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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
2.泥濘の赤い綱
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7―1 帰還

「先輩、体調はもう大丈夫ですか」

「平気よ、ありがとう」

「先輩も居眠りすることあるんですね」

「それはそうでしょ。そんなに真面目な人間じゃないわよ」

 遠出叶大君と近場千花ちゃんがふにゃりと頬を緩める。どちらも偶然キャンパス内で知り合ってから仲良くしている可愛い後輩だ。

 図書館棟からゆっくり大学の門へと私達は向かっていた。時刻は午後三時過ぎ。本来なら課題を終えていたはずではある。

「高校時代は結構授業中寝てたわよ。数学とかわからなくて」

「え? 先輩理系なんですか?」

「違う違う。文理で分かれる前の話よ」

 千花ちゃんが「私も寝てました」と悪戯っぽく笑えば、遠出君が「寝てるから余計わからなくなるんだろう」と正論を口にする。たしかに、と頷けば少しだけ焦ったように手を顔の前で振って遠出君が目を丸くした。

「先輩のことじゃなくて千花のことです」

「えー。今の言い方だと両方だよ。先輩になんて失礼な」

 「殴っていいですよ、叶大君のこと」と千花ちゃんが神妙な顔で言うものだから私は声を出して笑ってしまった。きっと妙な夢を見て意気消沈していた私のことを気遣ってくれているのだ。

 とんでもない悪夢を私は会議室で見ていた。重い瞼をこじ開ければ鞄を抱えたまま、机に突っ伏して居眠りをしていて、それは金本君、水原君、日渡さん、月川さんも同じだった。

 千花ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。使用していた会議室が事務員さんのミスで違ったらしい。それでちょうどその場に居合わせた千花ちゃんが「知り合いが使ってるんで呼んで移動してもらいますね」と引き受け、会議室に来たんだとか。そうしたら全員眠りこけていて、さすがに驚いてしまったようだ。

 頬に集まる熱を無視して、肩を一人ずつ揺すって起こしていけば、全員何故か気まずそうに「急用を思い出した」と大声を上げ、そのまま退室してしまった。口を半開きにして立つ私の前には分厚い民俗学の本が置かれた机と「魘されてましたよ」と眉を下げる千花ちゃん。何か言わなくてはと戸惑っていれば遠出君がひょっこり顔を出し、手際よく床に転がったポテトチップスの空袋やらゴミを丸めてポリ袋に入れてくれた。

 結局課題は終わっていない。まあ、いつもどおり私がやればいいだろうとため息をついて、今は可愛い後輩カップルと帰路についていた。

「そんなに怖い夢だったんですか」

「そうねぇ」

 あまりにもぼーっとしている私に千花ちゃんと遠出君が体調不良を疑い、大学近所の病院をスマートフォンで調べ始めるものだから、恥を忍んで正直に告白した。かいつまんで、一緒に会議室にいた四人が化け物になって色んな化け物と一緒に襲いかかってきたから応戦したとだけを。

「そうか」

 遠出君が顎に手を当てて目を細めた。舗装された煉瓦状のタイルの道の先に視線をやっている。眼差しがやけに真剣で私は慌てて目の前で手を振った。

「大丈夫よ。夢だし。刺されたと思った背中も当たり前だけど何ともないんだから」

「刺されたんですか!」

 千花ちゃんの大声にすれ違った男女が振り返る。迷惑そうに首を傾けながら、それでも好奇心から耳を傾けていたいようで足音が遅くなっていた。遠出君が千花ちゃんの後ろに回り込み口を押さえた。もが、とくぐもった声がして「すみません」と謝罪が続く。

