3-4 出陣
ランドセルを背負い、教室を飛び出す。先生の注意する声がしたけどどうでもいい。肩に痛みはなく、重みすら感じない。廊下を走るのは禁止。そんな決まりもなんてどうでもよくて、僕は駆けていく。キュッキュッとなる上履きの音も心地良い。ランドセルの中で小さな筆箱がガタガタと跳ねていた。足もこのままジャンプしたら飛べるんじゃないかって思うくらい軽かった。
土曜日は水族館に行ってハンバーガーを食べてファントムボンバーズを観た。翌日ショッピングセンターでちょっと恥ずかしかったけど手を繋いで回転寿司でコーンマヨを食べて帰りの車に乗る前にアイスクリームを買ってもらった。
「叶大。修行の話なんだがな。……ああ、敬語はいい」
赤い信号で、父さんが運転する車が止まる。ハンドルを指で叩きながら車の真ん中にある鏡越しに僕を見た。
「特別な修行を明日してもらおうと思う。学校が終わった放課後。そろそろ退怪気弾が出そうなお前のステップアップを兼ねた調査任務だ」
プラスチックのスプーンに乗せたアイスを落としそうになる。スプーンをアイスに突き立て膝と膝の間にカップを挟んで運転席と前の席の隙間に身を乗り出した。
「えっ! そんなの、やっていいの?」
「金曜の夜にな。父さんと母さんで話し合ったんだ。叶大があんなに頑張っているのに退怪気弾を出せないのは、緊張しているから。それから刺激が足りないからかもしれないってな」
「刺激?」
「だから新しいことをやろうと思うの。父さんと母さんの手伝い。勿論、危険はないから大丈夫よ」
「僕でも父さんと母さんの役に立てるの?」
父さんと母さんが顔を見合わせてゆっくりと口の端を上げる。そうして大きく頷いた。
信号が青になって自動車が動き出す。僕は溶けかけたアイスを口に運びながら、二人の説明を聞き漏らさないようにした。
近所……とは言えないけど家から五十分くらい歩いた場所に森がある。学校で先生から何度も口を酸っぱくして言われていたけれど、そこは立ち入り禁止となっている。理由は生い茂った草で隠れた底なし沼が何個かあるだとか、不審者が住み着いているから危ないからだとか、色々噂はあるけれど実際は違う。
本当はあそこは森に入った人の魂を喰らう怪異が封印されていて、退怪者達が裏で役所に指示を出して立ち入り禁止にしてもらっているのだ。
「家に帰ったら詳しく説明するけど、道に迷わないように退怪者専用の道標を渡すわ」
母さんが今日一番機嫌よく手で野球ボールくらいの丸を作った。
「進むべき方向に光るようになっているの。叶大にはそれを使って森の中に入って、光が強くなった場所に香炉を一つ置いてきてほしいの」
空になったプラスチックのカップとスプーンを握りしめる。うんうんと首を縦に振れば父さんが説明を引き継いだ。
封印は確実なもので万が一にも解けないが、定期的に退怪者が調査を行なっている。その調査に退怪気を満たした方がやりやすいため、指定の場所に気を増幅させる香炉を置いてきてほしい……とのことだった。
「そんな大切なこと、本当に僕に任せてもらえるの?」
「叶大にしかできないことなんだ。誇っていい。もう退怪者の一員として働けると、俺達二人が認めたんだ」
今日一番嬉しいかもしれない。自分の口の端が二人と同じように自然に上がっていくのがわかった。
「勿論。修行の成果を見せて頂戴」
鏡に優しく微笑む二人の顔が真ん中の鏡に映る。僕も同じ顔をして父さんと母さんの間で目を輝かせていた。
……だから今日は朝起きた時から落ち着かなかった。母さんが焼いたスクランブルエッグを食パンに挟んで食べている時も、ランドセルの中を忘れ物がないかもう一度確認する時もずっとふわふわと浮いているようなそんな感覚に包まれていた。
