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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
3.前編 遠出叶大は夢から覚めたくない
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3-11 僕も気づいていた

 近場さんの「ああ……」という声は安堵から漏らしたものではなく、諦めに似た決意だったんだ。そう妙に冷静に僕は天井……というより僕の周りに立ち、覆い被さるように覗き込んでくる肉の塊達を視界に留めながらそう結論づけた。

 たぶん近場さんは扉が人がギリギリ通れるくらいの隙間が開いた時には背後にこいつらがいて、“どちらかが扉を引っ張り続ければどちらかだけは通れる”残酷な事実を突きつけられたのだろう。だから躊躇いなく“僕を逃がそうとした”。自分がここに残る決断を下して。それがどういうことか理解してるからあんな声を漏らしたのだろう。

 でも、結局無駄だった。近場さんの“自己犠牲”も、僕達が必死で生きようとした時間も、腕や足に残る痛みも全部、全部。

 「むっー!」とおそらく口を塞がれたままで、くぐもった声が右からずっと聞こえていた。その声色が恐怖ではなく怒りに染まっていて、呆れのような羨ましいような感情が僅かに生まれた。首は自由なので声のする方に捻ってみれば肉と肉の塊の隙間からほんの少しだけ十数メートルくらい先に様々な形をした肉の塊の集団が見えた。きっと近場さんはあそこの中心にいて、僕と同じように仰向けにされて両手足も胴体も綱状にした肉で縛られている。身動きが取れない。近場さんと違って僕は口を塞がれてなかったけど、今更何を言えばいいのだろう。身体から力が抜けて、たぶん拘束が解けても僕は動けない。

 正直、もう諦めていた。僕はここで死ぬ。近場さんもだ。どうしようもない。

 恐怖よりも絶望よりも悲しみよりもただその事実だけを受け入れていた。もういいや、と。

 だからただ時折動く肉の綱の動きにも身動ぎせず、僕は身を任せている。肉のドームに覆われてただでさえ薄暗いのに、一層光が届かなく、じめじめして暑かった。意識がボーっとしてくる。目も閉じてしまおうかと視界をゆっくり狭めていけば、“遂に”肉の塊達に動きがあった。

 ぶおおおお、と八つ降ってきていた音が一つになる。隙間から目を凝らせば既に柱も祭壇も完全になくなっていた。代わりに八つの肉が一つにくっついて、天井まで届くつきたての巨大なお餅のようにその場所にどっしりと座っていた。あれがこの地に封印されていた怪異の本当の姿で、僕や近場さんを拘束しているこれはその分身なのだろう。

 その球体と呼ぶにはぶよぶよとして、揺れて形が変わっている肉の一つの塊が天井に一番上の部分をぶつけていて、切れ目が入っていった。家庭科の時間に本来鋏で切るべき布を無理やり手で引き裂こうとして鈍い音をさせた奴がいた。その何十倍もの不快な音がファスナーを下ろすように裂けていく肉の塊から延々とし続けていた。

 そうして肉の塊は二つに分裂した。それぞれその重い身体を粘着性の音をさせながら引きずって、じりじりとこちらに向かってくる。一つが僕より部屋の奥で拘束されている近場さんの近くで立ち止まり、もう一つが僕の方へ。隙間から見えていた視界が塗り潰され、黒い影が僕へじわじわとかかっていった。

 やがて。

 うねうねと僕の身体を拘束しながら蠢いていた肉が凍りついたように動きを止める。そして僕を囲む分身の真後ろに立っていた本体から身体のどこか一部が伸びたみたいだ。穴が三つ。人間の顔でいう目が二つと、口一つの位置に配置された僕の上半身より大きな楕円を先にくっつけた触手が、分身の間を無理やりこじ開けて、仰向けになった僕の目の前にやってくる。ねばねばした液体が僕の顔や体に糸を引いて落ちていく。それが冷たくなく生温かくて僕は全身に鳥肌が立っていった。それが目的なのか、何も考えてないのかキスできる距離まで本体は顔を近づけて、首を上下させ、僕の全身を頭からつま先まで見渡す。空洞の目で何が見えるのかわからないけど、鋭い視線だけはひしひしと感じ取れた。