「気にしなくていいのに」

「でもそんな夢みたら真っ青な顔もしますね」

「夢って不思議よねぇ。目が覚めた時ホッとして泣きそうになったもの」

 一連の恐怖は間違いなく夢だ。だって人は化け物にならないし、幽霊や妖怪が存在していて更に彼等が呪われてたとしても、会議室であんなことにはならないだろう。

 そう確信している。背中の湿った感触は冷や汗で血液ではない。両腕を中心とした疲労感も鞄を抱き締めて妙な体勢で居眠りしていたからなのだ。

 遠出君が服の端で手を拭いながら「こんなに赤いの塗ってたのか」とポツリと漏らす。手のひらに目を落とせば、おそらくローズブラウンの二本の線が薄く引かれていた。

 赤綱とは異なる綺麗な色だった。

 思わず噴き出せば千花ちゃんが唇に手を添える。「もしかして取れちゃった?」と不満げに突き出した唇にはまだ薄らとラメが残っていた。

「少しだけ残っているよ」

「本当ですか? 良かったぁ」

 千花ちゃんが遠出君を見上げ腹を肘で小突く。「悪かった」と不貞腐れたように視線を逸らした。

「意外と目立たないのよ。唇が元々赤いタイプだと特に。むしろ薄いピンクの方が塗ってます、って感じが出たりするの」

「へぇ」

「でもそれも可愛いわよ。……私もそこまでコスメに詳しいわけじゃないけどね」

 大真面目に遠出君が何度も頷いている。そよ風が首筋を撫でて、私は大きく深呼吸をした。一定の間隔で植えられた名前もわからない細い木の青い匂いが肺へと送り込まれる。暖かい日差しが後頭部を照らしている。そろそろ日傘の季節かもしれない。玄関に出してあったっけ──

 何となく見上げた空は綺麗に澄んでいて、後頭部を照らしていた太陽はいつもどおり輝いている。夢が覚める瞬間の全てを消滅させた光を想起させた。私を悪夢から連れ出してくれたあの光は太陽に似ていた。

 あの夢がもし、夢じゃなかったら。

 さっきから心の片隅でそう考えてしまっていた。でも、どっちでも同じなのだと思う。

 私はそこまで綺麗な心では生きられない。だからこそ、あの時たしかに感じた境界──化け物や怪異と、人を隔てるその線だけは越えないように生きよう。気を抜けば顔を出す自分の醜さを受け入れたい。

 それだけわかっていればいい。そうまた深呼吸をすれば身体中の疲労感が何だか霧散していくようだった

 ああ、帰ってきたんだ。目頭が熱くなり思わず押さえる。ここで泣いたら確実に可愛い後輩に迷惑をかけてしまう。そう堪えて首を振り、前を向く。もうすぐ校門だった。

「帰りに時間ある?」

 右隣に並んでいた千花ちゃんと遠出君が期待を隠さない顔で「はい」と声を弾ませた。

「ちょっと迷惑もかけちゃったし、帰りに飲み物くらい奢るわよ。駅前の喫茶店でいい?」

 やった、と千花ちゃんが小さくガッツポーズをした。スキップをして遠出君を置いて校門へと進んでいく。

「おい、喫茶店は逃げねぇぞ」

「早く行きたくて!」

 「すみません」と遠出君が小さく頭を下げたので首を横に振る。そこまで喜んでくれるなら先輩冥利につきる。

「私達も走ろうか」

「あいつ、たまに妙なやる気を見せるんですよね」

 ため息交じりの遠出君は小走りで、それでも私にスピードを合わせてくれていた。二人とも本当に良い子達だ。末長く恋人として幸せでいてほしい。

「生霊九体、心霊スポットからもらってきた呪いが二十六、直接取り憑いていた怪異が十五、か」

 呆れのような、感嘆のような、寂しそうなそんなすすり泣くような声がした。

「遠出君?」

 風が強く吹き、木々が揺れる。往来が激しいキャンパス内では聞き取れない声量で、でもたしかに遠出君は唇を震わせていた。

「先輩、夢は夢でしかないんで忘れた方がいいですよ。それから──」

 千花ちゃんが校門の先で手を大きく振っている。私は振り返して、それから遠出君を見上げた。

「生き残るための行動を嗤う奴なんかいませんよ。いたとしても、無視すりゃいいだけです」

 え──!

 ほんの一瞬だけ、遠出君が寂しそうな笑みを浮かべた気がした。呆然と足を止める。

「と、千花なら言うんじゃないですかね。俺もそう思います。じゃあ行きましょうか」

 私を追い越して遠出君が駆け足で千花ちゃんの元に向かう。「先輩早く」と二人の声が重なった。

 追いついた遠出君の顔はいつもの仏頂面で、それから千花ちゃんに温かな眼差しを向けていた。もしかして惚気られている? そんな疑問に答えるかのように千花ちゃんも優しく頬を緩ませていた。

 そんな二人が何だかあの光のように綺麗で、私もつられて笑ってしまったのだった。


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