3-10 彼女は気づいた
あれだけ叫んだのに、今は恐怖よりも別の感情が僕を支配していた。震えは止まり、ただ指先が妙に冷たかった。
冷静、ではないけど心が鉛になったみたいに動かなく、思考と視界がクリアになっていた。
肉の塊は相変わらず煙を浴びてその体積を増やし、そしておそらく一つになろうと互いに伸ばした肉の綱が所々くっついていく。
なんとなくだけど、柱の全てが肉の塊となった時が僕達が贄となる……そんな気がした。“最悪の結末”を頭の片隅で予想しながら、それでもどうしてもいいかわからず見上げていれば肩を叩かれた。
「逃げよう」
涙目の近場さんの足が震えている。膝が笑って、倒れてしまいそうなのを必死で押し留めているようだった。
「どうやって」
冷たい声が出る。すると近場さんがそっと顔を近づけて耳打ちした。
「後ろ。玄関と同じ柄の扉があるの」
べちゃべちゃと音を立てている肉の塊から恐る恐る目を逸らし、上体を捻る。ただ暗闇が広がっている中にほんのり何かが光っていて、眉のあたりに力を入れて近眼の人が遠くを見る時のような顔をした。
まだ怪異の術にかかっていた時だけど、記憶はしっかり残っている。たしかに僕が必死に押した、そして肉の塊でできた手が僕を掴んだ玄関の扉と同じ構造と模様だった。
「あれ。今は話しかけてこないし、こっちも見ていないと思う。たぶんまだ“完成してないから”大丈夫な気がする。だから今のうちにあそこから出て行けないかな」
肉の塊を近場さんがちらりと見る。どうしてかはわからないが同じ結論を僕達は出していた。でも、そこを疑う余裕はなかった。
「鍵がかかってるんじゃ」
「そうだったらどうしようもないけど、帰るにはもうあそこしかないじゃん。やるしかないよ」
「帰る場所なんて」
「遠出君何も話してくれないしよくわからないけど。何があったのかも、そもそもどうしてここに来たのかも」
思わず出た言葉に近場さんが悲しげに眉を歪めた。
「でも、“あれ”が言ってることが本当かわからなくない? 嘘を言って遠出君を怖がらせたいだけかもしれない。それに帰る場所はなくとも、ないなら……私と一緒に明日から遊ぼうよ。だから死にたくない。ここから出よう?」
一瞬、息がとまるかと思った。死にたくない。泣きかけた声は近場さんの本音だけど、そこじゃない。
彼女は僕がどうして叫んだのかを、“二人”が誰を差すのか理解していた。
そのうえで震えながら冷静に僕と一緒に森から出ようとしてくれている。
まだ心は冬場の鉄棒みたいに冷えている。触れた皮膚を刺してくるような痛みがある。でも、たしかにまだ結論は出ていないんだ。
「わかった」
そう頷くと僕達はどちらともなく手を繋いでいた。心と反対に湿って温かく柔らかい。二人して肉の塊を見上げる。柱の白い部分は殆どなくなっていて、肉のカーテンみたいな円ができかかっている。
一歩後退りをする。さっき確認した時の感じだとたぶん扉まで二十五メートル以上はあった。近場さん曰く「怪異は何も言ってこなくなった」んだけど、今の僕達のひそひそ声の会話を聞いていたのかもわからない。“完成”するまで動けず声も届かないのか、僕達が何をしても例えば扉に鍵がかかっていてこの部屋から出られない余裕と自信があってどうでもいいのか。後者だったら最悪だと内心舌打ちをしながら、砂まみれのスニーカーをまた後ろに下げた。
背を向けて走るのは嫌だった。だから時間はかかるかもしれないけど、僕達はそっと音をできるだけ立てずに後退りをしてしまっていた。
「聞こえてないのかな」
「たぶん今は昆虫でいう“蛹”の状態だ。聞こえてるのか聞こえてないのかわからないけど、後ろに下がっても何もしてこないってことは“羽化”するまでは大丈夫だと思う」
そうじゃなきゃ困るが本音だった。
「うん。信じるしかないね」
一歩、一歩下がっていく。互いに手汗で手がぬるぬるとした。ふう、と息を吐く度に一歩。はあ、と吸って一瞬後ろを振り返る。気がつけば呼吸を合わせていた。
大理石の上に足跡を残す代わりに砂のスニーカーの靴底についていた土が零れていく。僕と近場さんの両足分、四本の線が薄暗い空間に残っていた。
一歩。ざりっと音がする。息を吸って振り返る。“土の道”と薄暗い背後の鈍い光までの距離が半々くらいになっていた。もう少し、もう少し……足を引いて土が剥がれ、そして同時に「ぼちゃん」と水に大きな石を投げ込んだような音がした。
「何の」
音、と近場さんが僕の耳に口元を寄せようとして、ピタリと身体を強張らせる。そして繋いでない方の指先を震わせながら暗闇に紛れている柱だった肉の塊に向けた。
天井近く。筒を作っていたはずの一部が不自然に膨らんでいて大きな直径一メートルくらいの果実がなっているようだった。ずる、ずるとその果実が柱に沿って滑り落ちてくる。糊をつけたばかりの封筒の口を無理やり剥がしたような音が絶えずしていた。そして地面に近づいて、分離する。ぼちゃんとまた音がして、地面にもう少し小さな球が三つ転がっていた。気づかなかっただけで、どうやら既に何個も異様な肉の球体は生まれていたのだ。
舌を無理やり球体にしたようなそれ達が突如様々な形にぐねぐねと変形していく。小さなものはそれぞれ人の腕のようなものが蜘蛛みたいに生えたり、頭が背中に付いている小型の猫になったり、アロエのような形を作ったりした。大きなものはそのまま縦に伸び、更に乗せられたプリンみたいな台形になった。
表面は赤黒い血管が走って、粒々がうねっている。目玉も、鼻も、口もない。穴のない肉の塊だけれど。
一斉に僕達の方を向いたんだな、とわかってしまった。
「走って!」
近場さんが一度僕の手を離し、そして腕を掴む。扉の方へ一直線に僕達は駆け出した。
ぶおおおおお、と八つ音が重なる。ずるずるずると粘り気のある絵具のついた筆を思い切り走らせるような音が背後からした。
ぼちゃん、ぼちゃんと何度も音がした。吸えない酸素を求めながら振り返れば八つの柱に大きな穴が開いていて僕達に何か言葉を投げかけている。そして、その柱の下から波のように様々な大きさ形をした肉が迫ってきている。僕達の全速力より遅いけど、駆けっこがクラスで一番遅い子よりは速かった。
「何て言ってる!?」
「鬼ごっこ、しよう、だって!」
半分呼吸音で聞こえない声を近場さんが張り上げた。
泳がされていた──! 怪異とは人を邪悪に弄ぶ性質がある。人の絶望や恐怖を何よりも好物とする。だから背後に迫る怪異も僕達の怯える姿を見たくて、あえて逃げられると思わせたんだ。何度も何度も父さんと母さんに聞かされていたことだったけど、頭から抜け落ちていた。けど、ちゃんと思い出せたとして何ができたんだろう?
