2-1 現在 その一
「来週から二週間……正確には十日間かな。朝から夕方までバイトなの」
おう、そうなのか……と相槌を打ちかけて俺は棚のドレッシングを掴んだ手を離した。
「は? 来週って」
「来週の月曜日から。……それ買うんじゃないの?」
スーパーマーケットのドレッシング棚に貼られた“今日のお買い得!”の札の奥。和風ドレッシングが今日だけ二十円安い。ネット上のチラシを昨日見た時から買うと決めていた。たかが二十円、されど二十円だ。……ではなく。
「テストも全部終わってようやく夏休みじゃねえか」
「夏休みだから稼ぎ時なんだよ」
「俺、彼氏だよな? さっき一緒に予定を立てようって言ってたよな?」
「夕方からご飯は食べに行けるよ」
「お前なぁ」
ショッピングカートに乗せた籠に赤いキャップのそれをそっと入れる。千花は俺が狙っていたドレッシングの隣に並ぶオレンジの色のキャップと白のキャップのを手に取り、小首を傾げていた。
「安定の胡麻か、夏の新作レモン風味塩ドレッシング……どっちがいいかな」
「俺との予定はドレッシング以下かよ」
思いの外不貞腐れた声が出てしまい、視線を千花からドレッシング棚へと戻す。俺よりも背が高い棚に大量の多種多様なドレッシングが大量に敷き詰められていて、ほんの少し眩暈を覚える。暖色系か黒か白の蓋が浮いているようにも見えた。無数の目玉。そんな妄想が過ぎり慌てて自分の頬を軽く叩いた。
「ごめん。ちょっと言い方が悪かった。あのね、夏休みで思いっ切り遊ぶにはお金が要るでしょう。だから最初に沢山稼いでおいて、それから遊ぼうって思ったの。運良く早めにテストも終わったしさ」
一人で頷いて千花がレモンの絵が大きく描かれたドレッシングを籠に入れる。大学の前期課程のテストやレポートの締切は高校までと違って、選択している講義によって異なる。俺も千花も、特に千花は週五日午前から午後まで講義を取っていた──大学一年の時はできるだけ単位を取るようにして、二年目以降で楽をするのが“鉄板”だと先輩に教わった──割にレポートの提出期限もテストの日付も七月の中旬くらいまでに固まっていて、悲鳴を上げながらも無事終了となったのだ。現在七月二十三日。千花は昨日、俺は今日がテスト最終日でそのお祝いに飯を食いに行ったレストランで長い夏休みをどう過ごすか考えようと笑い合っていたのが四十分前くらいだ。
カラカラとカートを押していく。千花は腕に籠をかけていた。お互い自分の家に必要なものを購入して帰る途中だった。デートの帰りにしては随分と所帯じみているが、嫌いではない。
「別に、その。約束を反故にされたんじゃないし。俺も言い方が悪かった。だが」
千花はスマートフォンのメモアプリを開いていた。「ドレッシング(何でもいい)」「珈琲の粉」等箇条書きにされている。いつものやつ、とはあの蓋が緑色の瓶に入ったお湯に溶かして飲むタイプの物だろう。おばさんが好きで、近場家はずっとそのブランドを愛飲していた。
「バイトって何するんだ?」
「コールセンターの補助……って言えばいいのかな? 後期からはどこかで長期のバイトがしたいからそれの練習も兼ねて」
あんなにテストとレポートにここ数週間追われていたのにいつの間に面接をしたんだとか、二駅隣の俺のバイト先のカフェがかなりシフトの融通が利くから一緒にやらないかとか言いたいことは沢山あったが、一番気になることを質問してみればあっさりと返ってきた。コールセンター、ねぇ。
不安気な俺の顔に気づかずスマートフォンをポケットに閉まった千花が再び歩き出したので後を追う。行き先は二つ隣の棚。天井から吊るされた看板に大きく「珈琲・お茶」と書かれていた。
千花は大学に入ってから長期のアルバイトはまだ経験していない。大学という新生活に慣れていない、そして週五日ほぼ一日中講義を選択したこともあり、平日の夜だとか土日の昼間だとかに毎週バイトをするのはまだ無理と判断したらしい。そのため短期のアルバイト、例えば一日だけの棚卸やデータ入力や期間限定の物産展のイベントスタッフ等を繰り返して交際費を捻出しているのを知っていた。
「コールセンターってうるせぇ客の見当違いの苦情を無限に聞かされるやつだろう。大丈夫なのか」
「叶大君、それ偏見入ってる」
マーケット内に流れる懐かしいアニソンをアレンジした曲がうっすらと鼓膜を揺する。そんなものより大切な千花の声に耳を澄ませる。ジロリと俺を睨んでいるその顔を見つめ返した。
「コールセンターって言っても、予約の状況を見ながらデータを表に入れるだけだからそんなに苦情もないはずだよ」
苦笑いを浮かべた千花が聞き覚えのある会社の名前で唇を震わせた。繁華街に行けば必ず何件か看板を見ることになる様々な形態の居酒屋を経営しているグループだった。
