3-12 逃げないで
近場さんが口元に垂れた紫の紐を指で摘まむ。そうして麺を啜るように口に入れ喉を上下させた。次に肉片をまた口に運ぶ。青く染まった歯が薄い唇の間から見え、ピンク色の肉片が潰れ、青い汁が口の端から滴った。少しだけ眉を上げ、それを舌でぺろりと舐める。すると身体を包んでいた光が一層強くなり、彼女の足元も照らす。
四本の腕が生えた人間のような形をした分身がピクリとも動かず、四肢をだらんと大理石の床に広げている。
その首が、半月型に抉れて青い液体を噴き出していた。
怪異が一斉に悲鳴を上げたのと近場さんが斃れた分身の腕を掴み指先を口に入れたのは同時だった。ぶおおおおお、という何度も聞いたものから老若男女の声、金属音、テノール歌手の歌声、鳥や猿や犬や猫の鳴き声、電子音みたいなものもした。それが全員──といってもおそらく元は一つの怪異なんだけど──大声で僕のさっきの泣き声のような音を発して身体を震わせている。でも、近場さんは見向きもしないで全ての指を食いちぎった。青い液体がドバドバと噴出して大理石と近場さんのシャツを汚す。それすら気にしないで今度は大口を開けて腕に噛みついた。一層光が強くなり、僕の後ろで震えている暗闇にいた怪異達の姿まではっきりと部屋の中に浮かび上がらせた。もはや上から降り注いでいる照明よりも近場さんの方が明るい気さえする。近場さんは眩しくないみたいで、気にせず腕を半分くらい食べ終えていた。
ふと素朴な疑問が空気を一切読まずに湧く。近場さんはもう胃の許容量以上に怪異を食べてないだろうか。口にしているのは人間の腕半分くらいの大きさ以上の肉だ。彼女の首からおへそよりも長い。そんな僕の疑問を無視して、ただまるで給食のパンを食べるように近場さんは平然として黙々と口を動かす。
するとその歯が怪異に食い込んだ瞬間、怪異の肉の一部が光に包まれ周囲の光と同化し始めた。思わず両手で口を押さえていれば、近場さんの喉や食道、胃の部分の光が特に強くなりその光が動き近場さんの周囲にまとわりついた。きっと最初は本当に怪異の肉をそのまま食べたのだろう。けど原因は未だに不明だけど、近場さんが口に含み体内に取り込んだものは瞬時に光の粒子となり、周囲の光と同化するように変化したのだ。つまり。
胃の限界という観点から言えば、近場さんはここにいる怪異を全て“食べること”が可能だった。
そして怪異達も僕と同じ疑問を抱き、同じ答えに至ったらしい。ぶお、おお、おお、と大きな本体二つが鳴く。嘲笑でも僕達に贄だと語っていた時の余裕でもない、エンジンがかからないバイクみたいに途切れ途切れの声だった。合図と共に僕の周囲にいた怪異が僕の隣を横切り、近場さんの周囲にいた怪異がこちらに突撃してきた。扉──! そうか、封印されていたのではなく、契約でここにいるだけだ。だから贄を食わないなら契約がなかったことになりあの扉から外に出られる可能性があるんだ! 出した結論は動けと身体中に信号を送るけれど、それ以上に痛みを訴えてきてその場に座り込んだまま僕は動けなかった。
一方で、遂に命の危機を感じたであろう様々な形をした分身達は顔があればきっと必死の形相をして一目散に駆けていった。べちゃべちゃと何重にも音が重なり、出口に群がろうして大理石を揺らした。鈍い音がして一瞬だけ振り返れば、部屋の一番奥には本体が二つ並んで同化しようとしている。ぶお、ぶお、ぶおと命令し分身をまずは何とか逃がそうと太い腕を四本作り出し、その場から扉をこじ開けるつもりなのだろう。
どうすればいい。何が起こっているんだ。分身達が走る、走る。既に近場さんから放たれている光はこの広い部屋全体を照らし、白い大理石の床と白い壁にいくつものステンドグラスの窓、そして扉の木目すらもはっきりと目視できるようになっていた。
扉に一つの蜘蛛みたいな形をした肉が飛びつく。頭部に開く丸い穴を扉の木の部分にくっつければ焦げた匂いがした。耳が異常に肥大した兎、人間の頭部が木の実みたいに何個もぶら下がっている木、脚が十数本あって魚の頭部と合体した蛸。次々に舌みたいな肉の塊達が殺到していく。溶かす気だ。でもどうすればいい。ぐるぐると思考を巡らせていれば背後からゾッとするような視線が突き刺さった。
「待って」
森で僕の背中に何度か投げかけられたトーンだった。この場に似つかわしくない、視線とは真逆の穏やかで少し困ったような声がして、全身の産毛が逆立った。
冷や汗をかいた背中に突如冷たい物を押しつけられた感覚と共に、べたべたの衣服と髪が突風で煽られる。遅れて肩を飛び上がらせれば、目の前で無数の金色の光が弾けた。
「な……に……?」
「待てって言ったのに」
怪異の分身達が何故か一斉にその場に転んで蹲り、僕と扉の間に突然四本の丸太のようなものが降ってきた。ぶちゅっと音がして生ごみの匂いが充満し僕は鼻を手で覆う。匂いの主は当然分身達だった。扉まであと一歩のところにいた数体が丸太の下で蠢き、青い液体がみるみるうちに広がり白の床を汚していった。丸太も肉でできている……そこまで把握して、無意識にとめていた息を吐けば、たくさんの人ではない者達の絶叫が響き渡った。
ぶおおおお! ぶおおおお!