ランドセルの隙間に道標と香炉が入った袋が詰まっていた。筆箱を小さい物にして、ノートも減らして、準備万端だ。「いってきます」と玄関の扉を開けたら、父さんと母さんに抱きしめられる。初陣だからおまじないをかけてくれたのかもしれない。一層胸とお腹の中から温かい何かが広がっていった。
授業中もその調子で、落ち着かなければと時折両手をぐっと握って過ごした。でも帰りの会が終わった途端、一目散に椅子を引き駆け出していた。
下駄箱で靴に履き替える時間がわずらわしい。思いっ切り脱ぎ捨てた上履きを靴箱に叩きつけて僕は校門を出た。
そうして今僕は森に向かっている。走ると余計な体力を使うからゆっくり行くのよ、と母さんに言われていたからさすがに学校を出てからは歩いている。マンションや一軒家がぎっちりブロックのおもちゃみたいに詰め込まれた場所から次第に家と家の間に何も植えてない畑のようなスペースが増えていった。アスファルトの道が自動車一台も通れないんじゃないかってくらい細くなっていく。代わりに僕と同じくらいの背の草がアスファルトの道の両側に生えて、風でゆらゆらしていた。家も首を後ろに倒さなきゃ上が見えないマンションやコンクリートでできた綺麗な色とりどりのパステルカラーの建物から、ボロボロの木の板と錆びついたうねうねした鉄板の屋根の小屋になっていく。あれ、人が住んでいるんだろうか。空き家じゃなくて?
空はまだお昼みたいな薄い水色で、空気はじめっとしていた。ランドセルが揺れる度に背中との隙間に生温い風が入って嫌な気持ちになる。梅雨明けが例年より遅れているらしい。周囲を見渡しながら雨が降っていないで良かったと小さく息を吐いた。授業が終わったのが二時四十分。帰りの会があって三時くらいに学校を出たから、たぶん三時半は過ぎていると思う。そこまで日差しは強くないけども、首や背中、肘の内側は汗で湿っていた。
乾いたアスファルトがひび割れていてその上を靴で踏みしめていく。生温かい風が吹く度に両側の草がしなってくすぐったい音がした。道が大きくカーブしていて塗装が剥がれかけたガードレールがある。まるでこっちに草がこないように押さえつけているようだった。
両側で揺れている草が僕の身長よりも高くなっていた。隙間からは茶色い地面とたまにやっぱりボロボロの小屋が顔を覗かせている。アスファルトの道は気づけば土手の上みたいなところにあって、体育館の平均台を思い出させた。息を吐きかけられたような生温かい感触が全身を包む。遠くで自動車のゆっくりとしたエンジン音がするけれど、それよりも虫が飛んでいるブーンって音の方が大きく早く聞こえた。
胃のあたりがぎゅうっと痛んで寒気がした。自分が森に向かっているんじゃなくて、草や小屋に向かわされているような気がしたからだ。
俯けば歩幅が小さくなっていた。虫の死骸が転がっていて、蟻が群がっているのをそっと避ける。何だか足を止めたらあの虫みたいになってしまう予感がして、背筋が冷たくなった。父さんと母さんに褒めてもらうんだ。頑張らなくては、と俯きながら足を交互に前に出していく。ぶーんと横切った手のひらサイズの黒い影に肩を跳ねさせたけど、振り切るように早足になった。
大丈夫、大丈夫。修行の方が大変で、怪異の方が何百倍も恐ろしいんだから。僕は選ばれた退怪者の卵。こんなところで負けてたまるか。
言い聞かせながらうねうねと曲がった道を進んで行く。土手から転がり落ちないように気をつけて先へ、先へと進む。はあ、はあと自分の呼吸音だけが大きく聞こえた。額から汗が落ちて、乾いたアスファルトが嬉々として吸収していった。
そして。
どれくらい歩いたのか、正直よく覚えていない。ただ、青臭さが濃くなって顔を上げれば目の前に真っ暗な森があった。先生が入っては駄目だと言っていたのはこんな場所だったっけ? 過ぎる疑問を振り切るように一歩、二歩と近づく。入口には学校の校門みたいな門が閉められていて、黄色と黒のロープでぐるぐる巻きにされ角が折れた看板がぶら下がっていた。




