね、慌ててもう一度掴んだ。そのままねじ切る勢いで下ろし、部屋へと飛び込む。早足で床に敷いたままの布団に倒れた。布団を貫通して固い床が俺の全身を打つ。そんな痛みよりも心臓が絞めつけられるように痛い。寝返りを打って仰向けになり見慣れた天井を仰ぐ。四肢の先が全て震えていた。
その震えた手で思わず口元を押さえる。誰かに見られるはずもないのに、無意識だった。腹からこみ上げてくる声を何とか飲み込んで俺はしばらくそうしていた。その夜は一睡もできず、朝方に玄関が開く音を聞くまいと耳を必死で塞いでいた。
数日後の夕方だった。土砂降りの雨が降っていて、雨粒が窓を叩く。濡れた制服を洗面所に干し、除湿器のボタンを押して扉をきっちり閉めた。そのままダイニングへと向かう。タオルで髪を拭き、犬のように首を振って水滴を落とす。土日にやれと云わんばかりの大量の宿題も、放課後に学校で千花とそれから卒業したら二度と会わないだろう友人達と半分以上はやってきてしまっていた。夕飯は帰りに割引シールが貼られたハンバーグ弁当をスーパーで購入しているから作る必要はない。では次は何を、と赤と黄色のシールに無造作に視線を落としながら考えていれば布を無理に引き裂いたようなブレーキ音が玄関の方からした。
怒号にも悲鳴にも近い声が雨音で途切れ途切れに響く。そうしてチャイムが静かな家を襲う。ドンドンと玄関の扉が拳で殴られる。同じ間隔で呼吸をして、湿気ではない理由でシャツを肌に張りつけていた。
唇が閉じないまま、俺は廊下へ出た。インターホンを見る必要はない。聞き慣れた声が玄関で叫んでいる。「叶大、叶大ァ!」と男の声が二つ重なっていた。
胃から苦い物がこみ上げて、心の底から湧き上がる衝動と共に無理やり飲み込んだ。ひくつく口角を左手で押さえる。背中が冷えていく。廊下が酷く短く感じた。薄暗い洞穴のようなそれを一歩一歩進んで、遂に辿り着いた玄関の鍵を開けた。
精気の抜けた顔をしたまま目玉だけを動かす生き物と化した父と、泣き腫らした瞼をした木寄がスーツの色を濃くして呆然と立っていた。
母が任務中に“怪異に殺された”と告げられた。