一際大きかったのは本体で僕は耳を手で塞ぐ。そのまま振り返れば予想どおりの光景が広がり吐き気がこみ上げてくる。怪異の本体の四本の腕が抉り取られ、青い液体を壊れた蛇口のように四カ所から噴き出させていた。それを見向きもしないで近場さんがこちらに近づいてくる。
覆っている光が二重、三重にも膨れ上がり、そして大きな、近場さんの身長よりも長い一本の腕が生えていた。
さっきの激しい突風。その腕で怪異達全員を薙ぎ払ったのだ。
身体にまとっている光が上へと伸びていく。巨大な腕の位置も天井近くなる。縦長の楕円に大きな腕が一本。瞬きも忘れて見上げていれば、尻餅をつく体勢のままの僕を近場さんが目の前で見下ろしていた。僕の身体が近場さんの光に包まれる。不思議と身体から痛みが引いていき、失ったはずの気が戻っていた。
「どういう……?」
光に湿った僕のズボンが照らされて、思わず下半身を手で隠した。近場さんは気にせず眉を下げ、口を開く。
「大丈夫?」
絶叫の中で酷くクリアに聞こえた、あまりにもシンプルな僕を気遣う言葉だった。けど。
「大丈夫なのは……」
「すぐ終わらせるから待っててね」
依然顔や首筋、シャツの肩口等は怪異の体液で青く染まっている。それを一切気にもせず近場さんは明るく頬を緩ませた。終わらせる? 疑問を口にする前に近場さんは僕の横を通り過ぎて抉り取った四本の腕の側へとゆっくり歩んでいく。その間にも近場さんがまとう光は更に大きくなり、天辺に瘤のような突起が生えてきていた。光はおそらく人の形を作ろうとしていた。明るく優しい、お日様のような温かさの大きな光の巨人。けれどそれが成長すればするほど、氷を身体に押しつけられたような寒気と震えが止まらなくなっていた。
「ああああ……」
僕の口から、そして怪異の分身達から同時に悲鳴が漏れ続けている。不思議なのは薙ぎ払われた怪異達がその場から誰も動かないことだった。たしかに激しい突風を吹きつけられたから痛みはあるのだろう。実際何体かはその場で濁音交じりの絶叫と共にひたすらのたうち回っていた。けど、こいつ等だって食うか食われるかの瀬戸際なのだ。その場で蹲り身体を震わせるもの。身体をくねくねと揺するもの。誰もがその場から扉に向かって逃げようとしないのに首を傾げた。一体くらい諦めない奴がいてもいいだろう……そう考えていれば尻に冷たく湿った何かが触れ、思わず飛び上がる。見れば僕のズボンが青く染まり、それは怪異の本体の下半身の不自然に無数の穴が開いた場所から流れ続けていた。
嫌な予感がして近場さんにまた視線を戻す。すると扉の前で達磨のような形の肉塊がびくん、びくんと跳ねていた。
足を全部もがれた蜘蛛型の分身だと、理解した瞬間に一際大きく悲鳴を上げていた。
見渡せば全部の怪異が不自然に様々な箇所が抉れ、切断されている。動かないんじゃない。こいつらは動けないんだ。
近場さんは的確に一体一体の足、移動に使用する身体の部位を狙って先程の突風で破壊したのだ。
逃げないように、確実に食べるために。
近場さんの足元にパズルのピースみたいな形の怪異が転がっていた。黙って蹴り飛ばせば青い液体と共に床を滑っていく。僕から一番近い怪異が粒々の突起をわなわなと震わせていた。彼女は真っ直ぐに扉の前へ進む。そうしてさっき僕の悲鳴の原因となった扉に一番近い“元”蜘蛛型の怪異の前でしゃがみ込んだ。
あとは、地獄絵図、だった。




