3-2 登校
ランドセルの肩ひもが退怪気弾を受けた肩にずっしりと響いていく。打って紫色になった皮膚を思い切り押されているようでズキズキと痛むけど、父さんが言うには僕の退怪力がまだ足りないから快復が遅いらしい。修行を積めば何とかなるならまだ僕にも挽回のチャンスがある。そう頷いて服の首の部分から腹を覗き込んだ。
赤や紫色にはなっていない僕の一見何ともない皮膚がそこにはあった。退怪術の痛みは残るけど痣が残らないのは好きではなかった。自分の努力がまるでなかったかのような悔しい気持ちになるからだ。
重い足を引きずって下駄箱で上履きを取り出す。履き替えようと身体を動かす度に全身が痛むけど、いつものことで一年頑張っても何も変わらなかった。例えば毎日三十分ジョギングをすれば最初は息苦しくとも次第に楽になりもっと走れるようになるらしい。けど退怪者の修行は違う。退怪気弾を打てるほど身体中に力を循環させられるようになる“門”を開かなきゃ、そこまでは何も変化がないと母さんが言っていた。
だから父さんと母さんは僕に厳しい修行を課す。“門”を開かなきゃスタートラインにも立てていないからだ。“開門”は実は危険な行為で稀に開門のショックで前後の記憶を失ったり高熱が出たりする人もいるらしいけど、そうなっても僕は早く開門したかった。父さん曰く、寧ろ喜ばしいことらしいのでそうやって目覚めたいとすら思っている。
歩幅がどんどん小さくなっていく。俯けば薄汚れた上履きのゴムが目に入り、余計気持ちが沈んでいく。階段を上り切って右に曲がれば背中に引っ張られるような衝撃が走った。
「あ、ごめん」
隣のクラスの凡民で名前なんて知らない。悪意があったわけじゃない。ただ階段を駆け上ってうっかり僕にぶつかっただけなのは、眉を下げた顔から理解できた。
「ごめんって」
謝罪から戸惑いに変わったその顔をじっと見つめてしまう。口を開くのも億劫だった。
「何だよ、お前がもたもた歩いてるからだろ!」
怒鳴った声は朝の教室から漏れ出す甲高い楽しげな声に掻き消されていった。凡民は一転して僕に「ばーか」と意地の悪い声を浴びせ、舌打ちを残して廊下を全速力で走っていく。
面倒だった。謝れば済むと思っているその考えに付き合うのが。例えば僕とぶつかったのがもっと前、つまり階段を上っている最中だったらどうなるのか考えもしなかったのだろうか。階段から落ちて骨折してもあんな「ごめん」で済まそうと思うのか。
つま先の汚れを廊下に擦り付ける。キュキュと音がしてそれが一層僕の心を波立たせた。
──凡民の言うことなんて聞いちゃ駄目よ。貴方と違って世界の真理も知らずに騒ぐだけの馬鹿なんだから。
そうだ、馬鹿はお前だ……息を深く吸って吐く。そして目を閉じて頭を撫でる母さんを思い出した。何も知らない連中なんか相手にするだけ無駄なんだ。命の危険に晒されたこともない奴等に僕のことがわかるわけがない。
「土曜のファントムボンバーズ! 見たかよ!」
はあ、と大きく溜め息をついて教室へと再び歩き出す。月曜日が一番憂鬱なのは教室を通り越して廊下に響き渡る凡民達の声だ。うるさい、どうだっていい。あんな嘘で盛り上がって、何も知らないくせに。
ガラガラと教室の引き戸を開けて僕は席へと向かう。一瞬教室が静まり、視線が集中するが誰かの溜め息と共に何事もなかったかのように煩さを取り戻した。誰も挨拶をしてこないがそれでよかった。僕とクラスメイトの関係はどうやら“相互不干渉”と呼ぶらしい。最低限の、例えば給食を盛りつけるだとか掃除当番の時に誰がゴミ捨てに行くだとかそういうことしか話さない。五年生になってクラス替えがあってからずっとそうだった。
「ユウトの新しい技良かったよなぁ!」
「フレイムバスター・改!」
ランドセルから教科書と筆箱を出していれば、ごおお、と声でおそらく炎の音まで再現して凡民の一人が隣の友達の脇腹に軽くパンチをした。所謂くだらない“ごっこ遊び”だ。隣の友達も笑いながら「ウィンドソード!」と叫び筆箱を振り回した。
「ちょっと危ないでしょ」
名前を覚えていない誰かの叱責が飛ぶけれど、ファントムボンバーズごっこを楽しむ二人には届いていない。椅子の足が床を引っ掻く耳障りな音がする。ガタガタと机と椅子が揺れ、ガンガンとぶつかっていった。
「あっ」
ぶつかり続けた机がずれて僕の机に振動を加える。国語の教科書が床へと落ちていった。ごっこ遊びをしていた二人が身体の動きをピタリと止めて何だか申し訳なさそうに僕に視線をやり、目が合う。息苦しいくらい誰も喋らなくなって、隣のクラスから場違いな笑い声が聞こえた。
「えっと……」
不安気な声が響いて、黒板の前で話していた女子のグループが心配そうにごっこ遊びコンビの背中を見守っていた。
「いいよ」
仕方ない、折れてやるか。廊下でぶつかった失礼な奴の舌打ちが鼓膜にこびりついていて、僕は溜め息をついて教科書を拾ってランドセルを後ろの棚にしまいにいった。
教室はまだ静かでひそひそ話が飛び交い始める。コンビは周囲の奴等に頭を下げながら、机と椅子の位置を床のテープの位置に直し始めた。ずずず、ずずず……と振動が教室の床を揺らす。僕が席について机に突っ伏せば、「だから言ったじゃない」と声がして振動が三つに増えた。
「態度悪っ」
小さく呟いたの、誰だよ。大らかな心で許しを与えたはずの僕を何故か凡民は非難する。でも凡民だから仕方がないと言い聞かせ頭を腕で覆ってみる。余計振動が僕の全身をかき回すように揺らした。
うるさい。うるさい。
ひそひそ声がまた大きな騒めきに変わった頃、それ以上に大きなチャイムが鳴って先生が入ってくる。
「はーい。日直さん、号令!」
つまらない一日が始まると僕は欠伸を噛み殺したのだった。




