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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
3.前編 遠出叶大は夢から覚めたくない
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3-17 微睡みの中で、過去を想う

 僕の“目”、正確には僕の怪異や人間の“気”の大きさを感知する能力だけは第一線で活躍する退怪者よりも遥かに優れていると気づいたのは、“記憶喪失”騒動からすぐだった。

 だって病院入ろうとしていた怪異に退怪者が三人もいたのに誰も気づかないし、何より一番近くにいた千花の“気”の量に気づかないのだから。それ以外も色々あったけど、別にいい。そんなことよりも。

 ランドセルが背中で揺れる。僕と千花が倒れていた校門を潜り、買い換えて少しだけ汚れてきたスニーカーでコンクリートの道を踏む。梅雨が明けたせいか空が濃い青で染まり、大きくて白い雲が太陽を避けるように浮かんでいた。日差しが僕の皮膚を焼く。腕を顔に近づければ日焼け止めの独特の匂いがした。

 あれから修行のメニューが変化し、僕の放課後には前より少しだけ余裕ができた。ランドセルを背負って下駄箱へ向かう。すると背後から随分と大きな声が聞こえた。

「叶大君! おはよう」

 肩を叩かれ振り向けば千花が満面の笑みを浮かべていた。僕は「おはよう」と返し、下駄箱に並べられた上履きを床に置く。

「千花ちゃんおはよう」

「おはようー」

「……遠出君もおはよう」

「……おはよ」

 クラスメイトと僕が小さな声で挨拶し合っているのを千花はじっと見つめ、そして僕に「行こう」とランドセルを叩いた。

 僕と千花が一緒にいることが増えたのに学年の皆は目を丸くしていた。だって誰かが行方不明になって、校門前で発見されたのは噂にはなっているけど、それが僕達なのは内緒にすることになったから。色々な“配慮”から学校便りにも載らず、警察も“事件性無し”と判断した。千花のお父さんとお母さんは納得がいってないようだったけど、何回もの検査とケアの結果千花も僕も心身ともに健康であること、これ以上の真実の追求がむしろ逆に二人の心身を害する可能性があることを医者から諭され、渋々了承した……と千花から聞いた。そこで他人の子の心配もするのが千花の親らしいと感心してしまったんだけど、自分に置き換えて僕は考えるのをやめた。

「じゃあ、放課後。今日はうちに来るんだよね?」

 千花が楽しげにピョンピョンと廊下で跳ねる。ガチャガチャとランドセルの金具がなって給食袋が激しく揺れていた。

「うん。ありがとう」

「お母さん、オレンジジュース買って待ってるって」

「水でいいよ。むしろ何も無くてもいい。おばさんに申し訳ない」

 余裕のある放課後の大半を千花との遊びに費やしていた。だってそれが一番楽しかった。父さんと母さんへの復讐の手段をずっと考えているけれど、僕はまだガキでできることが少ない。こっそり“決定打になる証拠”だけ発見はできたけど、どう使えばいいのかがわからなかった。

 何をすれば一番の復讐になるか。どうすればこの苦しみの日々を終わらせられるか。あの時の千花は即座に判断し、怪異を完全に滅ぼしたけれど僕には中々難しい。虐待は続いて僕の心身を削っていっている。憎悪だけが膨らみ、僕は毎日抑え込みながら生きていた。

 何をしたら僕は救われるのだろう。誰かに助けてもらえるのだろう。そのための方法がわからなかった。

「でも『叶大君が好きでしょ』って買ってくれるようになったから私も飲めて嬉しいし」

「ちゃっかりしてるよね」

 へへっと千花が歯を見せる。彼女とくだらない話をしている時だけは穏やかでいられた。だから。だからこそ。

「あ、教室。じゃあ放課後。一回家に帰ってから来るでしょう?」

「うん。だから待たないで先に帰ってて」

「叶大君もね」

 ばいばーいと千花が大袈裟に手を僕に振る。僕は振り返して一番端の教室まで足を進めた。ギャアギャアと相変わらず甲高い声が教室から漏れている。ファントムボンバーズの必殺技を誰かが叫んで、椅子や机の脚が床と擦れる嫌な音がした。相変わらずだなぁと溜め息をつけば、バタバタとランドセルを上下させながら男子二人が僕を追い越して廊下を駆けて行く。教室の扉が近づいてくる。静かに引き戸を開けた。

