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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
3.前編 遠出叶大は夢から覚めたくない
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3-1 小学五年

 僕の家の地下に“道場”があるのは絶対に内緒だと父さんと母さんが毎日念押しする。そんなに言われなくてもわかるのに、あまりにも真剣な顔をするものだから僕はただ頷いて学校に行くしかなかった。

 うつ伏せで右の頬を緑のマットにくっつけていた。独特の、たぶんビニールの匂いに慣れることはなく、鼻の奥をむずむずとさせている。それでもひりひりとする頬にマットの冷たさは心地良かった。身体が上から誰かに乗られているように重く、動けない。眠いのとは違う頭の天辺を引っ張られるような感覚に意識が遠のいていった。

「これくらいで音を上げるのですか!」

 甲高い声に意識を戻された途端、マット以上に冷たい何かが僕の上半身に降り注ぐ。バチャと音がして一層ビニールの匂いが濃くなった気がした。

「立て! それでも遠出家の男か!」

 鳩尾あたりがキュッと痛くなると同時に全身が上へと、浮遊感に襲われた。上昇が止まった途端、首に痛みが走り「ぐええ」と声と涎が漏れる。苦しさのあまり踏ん張ろうとするが、力が入らない。足が、宙に浮いていた。

 服の首元の背中側を掴まれて僕は持ち上げられていた。思わずじたばたとバタ足みたいに必死に足を動かす。すると「何だ、動けるじゃないか」と呆れた声が上から降ってきて、そして投げ捨てられた。

 噎せながら見上げれば大きな影と小さな影。天井の結婚式のケーキの蝋燭みたいな照明が眩しくて、どんな表情までかはわからない。

 けれど、怒っているのはわかった。僕が不甲斐なく未熟だからだ。

「今度は自分で立てるよな? 十秒以内に構えなければ夕飯は霊光餅だけだ」

 あの図工室に置いてあるボールペンも消せるらしい消しゴムみたいな食感の餅は嫌だ。震える太腿を両手で叩いて僕は必死に身体を立たせようとする。

「いーち、にいー、さあーん……」

 膝に手をつくが、さっき浴びた聖水のせいで滑ってマットに手の平と打ちつける。パン、と破裂音がして肩を飛び上がらせる。

「よぉーん、ごぉー」

 早くしなくちゃ。もう一度、膝に手を乗せ今度こそ太腿に力を入れた。

「ろぉーく……」

 中腰の姿勢から上体を起こす。そして左手を前に突き出して、手の甲の方から親指以外の指を右手で掴んだ。

「なあーな、はあーち……」

「待って、できました!」

 修行の時は敬語と決まっていた。僕は腹筋に力を入れて、かけっこをする前のように右足を後ろに下げた。

「きゅー……、本当だ。よくできたじゃないか!」

 大きな影の両端から長い何かが伸びて僕の身体を包む。背中がぎりぎりと軋んで少ない酸素が口から漏れていく。それでも背中に回った腕が僕の胸の奥を温かくした。

「さすが私達の息子。遠出家の対魔の構えは取れるようになりましたね」

 腕が解かれれば、空気が抜けるような音がしてマットが揺れる。聖水が入った桶と柄杓を投げ出して小さな影が同じように僕を抱きしめてくれる。「良い子、良い子」と甲高い声で繰り返す。じんわりと視界が滲んだ。

「遠出家の血を受け継いでいるんだ。やればできる。だから決して諦めるな」

「怪異はいつどこでも民を狙っております。それを影から滅し世の理を守るのが我らの務め。……お前は選ばれた子なのよ」

 泣いちゃいけないと言われているのに父さんと母さんの言葉が僕の胸の奥を温かくした。心臓がぎゅうっと痛い。鼻声にならないようにそっと鼻水をすすって「はい」と酸素を吐き出すように返事をした。

「よし。それじゃあ……」

 父さんと母さんが離れていく。僕は道着の裾で素早く顔を拭い、構えのポーズを取った。遠出家の退怪術はこの構えが全ての基本だ。両足を地面につけつつ、いつでも怪異に飛びかかれるように片足を引いておく。そして僕はまだ習得してなかったけれど退怪気弾を発せられるように手を前に向けておくのだ。

「叶大。遠出家の者は十二までに退怪気弾を会得する習わしだ。そこから二の型、三の型と基本演舞。その後、開門の人体孔を十箇所ついていく。苦しいだろうが耐えられるな」

「さあ、聖水を飲みなさい。水は身体を巡り血となり気となる」

「前回の録画を見返したが、お前は疲労が溜まると左半身の型が崩れやすい。気を抜くな」

 母さんが柄杓を拾い僕に差し出す。三杯、と告げられ桶の中の聖水を汲み上げて口をつけた。

 学校の料理実習で凡民のクラスメイトが味噌を入れ過ぎた味噌汁と同じくらいしょっぱく、そしてガムシロップをこっそり舐めた時と同じくらい甘く、退怪草のお薬よりも苦い味が同時に口の中に広がった。これは僕が退怪気弾を発せられない凡民だからそう感じるだけで、退怪術を覚えればただの水と同じ無味無臭となるらしい。

 無理やり胃に収める。ごくりと喉を鳴らす度に臍のあたりが痛んだ。さっき組み手で父さんの退怪気弾を喰らったからだ。痣は残らないのに、痛みだけは残る。怪異が人を呪うのと同じ手口でだから身体でその恐ろしさを覚えるようにと何度も何度も教わっていた。