「居酒屋の営業時間外。要は朝から夕方までの間にお店に代わって外部の会社が予約の電話を受けてて私のバイト先はそこ。電話を受けつつチェーン店間の席の分配と共有ができるようにデータを入力する仕事らしいよ」
「分配と共有?」
「飲食店の予約ってポイントが付いたり割引コースの案内があったりする予約情報アプリでやることが多いじゃない? でも今回のバイト先は店舗の公式ホームページのフォームと電話のみで予約を受け付けているんだって。で、例えば駅前南口の居酒屋に三十人の団体客が予約したいって電話をかけてきたとする。そこで南口の居酒屋に空きがあればそのまま受けちゃって大丈夫。でも駅前南口店は予約がいっぱいで、そこから徒歩五分の東口店は席が空いてたとする……そういう時に案内してお客さんを逃さないようにするのが仕事だって」
ああ、分配はそういうことか。俺は頷いて千花の言葉を引き継いだ。
「つまり予約ミスがないようにデータを見ながら案内、それから入力してお前以外の担当者と共有できるようにするってことか」
「うん。あとはフォーム予約の方もチェックして『席が空いてないのに予約を受けちゃいました』なんてことがないようにしてねって言われたよ」
「なるほどなぁ。……結構大変じゃないか」
短期のアルバイトにやらせる仕事なのかそれ。緑の蓋の瓶を籠に入れた千花を見下ろしつつ、俺もそれを手にした。
「どうだろう。面接の時にリーダーはそこまで電話はないから大丈夫だとは言ってたけど。一応暑気払いの季節だから短期で毎年一人雇ってるけど、今まで一度も問題はなかったらしいよ」
「鵜呑みにすんな。『毎年激務でトラブルばかりです』なんて面接の時に言わねぇだろう」
溜め息を漏らせば千花が「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「ヤバくても十日間だけだし、何よりお給料が凄いんだよ」
「給料が無駄に高いのってな。仕事内容がヤバいことが多いんだぜ」
「でも夏休みは盛大に遊ぶって決めたじゃん」
籠を揺らしながら千花がまた先を歩く。振り返り「カット野菜買うんじゃないの」と手招きをされた。千花の、正確には近場家のおつかいはドレッシングと粉珈琲だけだが、俺は今日の夕飯用のサラダと適当な惣菜を買って帰る必要があった。
「リモート面接したリーダーさん、良い人そうだったよ」
「いいか。俺達の未来に待っている就職活動には圧迫面接なんていうクソくだらない馬鹿の振る舞いをする連中がまだいるかもしれない。けど、基本的には面接官なんて本心を隠して厚い面の皮に笑顔を張りつけてんだ。そうしなきゃネットで企業名どころか面接官の本名や住所まで晒される時代だからな」
「かと言って初対面から疑い過ぎるのも、良くないと思う」
カラカラとカートの車輪が音を立てる。懐かしいアニソンは気がついたら童謡のアレンジに変化していた。
「ハラスメントにあったら逃げちまえよ。バイトなんかそれくらいの意気込みでいい」
「証拠を集めればいいんだっけ? ICレコーダーは持って行った方がいい?」
疑い過ぎるのはよくないって言ったのは誰だよ。
「それも手だが……相手を社会的に潰すよりもお前が無事なのが一番だろ。余計なストレス溜め込む前に逃げろ」
千切りになっているキャベツの袋を籠に入れながら、俺は低めの声で凄む。千花はへらへらと笑っていて、一層胸の奥にぞわぞわと悪寒が走った。
千花は怪異に対しては無敵だが、人間に対しては“ただの女子大学生”でしかない。
悪意を持った人間は、千花に近づいても光の粒子となって爆発なんかしてくれない。それどころか罵声を浴びせ暴力を振るう可能性だってある。千花の“能力”は人間の悪意から心身を守ってくれやしないのだ。
……“そうであると、あの日決めたのだ”。
「そうだねぇ。ありがとう」
柔らかな笑みと礼を返される。そのまま俺達は青果売り場から鮮魚、精肉コーナーを通り、惣菜売り場へと向かう。千花は籠を右手に持って軽く揺すっている。スピーカーから妙に頭に残る“魚や肉の美味しさを訴える歌”が延々と繰り返されていた。小さく隣から鼻歌が漏れている。可愛らしいと思うよりも胸の奥の震えが収まらない。ひんやりとした道を進んで、油の匂いが鼻につく総菜コーナーへと辿り着いた。この時間だとまだ二割引きが最大の値引き……コーンクリームコロッケが二つ入ったパックの端に貼られた赤と黄色の丸いシールを見つけ、大切に籠へと運んだ。
「それで足りるの?」
「昨日焼いた鯖と炒めたシメジと小松菜が冷蔵庫に残ってる」
「なら良かった。他は?」
「もう平気だ。レジ、行くか」