 ぶおおおお、と口の穴を震わせて、生ごみみたいな匂いと糸引く液体を身体にかけられる。何を言っているのか相変わらずわからなくて、僕はただ無言でその様子を見つめていた。ぶおおおお、ぶおおおお、と数回。湿っていない部分の髪だけが揺れ、鼻だけがひくひくと勝手に動く。頼むからその匂いをやめてほしい。そう願おうとした時だった。

 口の穴が横に広がり、その先が斜め上へ伸びる。大きな二つの目に三日月型の一つの穴。笑顔だ、と気づけば右手の肘から指までが燃えるように熱くなる。「えっ」とカラカラの口内で言葉を転がせた瞬間、僕はただ叫んでいた。

「ぎゃああッ!」

 痛い痛い痛い──! じたばたと暴れても周囲の肉の分身達はびくともせず、逃げられない。手が熱い、熱い! 視界が瞬時に滲んでぼろぼろと涙が頬から零れ落ちる。肘の、肘が熱い、痛い。固い物が触れて一気に……! 

 噛み砕かれたのだ。僕の右手が、肘から先が! 滲んでぼやける視界の中で恐る恐る右に視線を落とせば“何故か再び同じ激痛”が“右腕”に走った。

 右手はそのまま、切断されず傷一つなく、僕の腕としてその場にあった。指先が震え、僕の意思で動いた。分身の一つが大きな穴を開けてそのくっついたままの僕の右腕を口内に入れる。ねとりとした感覚だけがあり、歯や牙はそこには存在していない。でもその口が勢い良く閉じて、また同じ激痛が響く。

「ああああ! ああああ!」

 涎を垂らしながら叫び続ければ今度は左の脹脛に同様の痛みが。それでも足も切断されていない。幼い頃にテレビでやっていた鮫が人間を食べる映画みたいに、僕の四肢は食われてしまったわけではなく、ちゃんと存在していて痛みだけが延々と繰り返された。

「嫌だぁ!」

 当然僕の訴えなんて聞いてくれるわけがない。遂に左腕、右足にも生温かい感触がして、そしてないはずの歯や牙が振り下ろされる。気がつけばおしっこを漏らしていて、独特の匂いがしてきた。ぶおおおお、と見下ろしている本体の顔がまた笑う。そうしてその口から伸びた一本の肉でできた紐が僕の額にぴたりと張りついた。ぱちんと音がして、僕は自分のこれからの末路を教えられた。言葉ではなかったけど、本を読んだ後みたいに情報が僕の脳内に流し込まれた感覚がしたのだ。

 ここに封印された、正確には封印されたことにしておいてやっている怪異はずっと昔から生きていること。ずっと前に大勢の退怪者の懇願を受け入れ、五年に一回生贄を捧げれば大人しくしている契約を結んだこと。生贄には気を常人よりも蓄え、放出することができない修行中の退怪者見習いが望ましく、目印として香炉を持たせて捧げること。そして。

 五年かけてこいつは生贄の気を吸い取っていく。気はそのまま生きている力なので、全て吸われてしまえば死を迎える。死を迎えたらいよいよ生贄を飲み込みその体内で消化するのだ。

 たしかに僅かだけど、身体の中の気が減っているような気がした。でも気を吸うのにこんな痛みって必要なんだろうか。そう考えながらまた泣き叫ぶ。必要だ、だってこいつは怪異だから“人を邪悪に弄ぶ性質がある。人の絶望や恐怖を何よりも好物とする”存在だから──!

「痛い痛いよぉ! やめてよぉ!」

 叫ぶ度に周囲の分身達もぶおおおおと笑う。悔しくて、痛くて苦しくて、それでも叫ばずにはいられない。肩をくわえられ、見えない刃で痛みを与えられる。服も、肉も骨も何もかも見た目はそのままだ。これが、これが何年も続くのか! まだきっと何分も経過してないのに!

 もう死んでもいいと諦めていたけど、今は嫌だった。だってこれが何年も! 最悪なことに鉛のように冷たくなっていた心が恐怖と絶望で温まり燃え上がる。身体中が痙攣して呼吸が浅く、視界が点滅した。嫌だ、死にたくない!

