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1-1 一回目(前編)

 ワンシーズンで流行りも去り、くたびれるデート用の服に金を使うなんて馬鹿げている。目当ての服を取るために上に積まれたババ臭いベージュ色のシャツを奥へ押し込む。使い捨てのティッシュのようだ。俺は冷ややかに丸まったベージュを一瞥だけしてダークブルーのシャツを棚の上に広げた。

 するとスマートフォンがジーンズのポケットで震えた。恐る恐る取り出して通知を見て、またポケットに捻じ込む。あいつは最近やたらと俺にメッセージを送ってくる。まだキスしかしてないのにだ。さっさと“手をつけて”捨ててしまってもいいかもしれない。今度のバーベキューで敦也が会社の同僚を三人連れてくると言っていたっけ。自然と口角が上がる。自分の勤め先だとか近所だとかそういった付き合いが長くなりそうなテリトリーで“遊ぶ”奴は大馬鹿野郎だ。後腐れなく、自由に選べて自分を着飾ってくれる存在。出来るだけ縁は薄く、でも期待してがっついてやって来たような素振りはないように。会議のプレゼンも愛の言葉も同じだ。どちらも自分の評価を売り、自分の価値を上げるために行なう。簡単なことだった。

 ダークブルーを自分の身体に当てて鏡の前に行く。首回りの縫い目が雑なのが減点だが、値段を考えればこんなものだろう。念のために試着しようと周囲を見渡した。

「良くない? この色は着たことないでしょ」

「派手だろ、さすがに」

「えー。ミントグリーンって可愛くない? 爽やかだし」

「俺にはどうやっても蛍光ペンの色に見えるんだが」

 流行りのポップスがセンター内を流れていた。アップテンポのラブソングを軽快に歌う甲高い女の声と真逆の「パステルカラーに見えるのかよ」という呻き声が耳に飛び込んでくる。特段大声を上げているわけではない。それでも思わず試着室へ向かう足を止め、俺は振り返った。

「明るい色を着てみるノルマは達成じゃない」

「お前なぁ。これ着た俺と出歩く勇気あるのかよ」

 先程丸めたシャツのような色のカットソーに紺色のストレートパンツを履いたボブカットの女が蛍光ペンの緑色を彷彿とさせる色のシャツを持ち上げ、隣の柄の悪い男の胸板に合わせようと満面の笑みを浮かべていた。

「さっき飲んでたメロンソーダ色っぽくて可愛くない?」

「パステルカラーじゃないことは認めるんだな」

「そういうの揚げ足取りで良くないよ。パステルカラーも着てほしかったけど、今の気分はこれかな」

「これかな、じゃないだろ。これに柄パンを合わせるのかよ」

 女の方が不満気に唇を尖らせて、ハンガーラックの群れで作られた道をスタスタと突き進む。ガキの頃使っていたクレヨンのような色の服が並ぶハンガーラックを揺らして今度は蛍光ピンクのシャツを手にした。

「ねぇ」

「着ないぞ。というか俺にも選ばせろ」

「叶大君の服だからねぇ」

「お前の服をだよ、千花」

 何だ、この不快なカップルは。舌打ちをして視界からこいつらを外した。どうやら互いの服を買いにこのショッピングセンターに来たようだ。

「うぜぇな、帰れよ」

 馬鹿っぽさ全開の会話に辟易した声は想像以上に冷たくてすれ違った老婆がこちらを見て目を丸くしていた。余計腹の底を無遠慮に撫でられたような感覚に襲われ、睨み返す。喉を引き攣らせ早足でハンガーラックの道に消えた丸まった背を見て俺は「ハッ」と大袈裟に嗤ってやった。

 駅前のファミリー向けのショッピングセンターは二階フロアを半分くらい使って様々な服飾を取り扱っている。良い点は安価でそこそこの物が購入できること。悪い点は特に今日みたいな土日にくっついていない祝日は老若男女問わず、出入りが激しくて不快な連中を目にすることだ。

 服飾コーナーの中央に低めの壁で仕切られた半個室がある。壁に試着室と大きく書かれていて、中には開け放たれた白い分厚いカーテンの入り口が横に三つ並んでいた。何となく真ん中を選び、履き潰したバイカラーの革靴を脱ぐ。正面は全身を映す鏡。右側は荷物起きの棚が壁にくっついていて、左側は床にフェイスカバーとそのゴミ箱が置かれていた。『被り物を試着される際は』とお決まりの文句が書かれた張り紙の上に銀色の出っ張りが二つあり、片方は黒いプラスチックのハンガー、もう片方には何故か白いワンピースがかけられたものがぶら下がっていた。前の客が置いていったのか。ちゃんと元に戻せよな。