時間帯の割に空いていた無人レジに千花が先に足を進める。俺も端末の前に立ち、スマートフォンのポイントアプリを起動して画面を近づける。
千花が先にサッカー台の上で鞄にドレッシングと粉珈琲の瓶を詰めていた。視界にその姿を留めながら、商品を一つ一つ読み込んでいく。いつか、その。大変気の早い話だが……結婚できたら同じレジを使うのだろうか。
浮ついた妄想が勝手に脳内で繰り広げられる。なのに湧き上がってくるのは喜びではなく不安だった。
「支払い方法をお選びください」
機械的な音声に大きく瞬きをして、俺はせわしなく首を動かし画面と台の上の籠を覗き込んだ。気づけば商品を全て読み込んでいて、カートの上に乗せていたグレーの籠から「会計済み」と書かれた赤色の籠に移し終えていた。
慌ててプリペイドカードを端末に押しつけてそそくさと千花の隣のサッカー台へと移動する。「ボーっとしてたけど大丈夫」と眉を下げられたが、テストの疲れと言い張ればやがてホッと息を吐いてくれた。
並んでスーパーマーケットの外へと出れば熱風が俺達を出迎え、身体中の穴から汗が噴き出るようだった。まだ太陽は濃い青空の中で平等に俺達に紫外線と暑さを振りまく。
「もう既に秋が恋しいんだけど」
「それだと夏休みが終わっちまうだろう」
「秋くらいの涼しさで、夏来ないかなぁ」
アスファルトから立ち上る熱気を受けて、要領を得ない会話を俺達は続ける。日傘をさした千花が俺の頭をその下に入れようと背伸びをして身体を寄せてきた。
「俺はいいから」
「熱中症になるよ? 今の時代男の人でも日傘はマストだし、それが嫌なら帽子を被る!」
「わかった、わかった」
溜め息をつきながら俺は立ち止まると鞄の底から折り畳みの日傘を取り出す。テストとレポート漬けの生活となる前に千花に激しく勧められ購入した日傘だ。実際、こまめに差すようになってから頭痛の頻度が減っているが、手が塞がるのが難点だった。
千花が満面の笑みを浮かべ、俺を見上げ……ているようだった。日傘の欠点を追加だ。隣のこいつの表情が見えない。
前後に人がいないことを確かめて俺達はふらふらと歩道を進んで行った。数十メートル先の十字路までは方向が一緒で、その先は千花は両親と暮らす一軒家へ。俺は一人マンションへと帰るのだ。
「後で連絡するから」
結局帰宅後にスマートフォンで通話をする約束をして、千花が手を振る。女子にしては背が高いが、俺からすれば小さいその姿に小さく手を振り返した。
「あ! そうだ、叶大君」
突然千花が声を張り上げ、日傘を振る。長く住んでいるせいか知り合いばかりの住宅街に声が響き渡った。
「バイト、本当に心配しないでね! アンガーマネジメントの本はちゃんと読んだし、一人で何とかできるよ!」
それ、読んだだけで習得できるものじゃないだろう。後でそれだけは言ってやろうと誓い、俺は誰もいないマンションへと戻ったのだった。
◇◇◇
マンションに帰ってからの記憶は千花との通話以外曖昧だ。いつものように一人で飯を食い、風呂に入り、洗濯機を回す。ルーティーンに近い動作をこなして、ベッドの上に仰向けになる。サイドチェストに置いたマグカップからは湯気と珈琲の香りが広がっていた。今日はもう歯を磨いて寝るだけだった。
ふう、と大きく息を吐けば腹が凹んでいく。存外疲れていない身体はそれでも布団の柔らかさに沈んでいった。テレビもタブレットで動画も見る気が起きない。家鳴りか耳鳴りか判別が難しい甲高い音を聞きながら、寝返りを打ってまた天井を見上げた。
「一人で何とかできるよ、か」
実際、何かあれば全てを犠牲にしてでも助けに行くが心配はしていなかった。千花は昔から何でもそつなくこなしていたし、何より意固地にならず人に助けを求められる性格だ。他者から寄りかかられ支えたり、逆に悩みを吐露したりとそんな関係を今まで周囲と築いてきていた。クラスの中心にいるタイプではない。だが小学校から今まで、あいつは教室全体をじっと見渡せる性分で、よくある言葉で言えばお人好しのお節介焼きだった。気がつけば暗い顔をした誰かが傍にいて、千花と関わり合って明るさを取り戻すのをずっと見てきた。それは“俺が一番知っていて”、だからこそ恐ろしかった。
だからこそ、なのだが。
赤いランドセルとシャツにキュロット。不思議そうに首を傾げた千花を今でも鮮明に思い出せる。恐怖を押し込んだ顔を、“あの時”の声を、それから。
ぐにゃりと視界が回る。不意に息を止め、歯を食いしばった。嗚咽のような声が喉から漏れる。過去の記憶が瞼の裏で次々と繰り返されていった。
久し振りに良くない──それでも確実に今の俺を形成する過去の夢を見そうだ。
電気代勿体ないなと過ぎった思考に苦笑しながら、俺は意識を手放した。