 騒がしい教室の中、僕は自分の席へ行きランドセルを机に置いた。教科書とノート、それから筆箱を取り出す。顔を上げれば二つ前の席の男子が僕をじっと見ていた。

「……おはよう」

「お、おはよう」

 どもりながらそいつは僕に挨拶を返し、それ以上会話は生まれなかった。机の棚に教科書を滑り込ませれば金属音が響く。立ち上がりランドセルを後ろの棚に持って行けば安心したような息を吐く音が背後からした。

 僕はこのクラスが嫌いだ。僕自身が凡民だの心の中で見下していた悪い面もある。けれどそれがこいつらの行ないの正当な理由には決してならない。そもそも僕の“修行”が始まったせいで、放課後の遊びを断り続けたのが無視の始まりなのだ。何よりも僕の苦しみを何も知らないで、集団で結託したのは許せない。きっとそれは向こうも同じで僕のことがずっと嫌いなのだろう。

 でも互いに態度がほんの少しだけ軟化した。何も解決していないけど、恨みが募るだけだけど、互いの変化に戸惑いを隠さずにちょっぴり過ごしやすくなったのは事実だった。

 千花のお陰だった。彼女と共に過ごす僕を見て、こいつらは態度を改めたのは明らかだった。彼女はすぐ僕が置かれている状況に気づき、休み時間も教室まで来て「授業中に窓から見上げた雲の形が兎だった」とか訳のわからないことだけ伝えて帰っていく。

 それが一番大切で、だからこれ以上の改善は必要ないのだ。

 教室に先生が入って教壇の前に立つ。冷房の空気が先生の前髪を揺らしていた。昔は教室に冷房がなかったというのが僕には信じられなかった。こんなに暑いのに冷房がなかったら熱中症になってしまうんじゃないだろうか。

「さて。あと……日で……夏休みですが」

 そう、もうすぐ夏休みだ。今年はきっと千花と沢山遊べる。心を躍らせながら僕はニコニコと先生の話に意識を集中させた。


◇◇◇


 やっぱり夢を見ているな、と俺は自分の目線で進む過去の映像をただただ眺めていた。とりあえず視線がかなり下のだけはやめてほしい。これだけ成長しました、と喜ぶ暇もなく少し乗り物酔いのような感覚に襲われていた。夢なんだから俺だけ今と同じ身長だとかそれくらいどうにかしてほしい。

 この後俺は千花の家に遊びに行って、千花が中学受験をするのを知らされる。知らされるって言っても、ただサラッと会話の流れでおばさんから「この子これから受験生になるのよ」と聞かされただけだ。「今年の夏休みから勉強で受かるわけないのに、お母さんもお父さんも物は試しって言うんだよ? 塾代だってかかるのに、それでいいのって感じ」と頬を膨らませていたのを覚えている。「ルミちゃんの家は四年生から……ヨシ君の家は三年生の秋から塾に通ってるのに……」と大袈裟に呆れていたのも。

 「中学受験は親の受験だから付き合ってあげてるの」とオレンジジュースをストローで豪快に吸う千花の前で俺は目の前が真っ暗になっていた。てっきり一緒の公立中学校に通えると信じ切っていた。こいつがいなけりゃ、あんなクラスメイトに囲まれる必要もゼロだ。繋がりができてからすぐに俺は千花に実は小学校での周囲からの扱いについて怒りをあらわにして真剣に「何かできることがあれば」と提案を受けていた。けど断ったのは“無視されている状況が完全に解決しちまったら、千花は休み時間に俺の元に来なくなる”からだ。あいつと一緒にいるためには何だってできたし耐えられた。なのに、だ。