 上手く息を吸えずにえづき、意識を遠のかせば、今度は顔をそのまま飲み込まれ、首が切断されたんじゃないかって痛みが走った。大きく噎せながら強制的に息を吸わされ、全身のあらゆるところに分身達が噛みついていく。叫ばせるために、無理やり覚醒された意識はただ痛みと嘲笑だけを受け取っていた。

 全身を食べられ、齧られていた。痛みから逃れたくて別のことを考えようとする。何でこんなことになったんだろう、どうしてこんな目に……喉奥から飛んだ唾が自分の頬に落ち、惨めでたまらない。でもその冷たさに僕は一瞬だけ痛みを忘れ、同時に視界が真っ暗に染まった。

 思考が鮮明になり、そして冷たい鉛みたいな自分の心に再び直面させられる。

 どうしてこんな目にって結論はずっと前から出ていた。もう目を逸らせなかった。

 だって僕、もう小学五年生だよ? わかっていたさ。


 父さんと母さんが僕を虐待しているのなんてずっと気づいていた。

 それでも僕は二人の「本当は愛している」を“無理やり信じ込んで”退怪者の修行という名の虐待を受けていた。

 父さんと母さんが愛しているのは僕じゃなく、退怪者の誇りとそれを守る自分達だって気づいていた。

 だから生贄にされたと知っても、驚きはしたけど納得はしていた。

 

 そもそも凡民なんて相手を見下す言葉を息子の前で平然と使い、それを教え込むこと自体がおかしいのだ。それに伴ってクラスメイトとは距離を取れと言われていたのも、ついでにそもそも会わせてもらえない親戚にも退怪者の話はするなと凄まれたのも、“全部虐待を隠すため”だと本当は気づいていた。怪異の生贄にさせられるための修行だったのはさっき知ったけど、僕を孤立させ、自分達の思いどおりにさせるためだなんてのは理解していたんだ。

 でも、僕は現実を見て見ぬ振りをした。自分の身に降りかかっている惨状から目を背けて、いつか報われると信じて退怪者になろうと努力し続けた。


 だって。そうじゃなきゃ誰が僕を愛してくれるんだよ。

 

 退怪者を僕よりも愛するなら僕が一人前の退怪者になれば、父さんと母さんの一番になれる。温かく笑いかけてもらって、抱きしめてもらえる。昨日みたいな毎日をずっと送ることができるんだ。

 凡民なんて言葉は最低だと思う。けども、その“凡民の”クラスメイトも誰も僕が虐待されているのに気づいてくれなかったじゃないか。誰も手を差し伸べてくれない。それどころか嫌って無視をする。じゃあ父さんと母さんから愛してもらうしか僕にはなかった。

 だから。だから!

 全身が痛くて、けれど麻痺はしない。ずっと痛みが続いて潰れそうな喉が濁音が混ざった声を発する。

 ──見たいものしか見ない、逆に言えば見たくないものは見えない弱き生き物だと何度も言っている。

 不意に父さんと母さんが繰り返した言葉が、苦痛で埋まった脳内の片隅で僕を嘲笑っていた。

 ああ。そうだよ。凡民なんて差別するんじゃない。凡民ではなく“人間は”見たいものしか見ないし、見たくないものは見えないんだ。

 退怪者としての自分達しか見てない父さんと母さんも、僕の苦しみに気づかないクラスメイトも先生も──全部がおかしいって気づいてたのに、気づかない振りをし続けた僕もみーんな馬鹿!

 だから馬鹿は大人しく死ぬしかないんだ、皆も一緒に苦しめばいいのに。

 僕が生贄になってほくそ笑んでいる父さんと母さんの姿が、僕がいなくなって清々しい顔をしているクラスメイトの顔が浮かんだ。うるさい、皆もここで食われてしまえ。

 僕の苦しみに気づかない奴等なんて、全部!