 ごくん、と喉がなる。空気も一緒に飲み込んだみたいでげっぷがせり上がってきた。それでもその空気ごと聖水で流し込む。空気に散らばる気を身体に取り込めと、母さんから三週間くらいビンタされ続けてやっと覚えた。

 僕は歴代の遠出家の中でも退怪術の覚えが遅い落ちこぼれらしい。おじいちゃんとおばあちゃんは既に亡くなっていて聞けない。だから今度父さんの弟家族と会う時に聞いてみたかったけど、父さんに「怪異と戦う血筋は遠出家の中でも選ばれた一部の者が継ぐ決まりで、他の連中は誰も知らない。凡民は怪異の脅威など知らない方がいい。だから決して父さんと母さん以外とその話をするな」と両手を握りしめられ、ずっと会っていなかった。たしかに怪異の映像を始めて見せられた時、僕はずっと眠れなく、小学三年生にもなっておねしょをしてしまった。あんなものを退怪術を覚えられない弱い凡民が知る必要はない。父さんや母さんとその仲間の退怪者、そして未来の退怪者の僕だけが知っていればいいのだ。

 ぼおんと道場の奥に置かれた柱時計が鳴った。三杯目の聖水を流し込みながら見れば午後六時で、頭の中に鮮やかなイラストが過ぎった。

「あんな紛い物なんか観る必要ありません」

 母さんが僕の頭の中を読んだみたいにピシャリと言い放つ。僕は苦みに耐えながら聖水を飲み干しこくんと頷いた。

「わかっています」

「ファントムボンバーズ、だっけか。あんな俺達が戦っている怪異の十分の一以下の悪霊を倒して調子に乗っているガキ共のアニメなんか観るもんじゃない。選ばれし退怪者が抑え込んでいる闇の世界を知らん現実を生きている奴等の幻想だ。叶大、お前にあんなアニメは必要ないな?」

「勿論です」

 ファントムボンバーズは今学校で一番流行っているアニメだ。元々は漫画でよく凡民のクラスメイトが貸し借りをしている。アニメは毎週土曜日の夕方六時から放送。月曜日はアニメの話で大盛り上がりで先生が朝礼で「授業中は静かに」と注意している。

 僕にはあんな噓っぱちのアニメはいらないのだ。そう胸にしっかりと刻む。僕みたいに道場で訓練もしないのに、主人公のユウトは悪霊と戦う炎の魔法を友達を想う気持ちだけですぐ使えるようになってしまっている。現実はそんなに甘くないのに、だ。あの漫画でいう悪霊、つまり現実の怪異と戦う退怪者は皆毎日訓練してようやく下級怪異を一体倒せるようになるというのに。

 そんな嘘を垂れ流す凡民が嫌いだった。父さんや母さん、そして僕はそいつらのために血の滲む努力をしているのに、同じ退怪者仲間以外からは評価されないのだ。

「凡民は見たいものしか見ない、逆に言えば見たくないものは見えない弱き生き物だと何度も言っているな。だから多くの人間は無意識に恐れ、怪異から目を逸らす。一方俺達退怪者は逸らさずに見つめ返し、倒す。……だが退怪者にも限界がある」

「世の中全てを見ることは、優れた退怪者でも不可能……ですよね」

「その通り。だから凡民の文化よりも一つでも多くの怪異を倒すための技を、知識を私達は習得しなければならないの。だからあのアニメは不要です」

「……よし。聖水は飲んだな? ではもう一度構えを」

 父さんが同じく構えのポーズを取る。ユウトと違って多くの人間から賞賛されることもないのに、こうして頑張る父さんと母さんが僕は大好きだった。

 左手を突き出す。そうすれば母さんも同じポーズを取った。

 ジジ……と小さな音が鼓膜を揺さぶる。演舞を録画しているカメラの音だ。音声は「守秘義務に抵触する」から撮っていないらしい。けど、僕の演舞の型を見返し指導するためにいつも録画されているのだ。

「叶大。これだけは覚えておきなさい」

 聖水よりも甘い、声だった。

「父さんも母さんも今日のように時に未来の退怪者として、貴方に厳しく稽古をつけるでしょう。でも貴方のためを思ってなの。貴方が一人前の退怪者として怪異に殺されないようにやるしかないのよ」

「そうだぞ叶大。父さんも母さんもお前に厳しくあたらなければならないのは本当は苦しいんだ。だが、お前のためを思ってこそ心を鬼にしている。大丈夫だ、お前は選ばれし俺達の息子。必ず一人前の退怪者になれる。……遠出叶大。準備はできたか」

「はい!」

 腹が痛むのも忘れ、僕は声を張って父さんと母さんの期待に応える。本当は辛いけど、それは二人も一緒なんだ。頑張って早く二人を安心させなきゃ。

「二の型、始めぇ!」

 父さんと母さんが両手を激しく左右に揺する。僕も遅れを取らないようについていく。

 いつか、一人前になって父さんと母さんに思いっ切り褒めてもらいたい。頭を撫でて、さっきみたいに抱きしめてもらって、気が乱れるから一人前になるまでは駄目だと禁じられているハンバーガーを食べに行きたい。

 鼓動が高鳴り笑いそうになる。それだけを夢見て僕は今日も二人と道場で厳しい稽古を積むのだった。


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