 土下座までしてクソ親共に中学受験をしたいとねだったのは帰ってからで、「有象無象の凡民よりも選ばれし者の中で世の中について学んだ方が退怪者としての勉強にもなる」と適当な嘘をついたのだけは覚えている。とにかくそれで中学受験への切符を勝ち取り、塾代を浮かせるために教科書購入代だけ出してもらい独学で勉強を始めた。

 

 やっぱり、千花は何とかしなければ自分の側からいなくなってしまう。


 当時の“僕”が思っていた不安は正に的中し、それは今の俺も抱えていた。

 夢だとわかっているのに、息苦しい。体温が上がり発散できない熱が皮膚の表面だけを冷たくする。夢なのに、こんなところだけリアルなのかよ。絶対に現実で使わない形をした水槽に水が何分で溜まるかの算数の計算をしながら苛立たしく髪をガシガシと掻いた。

 あいつは怪異以外の色んなものが見えている。そして不条理に怒り憎悪を燃やし、不条理に嘆く人に手を差し伸べてしまえる。つまり、不条理のあるその場所へ向かってしまうのだ。

 怪異とは不条理だ。だから万が一、近場千花が記憶を取り戻してしまえば彼女は退怪者として大勢の人間を救いながら日々怪異に憎悪の感情を向け続ける道を選ぶだろう。それだけは避けたかった。いつ死んでしまうかもわからない職業だ。視界が滲んで、水槽の図に水滴が落ちる。ああ、一人で夜に泣いてたなと他人事のように俯瞰していた。

 いや、違う。本当は。夢の中の“僕”が首を振る。俺は黙って薄暗い感情を思い出していた。

 あいつが怪異との戦いで死ぬことは恐れていない。それくらい千花の“体質”は無敵だ。

 恐れているのはあいつの中で俺が特別じゃなくなることだった。怪異から命を救った大勢の一人にされることだった。それに怪異にあの苛烈な感情を独り占めされるのがどうしても嫌だった。それは僕の……俺の物だ、向けるなら俺にしてくれ。だから憎悪なんか他者に抱いたこともない“一般人には無力なただの人間”だと、信じ込ませようと一緒に生きてきた。だって。


 ──俺が虐待を受けているのには気づかないくせに!


 跳ね起きる、なんてのが現実にあるんだとたった今知った。目の前にはカーテンから差し込む日差しで灰色に染まるぐしゃぐしゃのタオルケットとシーツ。強張っていた筋肉を無理やり動かしたせいか背中につったような感覚が走り、呻き声が漏れる。できるだけ動かさないようにまた横になれば、首筋に水が垂れてむず痒い。汗をかいていた。

 ハア、ハアと全速力で走った後のような俺の呼吸が、心臓の音が耳奥で鳴っていた。瞼を閉じて寝ようにも覚醒してしまっている。壁を見つめながら、息と呻き声を口から垂れ流す。

 だから良くない夢を見ると思ったんだ。こんな勘だけ当たるんだから嫌になっちまう。

 深く息を吸い、ゆっくり吐く。それを何回か繰り返し、まだ背中の痛みに耐えていた。そっと手を伸ばし枕元に転がったスマートフォンを手にする。時刻は午前四時半。時間よりも充電が残り十二パーセントの方が気になるが充電器を刺せるほどの余裕がない。

 窓の外で自動車のエンジン音がした。早朝とはいえ、例えば新聞配達とか仕事をしている奴もいる時間に俺はスマートフォンを握りしめ、丸まって薄暗さを求めている。

「いかないでくれ……」

 情けない本音が唇を震わせた。どうか俺の側にいてくれ。そのために自分の察知能力をフルに活用して、できるだけ怪異の側にあいつが近づかないようにしているのに。万が一にも記憶を取り戻す可能性を潰しているのに。それでもあいつは、知らない間に人に手を差し伸べ同時に怪異を爆発させているのだ。

「頼む、どうか……」

 違うんだ。俺が千花を恨んでいたのは事実だった。俺が特別じゃなくなるのも嫌だった。でも本当は。

 

 近場千花に怪異に気づいてほしくない本当の理由は──

 

 夢のような幸福を、いつ壊れてもおかしくない現実を俺は生きていた。


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