プロローグ 梅雨入り前の六月に
恋人に「着てほしい服はあるか」と尋ねたら、小指を机の脚にぶつけたような顔をされた。
「それは気障ったらしくウエディングドレスか白無垢、と答えるべきなのか」
「当分着る予定はないけど」
「それを俺に言うな」
恋人に堂々と予定がないと。眉間を摘まんで頭が痛いとアピールをされる。私は意に介さず目の前のクリームソーダに刺さったストローを口に含んだ。
「何で急に」
「最近やすちゃんに勧められてこれを読んでいるんだ」
「まだあいつと付き合いあるのかよ」
「束縛が強い彼氏みたいなこと言わないで。良い子でしょ」
「彼氏みたいじゃなくて俺は彼氏だろ」
くたびれたショルダーバッグから文庫本を出す。ナイロンのカバーを被せたそれの小口は随分と年季が入った色をしていた。
「ちょっと昔の少女漫画なんだけどね」
グラスを端に除けて丁寧にページをめくっていく。該当のページを開けたので目の前の男の方に向ければ覗き込んできた。
「好きな人に自分の好みの服を着てほしい願望があるって描いてあって」
付き合い出した初々しい高校生二人がデートをしているシーンだった。ショウウインドウに飾られたワンピースを見た男の子が頬を染めながら「こういう服に興味ない?」と主人公の女の子に問う。女の子が似合わないよと眉を下げれば「僕は君なら似合うと思う。着てほしい」と微笑んでいた。
「この後、次のデートで女の子がワンピースを着てきて、男の子は似合うアクセサリーを買ってプレゼントするって流れなんだ」
「……アクセサリー欲しいのか」
「そうじゃなくて、そういう欲求がアンタにもあるんじゃないかって疑問に思ったの」
恋人は眉間に皺を寄せてコーヒーフロートをストローで掻き回す。透明な氷が上下し黒と白が混ざってベージュ色になった。キュッと頬が窄まりベージュ色が上がっていく。随分と出会った頃とは身体の大きさも、声の高さも変わってしまっていたけれど、こういうちょっと間抜けな顔を時折見せるのは変わってなかった。
「願望はあるさ、あるが……」
斜め後ろの四人席から歓声が上がり、言葉尻が鼓膜に届かない。休日昼間の喫茶店はいつもどおり騒がしく、「キャア」なんて楽しい声もすぐに周囲に溶け込んでいった。
初夏の日差しに目を細めた恋人の顔が窓に映っている。しかめっ面のまま恋人はテーパードスラックスのポケットから小さなスマートフォンを取り出して、太めの指で画面をなぞり始めた。
恋の相談。夏休みの旅行計画。仕事の愚痴にお気に入りのアニメの話。周囲は騒がしいのにここだけ隔絶されたような冷たさを覚える。私は胸の奥が痛いようなそわそわするようなそんな感覚に襲われ、シャツのボタンを指先で弄んだ。
私とこいつ。まるで二人だけが世界から切り取られたような、そんな。
「どうした」
「何でもない」
心配そうな声に意識を戻され、思わず瞬きをした。
「デート中だぞ。もっと俺に集中しろ」
「それ素面でよく言えるね」
「俺もお前もまだ酒は飲めない年齢だろうが」
「ほれ」と差し出されたスマートフォンの画面を今度は私が覗き込んだ。
レモンイエローのミモレ丈のフレアスカートに白のボリューム袖のフリルネックブラウス。キリッとした眉毛が凛々しいモデルさんが優雅に微笑んでいた。
今度は私が口を窄ませる。緑の冷たい液体が口内に流れ込み、パチパチと弾けた。
「これを着てほしいの?」
どうやらスカートの通販ページらしい。モデルさんのエナメル素材のミュールの先に値段が表示されていて、スカートだけで私の今日の上下に下着と靴下代も足せそうだと場違いな感想を抱く。
「最近スカートを見ないから」
「ああ、大学入ってから滅多にスカート履かないからね」
「嫌いか?」
「ううん、でもこっちの方が動きやすくて」
思い返せば中学校くらいから私服は専らパンツスタイルだった、と思う。別にスカートが嫌いなんじゃない。「制服でスカートは嫌でも履けるから」と親にたまに買ってもらったのが全部パンツだっただけだ。バイトを始めて自分で稼いだお金で服を購入するようになっても気がつけばパンツ……要はズボンを購入しているのだが。
視線をスマートフォンから少し下に逸らせば自分の太腿が目に入る。今日は紺のストレートパンツだった。
「正直に言えばこういう……名前はわからないがひらひらしたスカートが可愛いとは思う。それからこのなんかふわふわした袖も……絶対似合うし」
さっきの少女漫画か、とは口を挟めなかった。ばつが悪そうな顔をしながら、それでも真剣な瞳をしていたからだ。
「ただ、俺の趣味にお前が合わせる必要は全くないだろ。俺はそんな支配欲の強い男になりたくない」
「そこは『着ろ』と言われても、嫌だったら自分の好きな服を着るから安心していいよ」
