6-3 理不尽に最期まで抗って
「ぐうう……」
自分のとは思えないしゃがれた声が喉から飛び出す。腹はメモ帳で守ってたのに。堪らず膝をつけば椅子が飛ばされ顔面を床に強打した。鼻血は出ていないみたいだが、ぶつけた前歯が痺れていて口内に鉄の味がする。飲み込もうとした途端、両肩を掴まれ腹にすさまじい勢いで重い何かが飛び乗った。血と唾が混ざった粘液が飛び、「汚いなぁ」と苦笑された。
「みずっ……っはらくん……」
「ようやく捕まえた。急に蹲ってびっくりしたけれど……良かったな」
水原君が血を拭っている間に有象無象の怪異達が多種多様な足音を奏でながら近づいてきて私と水原君に影を落とす。隣には先ほど昏倒させた落ち武者や映画に出てきそうな洋装を着た吸血鬼が倒れていた。
影の中に口が三つある巨大な針鼠を確認した。あの棘かと舌打ちしながら私は酷く冷静に周囲を見渡していた。
背中の一カ所が熱く、シャツの濡れている部分が広がっていく。馬乗りになった水原君が骨と皮だけの手にさっき蹴り飛ばしたはずのカッターナイフを握りしめていた。見下ろされているのに透明な膜が張られているようで眼窩から大量の歯は落ちてこない。臼歯に犬歯と無数の歯と対面させられ目眩がした。
怪異達の笑い声が戻ってくる。轟音となり、狭い会議室に響き渡る。口がある怪異はその端を思い切りつり上げていた。目がある怪異は三日月の形をしてその瞳に侮蔑と悦楽の光を宿して私を見つめていた。
不意に冷たさを感じて視線を下に落とせば金本君が両脛をその手で押さえつけていた。右手を月川さん、左手を日渡さん。Y字の形に床に縫いつけられ動けない。それでも身体を捻れば激痛が走り、呻き声が漏れた。
怪異が爆笑する。悔しさで涙が滲む。
「本当は付き合ってからヤりたかったんだけど」
「やだぁ。直接的ぃ」
「一回記念にしておくか?」
「無理やりそんなことしちゃ駄目だろ」
「殺すのに? そこだけは分別があるんだ」
下劣な会話に反吐が出そうだ。けれど、出たのは荒い息だけで口の端から血と唾液が漏れていった。
水原君が腹に仕込んだメモ帳を投げ捨て、むき出しの皮膚をねっとりと撫でた。触れられた箇所から鳥肌が立ち寒気がした。
「でも内臓を見るってヤるより心から強く繋がった感じがしない? だって中身を見てるんだよ。気持ち悪いところをさ。俺、今までで一番愛を感じてるかも」
ドッと四人と怪異達が笑う。
「くそ……が……」
「くそだって。下品ー」
自然に口から出た暴言は馬鹿にされて終わった。笑い声が反響して更に大きくなる。そして。
ピタリと、全員が口を閉ざし静けさに支配される。私の荒い息だけが響き、滑稽だった。
「時間もないからやりますか」
カチ、カチ、と水原君の指先が滑りカッターナイフの刃がじわじわと顔を出す。私の荒い息とカッターナイフから刃が出る音が重なった。
「相沢さん本当にごめん。でも俺達が助かるためだから。一人より四人の命でしょう。それに」
不思議と死の恐怖はなかった。それよりも大きな悔しさに心が支配され切っていた。
悔しい、こんなところで。こんな奴等に馬鹿にされて。許せない、許せない──!
化け物の顔で水原君が柔らかく醜く微笑んだ。
「相沢さんは優しいから許してくれると思っているよ。さっきのだって僕らが罪悪感を抱かないためにわざと錯乱した振りをしてくれたんだろう? そんなところが好きなんだ」
「暴、力……を! 愛に、すげ替える、んじゃない!」
カッとなった頭がそのまま言葉を発し、身体に力を与えた。必死で身じろぐ度に背中に激痛が走るか知ったことか。ここで死ぬとしても簡単になんか死んでやるもんか。
「おい、ちゃんと押さえておけよ!」
きっと水原は残りの三人に言ったのだろう。でも飛びかかってきたのは周囲の怪異達だった。顔面に何かが乗り目の前が真っ暗になる。身体の至るところに鈍い痛みが刺さっていく。
むき出しの腹に冷たく尖った感触がした、その時だった。
「すみませーん。ここって会議室Aですよね? ここ、他の人が予約していて、民俗学基礎の人は隣の……」
ドアノブの音の後、呑気な声がした。瞬間、パンパンパンと激しい破裂音が大量にして身体中の重圧が解けていく。そして顔の上の何かが消え、目を開ければ目映い光にもう一度瞼を下ろすこととなる。
というか、ドアノブの回る音?
疑問を消化する間もなく破裂音が響く。それから多くの悲鳴が。見なければならない──! 瞼を無理やりにでも上げればそのまま身体を強張らせることとなった。
怪異達が爆発し、光の粒となり消えていく。恐怖に歪んだ顔も逃げようと足をもつれさせた奴も皆破裂し、輝きの一部となる。
全てが、理不尽な暴力と呪いの化身達が一斉に消えていく。
「花火……」
漏れた言葉は今度はしゃがれてはいなかった。いつもの私の声。そして今の声の方を見たかったが、水原の筋肉質な巨体が邪魔をしている。金髪の下の脂ぎった顔が驚愕に固まっていた。
え?
水原が慌てて私から降りる。金本も、月川も日渡も全員、後ずさりをして私から離れていった。その顔は恐怖に歪み身体は震え、そして元の姿に戻っていた。
不意に光が目に飛び込んできて首を捻る。カーテンの隙間から日光が漏れて私を照らしていた。
戻ってきていた、大学の図書室の会議室に私達五人は“人間の姿”で戻されていた。
──ああ。帰ってこられた。
全身の緊張が解け、もう指一本動かせない。日の光に照らされて、私は意識を手放した。