3-13 呑気な地獄絵図
電車が上を走っているトンネルの下くらいの大きさの様々な絶叫と咆哮が延々と僕の鼓膜を揺さぶっている。老若男女の声、金属音、テノール歌手の歌声、鳥や猿や犬や猫の鳴き声、電子音……全部が全部言葉にならない絶望の断末魔を叫んでいた。青い体液が舞い、絶叫の合間に肉が潰れる音が挟まる。ぐちゃべちゃぶちびりごり。そんな音も混ざって脳が直接シェイクされる感覚に陥った。そこに時折近場さんの「こんなにあるのに全部同じ味だなぁ」や「あんまり美味しくはないなぁ」なんて不味いバイキングを食べているような呑気な感想が挟まる。それが一際異様で、怪異達を怯えさせていた。
近場さんは一体ずつ丁寧に齧りついて怪異を食べている。じたばたと暴れる奴には容赦なく光の腕を振り下ろし、身体の一部を光の粒子にして吸収して抵抗力を奪っていた。一発、二発と殴り、弱々しくなったそれの顎と思われる潰れた部分にキスするみたいに顔を近づけて一気に歯を剥き出しにして食いちぎる。もはや青の液体は頭からつま先まで土砂降りの雨に降られたように彼女の身体に光と共にまとわりついていた。髪から、青の液体が滴って、手の甲を汚す。ぺろりと赤い舌で舐めて、満足気に頷いていた。
光が更に肥大する。顔のない頭部が完成し、左腕、両足が生え影法師みたいに近場さんの後ろにくっついている。近場さんが右足を出せば光の巨人も右足を出し歩く。腕だけは連動していないみたいで、肉を両手に抱えて飲み込んでいる近場さんの後ろで遠くの怪異の分身を掴んで近場さんの前に差し出していた。
長い時間だったと思う。そうやって近場さんは分身を一つ残らず“胃に収めた”。床に広がっていた青の液体も全部光の粒子となって、光の巨人の一部になった。冷たい大理石の床は真っ白で、扉は固く閉ざされている。ステンドグラス以外は白で構成された箱のような部屋。光に照らされて全貌がわかれば広いだけの空間に、僕と近場さん、それから光の巨人に身体の至る所を爆発させられ光の粒子と変えられた穴ぼこだらけの怪異の本体が倒れていた。
漫画に出てくる穴あきのチーズみたいになった怪異はそれでもまだ銭湯の湯船くらいの大きさはあった。もう震える体力すらないのだろう。ただ穴からヒュウヒュウと生臭い息を吐いて、ぶおおおと小さく鳴いていた。
「許してください? それ言った三歳の女の子を許さなかったのはアンタでしょう。アンタの閉じ込められているって嘘を信じて必死で助けようとしていたのに」
近場さんが苦々しげに吐き捨てて、首を思い切り振って肉を引きちぎる。嚙み続けて唾液でふやけたガムみたいな音がした。「やっぱり不味い。二度と食べたくない」なんて溜め息をついている。
「五歳の子が犬と森に迷い込んだ時に『犬だけは助けてあげてください』って泣きながらお願いされた時、アンタどうしたのよ? 私の身体に噛みつきながら自慢げに『犬を目の前で足から引き裂いたのを見せつけて絶望させてから三年間いたぶって殺した』……とか言ってたよね? なのに、許して? 許せると思うの?」
光の巨人が怪異の本体の中央に拳を何度も振り下ろす。下ろした先から身体が破裂し光の粒子となる。ぶおお、ぶおおと鳴いている声は絶望を訴えていた。
「アンタ自分で言ったじゃない。『俺は何よりも人間の苦痛や絶望を見るのが好きで最高の娯楽だ』って。特に『親しい人間に騙されたことを知って絶望する顔や、だから誰も助けに来てくれないと何年も耳元で囁きながら食べるのが最高』『一番良い反応をするのは善良で人を疑うことを知らない子どもだから贄に選んでる』……ファントムボンバーズの四天王でもそんなこと言わないのに、本当にそんなこと思ってる奴が現実にいるんだね。勉強になったよ。だから」
光の巨人じゃない。近場さんの右腕が勢い良く肉塊にめり込む。そしてブチブチと音がして、怪異はその身体を強張らせた。引き抜いた手は真っ青で、丸くて小さな爪を食い込ませて肉を引きちぎっていた。手のひらサイズの肉をそのまま一口に放り込み、見せつけるように咀嚼する。そのためにあえてくちゃくちゃと音をさせているんだと気づいて背筋が凍りついた。
「ただ理不尽に人を傷つけるアンタを、誰かの優しさを利用するアンタを絶対に許さない。遠出君も今までここで亡くなった子達も『善良で人を疑うことを知らない子ども』はアンタみたいな奴に理不尽にいじめられるために生きてるんじゃない。──だからできるだけ苦しんで痛がって、ここで誰にも助けられず何も残らず私に食われろ」
言うや否や彼女は顔面を肉に叩きつけ、また歯で身体を食い千切る。何度も何度も繰り返し、その度に本体が途切れ途切れの絶叫を上げた。もう近場さんは怪異の問いに答えない。ただ獣のように四つん這いで肉を食らい次々と怪異が光の粒子となり吸収される。同時に益々背後の光の巨人が大きく強く光を放っていた。
お腹の奥が痛むような激しい憎悪を滾らせた低い声だった。ヘラヘラと笑い心配げに僕を見つめていた近場さんではないようで、思わず唾を飲み込む。一歩後ろでただ僕はその姿を眺めるしかなかった。