「ぐっ……あああああ!」

 涙だけが何度も何度も溢れて自然に落ちていった。全身よりも胸の奥が痛くて苦しい。こんな“齧られたくらい”の痛みに何がわかる? 鼻の奥も、頭も痛い。手と足の先が冷たく痺れて、僕は死ぬことよりも、ここで一人で過ごす事実に恐怖した。

「嫌だ! やめろ!」

 分身達は急に暴れ出した僕を床に叩きつけて、そして一斉に全身を噛む。喉からヒュウと音がして、舌がピンと張ってがくがくと身体が揺れた。

「嫌だァ!」

 嫌だ、ここで一人で? あんなに頑張ったのに。

「嫌だ嫌だ……! ああああ!」

 報われないまま、皆に見下されて死ぬのは御免だ。でも。

 誰も聞いてくれないのは誰よりも理解していた。皆僕を見てくれないから、だから口にしなかった。眠れない夜に布団の中で歯を食いしばってずっと惨めさに耐えていた。

 だから「助けて」なんて言えないと、代わりに絶叫が喉を傷つけた時だった。

「ギャアああああッ!」

 大人の男と女の声を同時に流したような絶叫がした。怪異達が動きをとめ、一斉に静まり返る。宙に浮いていた僕の身体が落とされ、大理石に後頭部を打つ。全身を抱きしめるように押さえながら恐る恐る僕は上半身を起こしていった。

 怪異達がゆっくりと身体を部屋の奥へ向けていく。何が起きたんだ? 生温かったはずの空気が冷たく、そして張り詰めていた。

「ああああ……ああああ……? あッ!」

 怪異の声なのだろう。声というより僕がさっきまで上げていたような悲鳴に近いけど。ブチブチっと気持ち悪い音がして、周囲の怪異達が一歩部屋の奥から後退った。数十メートル先、部屋の奥から「んんっ」と小さな呻き声がする。

 向こうに群がっていた分身達が全て、本体の天井まで届く肉の塊ですら震えている。こちらと同じように三つの穴で構成されていた顔が遥か頭上にあって、全てが縦長に引き延ばされている。それらが全員取り囲んでいた中心へと視線を注いだまま、動きを止めていた。「うああ……あああ……」と苦痛に塗れた声だけが大きく響いていた。でも、誰も動かない。まるで怪異達は“動いてしまったら何かが崩壊する”と思っているように棒立ちしていた。

 恐怖。何故か怪異達はその感情に支配されているようだった。

「近場、さん?」

 漏れた言葉が部屋に大袈裟なくらい響いた。ああ、そうだよ。何で忘れていたんだ。僕に勝手についてきて、僕より何故か怪異の術に誑かされないでいたあの子。痛くて苦しくて悔しくて忘れてしまっていたけど、退怪者としての心構えも何もない彼女はもっと辛かったに違いないのに!

 でも、おかしい。口を塞がれてたとはいえあんな痛みを受けたら悲鳴が聞こえるはずだ。なのに僕は“近場さんの悲鳴を一切聞いていない”。見たいものしか見えない人間の性質があるから、彼女の悲鳴から目を背ける……僕が無意識に聞こえない振りをしていた可能性はあるけども。

 それにしてもおかしい。というか。

「無事なの!? 近場さん!」

 薄暗い闇の中で、何かがぼんやりと光った。向こうの怪異達の中心に小さな人影があって、それだった。

「近場……さん?」

 返事はない。けれどぼんやりと光ったそれが屈んで、足元に転がっている何かに覆い被さった。「あああ……ギャッ!」と野太い声がして人影の頭の部分に不自然に何かがひっついていた。

 目を凝らす。男と女の声が混ざった悲鳴が弱々しく消えていく。代わりにくちゃくちゃと妙な音がしては咳払い。不自然な何かが小さくなって、同時にまたくちゃくちゃと行儀の悪い咀嚼音がしてやがてそれすらもなくなってしまった。

 ぼんやりとした光が更に強くなり、僕は息を呑んだ。

 暗闇の中で、怪異達に囲まれ震えられて、近場さんが立っていた。身体中から淡い光を……正確には全身が光に包まれていて周囲を照らし、そして。

 口元に紫色の紐とピンク色の欠片。そして青い液体が顔の下半分を覆うように張りついている。


 近場千花は、たしかに怪異を食べていた。


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