左足のスニーカーが脱げ落ちて転がっていく。汚れた靴下で踏む大理石は冷たく、そしてその固さを振動として僕の足に伝えてきた。バランスが取りにくい。片方だけ履いた靴も脱いでしまいたいけど、そんな時間はなかった。
「大丈夫!?」
「平気! そのまま走って!」
ジンジンとするけど構ってられない。ずるずるずると這う音がどんどん大きくなる。もう振り返る時間はない。そのまま僕は中央の光が降り注がない暗闇に飛び込み、目を閉じて両手を前に突き出していた。
手のひらに鈍い痛み。そして身体にも。痛みの後にひんやりとした感触がして僕は目を開ける。暗闇に僅かだけど慣れた目が玄関と同じ扉を視界に入れる。「うああ!」と近場さんが隣で叫び扉のドアノブも掴まずに身体ごと体当たりをした。
「違う! 入る時に押したから引かなきゃ!」
頷いたのだけ横目で確認し僕も横長のドアノブを握りしめ精一杯引く。扉は重く、けど玄関で押した時と同じ振動がした。幸運なことに鍵はかかってない! 全身を使って何とか重い扉をこじ開けようと僕達は歯を食いしばっていた。
一筋の光が僕と近場さんを分断するように暗闇に走り、思わず目をギュッと閉じてそして慌てて開いた。必死で目を凝らしていれば生温かい鉄の匂いが鼻についた。外にあった池だと瞬時に理解し僕は思い切り叫んだ。
「もう少し! 頑張って!」
鉛筆一本分の隙間が徐々に広がっていく。這いずる音が迫り、大きくなり、ぶおおおおとまた怪異が何かを叫んでいた。二本分、三本分、父さんと母さんに読むのを禁じられた漫画の雑誌の背表紙の厚さくらいの隙間。あと少し、本当にあと……。
鉄の棒を握りしめた手が、腕がミシミシといっている。足が痺れて、それでも踏ん張ろうと体重を大理石に叩きつけていた。のけ反って身体全体で引っ張っていく。そうして一際光が強くなった途端、近場さんが「ああ……」と安堵の声を出した。
「まだ早い! あと」
「つか、まえた、ァ」
べちょっとした感触が首筋に走った。濡れて絞ってないハンカチをべとべとにしたようなそんな。背筋がぞわりとして産毛が逆立つ。生温かい無数の息遣いが僕の身体中に当たって、そして耳元でぐちゃぐちゃと大量の音が鳴った。
──あ。間に合わなか……
「遠出君!」
身体に衝撃が走り、視界いっぱいに光が飛び込む。それでも今度は目を閉じなかった。
閉じてはいけなかった。
両開きの扉の間に人が一人通れそうな隙間があって、ゆっくりと狭まっていた。その扉の向こう。建物の中で困ったように近場さんが笑っていて、その身体の至る所からゆっくり赤とピンクに塗りつぶされていった。
腕なのか蛸の足なのかわからない、けれど様々な太さの“手”が次々と伸びて近場さんの身体を抱きしめていた。最後の抵抗と近場さんは両足を開いてその場で踏ん張っている。けど、その足すら掴まれて、近場さんの身体が宙に浮き、遂に悲鳴が上がる。それでも首を必死に振って、玄関の外で尻餅をついている僕を視界に入れると口を窄めて息を吸った。
「誰か! 助けを呼んできて! だから逃げ……っぐ!」
口を大きな手で覆われ、その身体がゆっくり部屋の中へ遠ざかっていく。呆然と、僕はそれを、見つめて、僕は。
何で僕を助けたんだたしかにあの時隙間の広さはどちらかが扉を押さえてないとまだ通れないくらいだったけどじゃあ近場さんが出ればいいじゃないかどうして僕を突き飛ばして僕は近場さんを森の中に置いて行こうと突き飛ばしたのに何でお前はどうして。
くぐもった近場さんの悲鳴がして、そしてすぐその後轟音が二つ。扉がけたたましく開き大きな両手が間抜けにも座り込んだままの僕を掴んだ。
「鬼、ごっこ、おし、ま、い」
僕の身体もまた暗闇の中へと引きずり込まれていった。
怪異とは人を邪悪に弄ぶ性質がある。人の絶望や恐怖を何よりも好物とする──父さんと母さんの声がまた頭の中でずっと響いていた。