「じゃあ何故聞いた?」
「軽い冗談というか話の種というか。気になったからが二番目の理由だけど」
「一番目は」
カランと氷がグラスの中で転がる。汗をかいたフロート二つが太陽に照らされ汗をかいていた。
「やすちゃんから借りた漫画を読んでね。一着くらいなら面白いしお財布にも優しいかなって思ったの」
「は」と吐息交じりの低い声が飛び出す。昔より厚くなった胸板が上下していた。
「私が叶大君の服を一着……というか全身丸ごと選ぶでしょ? それで叶大君が私の服を選ぶ。それで今度会う時にお互いに着てくるってのはどう? 予算を決めてお互いに駅前のショッピングセンターで買えばたぶん……バイト代も飛ばないはず」
その場合は靴は抜いた方がいいかもね、と付け加える。自分で服を買うようになって一番驚いたのが靴の値段だった。安いものもあるが、歩きやすさやデザインを考慮するとたちまち値がつり上がっていく。
「お前、俺に着てほしい服とかあったのかよ」
「うーん。特には」
「ふざけるな」
がらがらとした低い声で凄まれる。叶大君は今日、最近よく着ている黒のシャツにカーキ色のテーパードスラックスを履いていた。ちゃんとして見えるから似合っているのだろう。
サイドパートの黒髪から出た右耳には細いイヤーカフが光っていた。これもお洒落……というか私は似合っていると思う。ちょっと強面だから幼い頃からの付き合いじゃなきゃ近寄りたくない見た目ではあるけど。
正直なことを言ってしまえば、最低限のマナーさえ守っていてくれれば恋人の服装なんて何でもよかった。
汚しては洗われてくたくたになった長袖シャツに色褪せてきたジーンズで駆け回っていた小学校時代。紺色のブレザーとスラックスに包まれた中学と高校。体育の時間のジャージに、一緒に行った夏祭りの浴衣。一緒に近所のスーパーマーケットに向かう時のチノパンに、部屋着の直訳すると「荒れ狂う猫」とか妙な英字が印字されたシャツと短パン。一緒にいる時間が長すぎて、服装で一喜一憂する時期は知らぬ間に通り過ぎていた。
ほんの少しだけ学ラン姿が見たいといった願望はあるが、それは一緒に外出する際の服装ではなく、もう大学生の私達にとっては「コスプレ」でしかなかった。
それでも敢えてと十数年の記憶を遡る。そういえば、と目の前の男が望みそうな回答が脳内に浮かび始めた。
テーブル端のスマートフォンに目をやった。レモンイエローが相も変わらず輝いている。
「私も明るい色の服を着たのが見たいな。あんまり着ていた記憶ないし」
「俺が、か」
「似合うと思うんだけどな。それかペイズリー柄のパンツとか。ペイズリーじゃなくてもいいけど」
「柄が入ったズボンってことか? あれってチャラいイメージがあるぞ」
「偏見だよ、それ」
ジトっとねめつければ叶大君は気まずそうに目を逸らした。
「というか高校の制服だって夏服はチェック柄のスラックスだったじゃん。結構似合ってたし、せっかくだから私服でも試してみない?」
「お、おう」と頬を染めコーヒーフロートをまたくるくるとかき混ぜる。叶大君の視線はさっきの私みたいに自分の太腿に向かっていた。
「わかった。じゃあ俺が柄がプリントされたズボンで、上のシャツは明るい色……でいいか」
「上はパステルカラーにしよう。私は上は袖がふわふわしたブラウスで、スカートは長めのふわっとしたレモンイエロー」
「別に黄色じゃなくてもいい。ピンクでも水色でも薄紫でも、チョコミントみたいな色でも。逆にスカートが白でブラウスが明るい色でもいいさ」
「もしかして……白、好き?」
ウエディングドレスだの白無垢だの言うのは気障ったらしいと吐き捨てた顔がまた朱に染まる。わざとらしく咳払いをしてごねるような声が唇から漏れ出した。
「六年間、ブレザーの下は白いブラウスだっただろ。馴染みがあるし似合っていた」
「照れた方がいいの、それ」
悪戯っぽく笑めば舌打ちをされた。
「それを聞く時点で照れてないだろうが」
「あ、バレた」
叶大君が盛大な溜め息をつき、テーブルの上のくしゃくしゃのストロー包み紙が吹き飛ぶ。慌ててキャッチをすれば今度はハッと鼻で笑っていた。
「アンタの息で飛んだんじゃない」
「悪い。……千花、それは後どれくらいで飲み終わりそうだ?」
指差されたクリームソーダはまだ半分以上残っていた。一方で叶大君のコーヒーフロートが入っていたはずのグラスは溶けかかった氷だけとなっている。いつの間に。
「ごめん。飲むの遅かった?」
「いや、俺が一気に飲んだだけだから気にすんな。でも」
叶大君がにんまりと口元を緩めた。
「それ飲み終わったら駅前戻って早速センター行こうぜ。一緒に服、選んで明日着よう」
ギュッと吸い込んだクリームソーダが口内で大きくぱちりと弾けた。