ふう、と四つん這いの近場さんが立ち上がる。
大人一人分くらいのサイズになった何回も殴られて穴だらけの怪異はもう息をしていなかった。
断末魔すら上げられず、無視され、ただ暴力のままに一方的に消された。それがこの怪異の最期だった。光の巨人が怪異の身体を掴む。残った肉塊が爆発し、花火のように光が僕達に降り注いだ。
「遠出君、怪我はない? 痛かったよね? ごめんね時間がかかって」
出会ってからずっと森の中で隣にいてくれた近場さんが目の前に立ち、青い液体が粒子となったため綺麗な右手で僕の手を取った。身体が強張って、息をヒュッと呑んでしまう。近場さんは手のひら、腕、肩と触れ「痛くない? 動かしにくいとかない?」と真剣な眼差しを僕の瞳に合わせてきて、僕は逃れるように頭上に視線を逸らした。きらきらと全身を輝かせていた。背後に大きな光の巨人を従えていて、見上げる形となった。
「足もチェックした方がいいよね。歩ける? 触っていいなら膝から」
「何で、食べたの?」
震える舌は呂律があまり回らない。けど、命の危険がなくなった途端湧きあがったのは、“自分の感情から目を逸らすための”根本的な疑問だった。
何故、怪異の術にはまらなかったのか。どうしてそんなに冷静でいられたのか。その光の巨人は何なのか。怖くなかったのか。そして。
何故、あんな気持ち悪い化け物を全部食べようと思ったのか。
近場さんは間違いなく退怪者のことは全く知らない。だから怪異なんて出会いも無意識に目を逸らして見ることもなく過ごしていたはずだ。
なのに、結果だけ見れば怪異の残虐性だけが頼りだった名ばかりの“契約”で無理やり“封印”完了とした化け物を、彼女は祓ってみせた。けどやり方があまりにも異常だ。
堰き止めていた疑問が次々と脳の中をぐるぐると巡る。どうして、何で。気を抜けばそんな言葉だけが延々と飛び出しそうだった。
僕の膝を心配気に見つめていた近場さんは顔を上げる。「大丈夫だよ」とその場でぴょんぴょんと跳ねてみせればホッとしたように口を開いた。
「あいつら、腕とか齧ってきたでしょ。その時に本当に酷いことを沢山わざわざ教えてきたの。今までここで、その……何人もの子どもが酷い死に方をしてるって」
酷いこととはさっきの近場さんの“会話”から察してはいた。僕が頷くと近場さんはそのまま続けた。
「そんなの許せないじゃん。理不尽に楽しいからって人を傷つける奴を許していいわけがない。遠出君も私もあいつらの犠牲になんかなっちゃ駄目だ、許せない、許せない。だから“どうにかしてやらなきゃ”って考えたの。遠出君が私は考えも無しに動くって言ってくれたからちゃんと今回は考えた。“何をすれば一番恨みを晴らしながら”こいつを倒せるかって」
「そんな考える余裕あったの? だって齧られたら」
「すっごく痛かったよ。でも考えれば考えるほどすっごいムカついてきちゃって。自分が怒ってると自覚したら殆ど痛くなくなっちゃった。だから、報いって言うんだっけ? ちゃんとどうすれば報いを受けさせられるのか私なりに考えた」
「それが……」
「ここで孤独に、誰も助けが来ない状態を味合わせてから痛めつけて“同じように”食べてやればいいって思ったの。そうしたら私の左腕を齧ってたこれくらいの奴がね」
近場さんが両方の人差し指と親指をそれぞれ合わせて小さく円を作った。
「齧るだけで声を出さないことに気がついたの。だからこっそり噛みついてやったらそのまま食べれちゃって……『じゃあ全部食べられるな』と決めたの。よく見たらあいつら肉というより風船みたいな奴で、中は殆ど臭いガスだったしね」
光の粒子が一粒ポカンと開けていた口にふんわりと吸い込まれていく。あっと気づいた時には遅く吸った息と共に僕の体内へ送られていった。無味無臭で、やはり僅かに“気”が回復した。きっと“これ”は人間には害がない、というより退怪者が“気”と呼ぶそのものなんだ。……ではなく。
「風船? あんなに重かったのに」
「齧ったら空気が漏れ出したし、よく見ると肉は表面にへばりついているだけだったから。だから殴ったら穴も開けやすかったでしょ?」
「そ……それで、全部」
「うん」
光に包まれ、平然と微笑んでいた。
「風船みたいだろうと何だろうとあんなに気持ち悪い肉を」
「不味かったよ、二度とやりたくない。ゲロ吐いた後の口の味がした。こんなに怒るのも初めてだし、疲れるんだね怒るのって」
「……その後ろの巨人は。というより近場さん、身体が」
自分の両手足を見つめ、そして天を仰いだ。
「食べてたら出てきた。何だろうね、これ」
あっさりと首を傾げられ「えええ……」と僕は引き攣った声で喉を震わせていた。普通自分の身体が急に光ったり背後から巨人が生えたら驚いたり怖がったりするだろう! 額に手を当てていればクスリと彼女が笑う。本当に森の中で一緒だった彼女がそこにいる。
まだ疑問は沢山あった。でもたぶん正解の推測はできてしまっていた。
もう出していた結論に僕は向き合わなければならなかった。