 革靴の中で蒸れた靴下をマットレスに擦り付けていればまたポケットが震えた。

『勝尾さん来週のバーベキューなんですが、十時に浅草駅で待ち合わせでいいんですよね?』

 ダークブルーのシャツに首を通し、スマートフォンに指を滑らす。敦也からで安堵の息が漏れた。

『待ち合わせも何もお前のセッティングだろ。俺が指定した店、予約取れてるんだろうな』

 すぐに既読がつかないため、棚に置き鏡に視線をやる。猫背の短く切り揃えた茶髪の男が姿見に映っていた。サイズも問題無し。ウケも悪くないはずだ。

 右側の棚がガタガタと音を立てた。もう不安よりも苛立ちが強い。シャツをマットレスに脱ぎ捨てて、上半身裸のまま返事を見ようと電源ボタンにかけた指に力を入れた。

『勝尾君無視しないでください。先週の件、納得できません』

 はあーっと思わず声が漏れた。元の服を羽織り、棚に尻を乗せる。

『うっかり落としたんだからそこまで怒るなよ。また買うって約束しただろ』

 手の中でもう一度スマートフォンが震える。右足でダンダンとマットレスを踏み鳴らした。

『うっかりって……。こっちに投げつけたのに? あと問題は壊したことじゃないでしょ』

「投げつけたって」

 乾いた笑いが漏れ、髪をかき上げる。鏡には不機嫌な顔を明確に作った俺が映っていた。

 今度は髪を撫でつけるように後ろにやる。落ち着け俺、と言い聞かせ目を瞑る。

 三回目の深呼吸で瞼を上げ爪先を見ていれば、片隅に追いやったはずの記憶が蘇った。


 念願の部屋でのデートだった。手作りのナポリタンが俺の目の前に置かれる。ケチャップと具のウィンナーの焼けた匂いに思わず唾を飲み込んだ。いただきますと言い合い、フォークを口に運ぶ。「美味しいな」と俺が褒めれば、夕衣は困ったように微笑んでいた。向かいで小さい口をもごもごと動かすあいつから視線を逸らしふと窓の方を見る。少しだけ開けた窓からそよ風が吹きレースのカーテンが揺れていた。


『手が滑ったんだよ』

『嘘。私の服にもかかったじゃない。絶対投げた』

『証拠も無いのによく俺が暴力を振るったみたいな言い方できるな。服のクリーニング代も渡すしカップも新しく買うって結論は昨日出しただろ。この話は終わりだ。それより互いに次の記念日にプレゼントを渡す約束、覚えてるんだろうな? 俺が頼んだ物は買えたのか?』


 ローテーブルに肘をついて寛いでいれば食器を洗い終えた夕衣が向かいに腰を下ろす。紅茶が飲みたいと頼み、もう一度キッチンに向かわせた間にテレビの電源を入れ、配信サービスから見たかった映画を選んだ。

「何を見るの?」

 紅茶の香りが鼻腔を擽る。付き合い始めておそらく一カ月くらいで購入したお揃いのマグカップが並んでいた。

「ん。これ」

「やだ、それ結構暴力的だって評判のやつじゃない」

「ずっと見たかったんだ。ほら始まった」

 テーブルに置かれたカップから琥珀色の液体を啜る。スーツを着た主演俳優がネクタイを緩めながらポケットから拳銃を取り出していた。

 ダン、ダン、と悪党の頭蓋に銃弾を撃ち込む。背後から襲いかかってきた奴の方を見ることもなく、袖に隠していたナイフを投げた。ナイフが喉に突き刺さる。口から血と泡を盛大に吐いて倒れたそいつを見て夕衣が悲鳴を上げた。

「やっぱりやめない?」

「煩いな。見たくなかったらスマホでも弄ってろよ」

 冷たい、と嫌味を投げかけられるが今はどうでもいい。むしろ夕衣自体がもうどうでもいいのかもしれない。付き合って三カ月。家事が出来て見た目もそこそこ。ブランド物の鞄やアクセサリーには興味がない。逆に付き合って一カ月記念のピアスを強請れば笑顔でプレゼントしてくれる。使用している基礎化粧品も高いだけのデパートで売っているものじゃなく、ドラッグストアの許容範囲内の値段のもので浪費癖はなし。何より大抵のことはお願いすれば「しょうがないな」と折れてくれる健気さと従順さは“歴代”の中でトップクラスで、だから自分の貞操に無駄な価値を見出してるのも許してやっていたのだ。

 ちらりと横目でクッションの上に座る夕衣を見る。手放すのは少々惜しい気もした。

 画面では悪党の腕が吹き飛び、大袈裟な悲鳴を上げる。スマートフォンを見つめていた夕衣の肩が小さく跳ね、スマートフォンの液晶が一瞬こちらへ向く。安価な服を取り扱う通販サイトを閲覧していたらしい。無駄な金をかけないところも好ましい。やっぱり保留にするか。


『わかりました。話したいことがあります。来週の連休に空いている日はありますか』

『月曜日なら。じゃあまたお前の家で』

『実はあれから大掃除始めちゃったから無理です。前に行った池袋のカフェにしませんか?』

『うーん。考えさせて。前日の日曜に友達と遊ぶ予定入れちゃっているから激混みの喧しい店で楽しめる余裕ないわ』

 即座に疲れている犬のイラストのスタンプを送る。気がつけば奥歯を強く噛んでいた。

 この流れは別れ話だろう。こういう時は相手に頭を冷やさせる時間を与えるのがセオリーだ。

 俺のメッセージに既読の表示がつくが、返事がない。買い物を邪魔されるのも嫌なので、ここで納得させてしまいたかった。

 右足がマットレスを小刻みに叩く。後一分待って返事が来なかったら、こちらから追い打ちをかけ話を切ってしまおう。

 首を鳴らし鎖骨の隣の窪みを親指で押す。痛みと心地良さの中間くらいの感覚に目を閉じればパタパタと複数の足音がした。

「絶対おかしいからな。着る前からわかるだろう」

「何事も挑戦って加藤先生も言ってたじゃない」

「そう言って碧風祭で教室にダンスホール作って保護者からクレームきただろ、あいつ」

 蛍光色のシャツにこだわっていたチカとカナタとかいうカップルだ。背にした壁と呼ぶには脆い試着室の仕切りが震える。入り口から見て右側の部屋にカナタが入ったようだ。

「着替えたら見せてね」

「見るに堪えかねなかったら脱ぐからな」

「面白くないことしないでよ。碧風祭の衣装よりは平気でしょ」

 おそらく文化祭の名を連呼しながらカーテン越しに会話をしていた。静かだった三つの仕切りの空間が一瞬で賑やかになり、出かけた舌打ちを堪える。

 少しの足音と、仕切り越しの衣擦れの音。その後に離れた場所から金属製の軋む音がした。この三つの試着室の前の粗末なソファにチカが座ったのだ。

「なあ、お前先にブラウス見てきていいぞ」

「やだ。蛍光色の叶大君見るまで動かない」

「……目的が変わってるだろ、それ」

 仕切りを殴りそうな腕を寸でのところで止めた自分を褒めてやりたかった。所構わず乳繰り合うカップルほど不快なものはないからだ。

 本当にブラウスを先に見に行ってくれないだろうか。

 もう既に一分どころか数分経過していた。だが今ここから出れば間違いなく幸福そうな女の間抜け面と対峙する羽目になる。

 十数秒ほど逡巡したと思う。結局、ここで時間を喰う方が癪だと結論づけ、あいつに『再来週なら空いてるはず。夜に日程を決めよう』と簡単なメッセージを送る。

 スマートフォンを今度はジーンズのポケットではなくショルダーバッグの奥底に入れようと顔を上げる。

 手を伸ばせば届く距離に黒の何もかかっていないプラスチック製のハンガーと、返却し忘れの白のワンピースがあった。スカートの部分は二重になっていて、まず外側は足首ほどの長さまで少し透けているふわふわとした素材で作られている。そしてその内側に腰から膝までしっかりとした生地が入っている、といった構造だ。腰回りはたしかシャーリングというくしゃっと生地を縮めたような加工がされ中にゴムが入っている。上半身のほうはゆったりとした五分袖で丸い襟元にパールを模したビーズが引っついていた。

 全体的に砂時計のようなシルエットだと思った瞬間、とある光景が脳を過ぎり俺は「あっ」と声を出しそうになった。


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