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近場千花は怪異に気づけない  作者: 高崎まさき
2.泥濘の赤い綱
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6-2 死闘

「お断りよ」

 声が震えていた。でも吐く息も言葉も熱を帯びている。

「は?」

「あなた達に何で従っていたかわかる? それが一番安全だったからよ。民俗学の講義を受けながらあなた達の害しかない行動には巻き込まれない。最善じゃないけど、それが一番自分の身を守りながら目的を果たせた。それだけよ。調子に乗らないで。どうでもいい人達にかける時間なんかない」

 椅子を持ち上げ構える。そうすれば笑みを浮かべてばかりの怪異達に動揺が広がった。

「結局アンタも自分のことしか考えてないじゃないの。水原、こんな女でいいの」

「勝手に幻滅してなさい。人を見下さなきゃやってられなかったという点ではあなた達と一緒で構わない」

 指示だけ出して裏で煙草を吸ってサボるばかりのバイト先の先輩。下ネタばかり言って人気を集めようとする高校時代の塾講師。目の前の四人。内心馬鹿にして、距離を取っていた。

 きっと理想は誰とでも対等に接することなのだろう。求められた手に向き合って取るにしても振り払うにしても誠実に対応するのが正しい繋がりなのだろう。でも、残念ながら私はそこまで器用にも真面目にも生きられない。自分が嫌いな相手と向き合ってすり減るくらいなら心の中で罵りながら背を向け去るのを選ぶ。私が、私を一番に大切にしたいので。

 だから私を殺して生き残ろうとする点と“誰かより自分の方が上だと必死に思い込もうとしていた”点についてはこの四人を責める気にはならなかった。その他全ては自業自得だとしても。

「でもね」

 何をすれば生き残れるのか。この閉じ込められた会議室から未知を知るために通う大学に帰れるのか確信はなかった。無駄かもしれない、腸を全部引きずり出されて恐怖と激痛に飲まれて馬鹿にされながら死ぬのかもしれない。

 考えれば考えるほど手が震える。汗で滑りそうな手のひらにもう一度力を入れ直す。

 腹の底が熱い。脳も熱を帯びて恐怖の全てを上書きしていく。右足で床を踏みしめる。

「私はあなた達みたいに楽しむために人を傷つけようとはしない! 月川さんを騙して恋を嘲笑ったり、何股もして縋ってきた女の子を蹴ったり、人を自分のアクセサリー扱いにしたり、監視して弱みを握ったり……」

 何よりも。

「人が死ぬ姿を見て楽しんだりはしないんだよ!」

 長い手に椅子をへし折るつもりで叩きつけた。どこからか悲鳴が上がり、怪異の群れに引っ込んでいく。それだけ確認しそのまま椅子を天に掲げた。

 床を蹴って前へ。その重みを全力で月川さんと日渡さんの間に叩きつける。二頭身の老婆の顔に流行りのマスコットキャラクターの身体が縫いつけられた化け物が悲鳴を上げて避ける。逃がすかとそのまま身体を捻り横へと椅子をなぎ払った。

 滲んだ涙が宙を舞い、汗ばんで張りついたシャツが皮膚から剥がれ肩に冷たい空気が入り込む。呻き声と両手に重みがかかったのは同時で一瞬の後悔を食いしばった歯でかみ砕き、振り抜く。

 二頭身の老婆と枝を覆う葉のように血塗れのお札が垂れ下がった怪異が吹き飛び、机の角にその身体をぶつけた。日渡さんのブロック状の身体の腹部の繋ぎ目がずれ、段ボールを破ったみたいな音がした。月川さんが腰を鱗まみれの手で押さえ、仰向けに倒れていた。

 暴力を振るった。肩に重しを乗せられたような暗い感情に飲み込まれそうになる。腹の底の熱さでも消せないそれを抱えたまま私は腰を落とし息を吸った。

 私の突然の暴虐に怪異達は呆然とした空気に包まれ、動きをほんの数秒だが止めていた。耳障りな笑い声が消え、静寂がその場を僅かな時間だが支配していた。

「あっ……相沢ちゃんどうして」

 水原君の声が合図となり、怪異達は再び喧しく妙な音をそれぞれ立て出す。歓喜でも優越感でも嘲笑でもない低く憎悪に満ちた感情だった。ふざけるな、やり返されると思ってなかったのか。自分達が常に上だと驕っていたのか。

 ガヤガヤガヤと音が私を中心に波状に広がっていく。怪異が吠える。それが合図だった。

 黄色の茨の塊と人間と馬の足が無数に生えた球体が天井近くまで浮き私に落下してくる。息と共に私も叫び声を吐き出し、椅子を頭上で思い切り振った。茨と球体が天井にぶつかった途端、酸っぱい臭いのする青い液体を滴らせた。即座に避け、掴みかかってきた巨大な百足を両腕につけた一つ目の化け物の目に椅子の脚を刺しこめば、生温い液体が頬にかかる。拭う暇はない。金切り声をあげながら激痛で目を押さえる化け物の頭部を更に殴打し、振り返った。

 眼前に緑のドレスを着たビスクドール。迷っている暇はない──! 顎を天に突き出し、そのままお辞儀をするように頭突きをかませば砕ける音。赤ん坊の泣き声が響き、顔半分が割れたビスクドールが床を這いつくばり逃げていった。

「何をしているんだ!」

 水原君が呼吸を荒くして突進してくる。私の呼吸はもっと荒かった。吐く息が熱湯のようで、脳がガンガンと痛みを訴えている。幼い頃インフルエンザにかかった時、こんな感じだったかもしれない。眉を下げた母が醤油を数滴垂らしただけのお粥をスプーンで掬い私の口に運ぶ。まずいと息も絶え絶えに訴えれば「治ったらカレーを作ってあげるから」と柔らかく笑っていた記憶が僅かにあった。今は必要ない記憶だと首を振り、椅子も振る。汗がどばどばと滴り、床に点を作っていく。手も足も震えている。腹の底からの熱と衝動と肩にのしかかる暗い重さがアクセルとブレーキのように私を苛んでいた。熱い、痛い。思いのまま叫んだ。

「殺されたくない! 死にたくない!」

「ああ、それは俺も同じだよ!」

「だから、“私に殺されたくなかったら”とっとと五人全員を元の会議室に戻せ! 怪異共!」

「怪異? 何を言ってるんだよ! ここには俺ら五人しかいないじゃないか!」

「いい加減現実を見なさい! 気づきなさいよ、馬鹿!」

 導き出した答えは脅迫だった。暴力で怪異達をねじ伏せ、二度と私を害さないようにする。最低の選択に舌打ちが出るが、それ以外の方法が何も浮かばなかった。解けない呪いと脱出不可能な部屋。享楽のために殺そうとしてくる説得できそうもない怪異達。自らの、そして周囲の変化に気づかない四人。椅子を握りしめ、暴力に手を染めるしかないのだ。

「俺が女の腹を蹴ったのが何だって」

 金本君が粘液を引きずりながら突撃してくる。避ければ壁に衝突し人型の緑色の染みがついた。すかさず灰色のロングコートを着ている二メートルほどの身長の奴の長い手が伸びてくる。その手にカッターが握りしめられているのを目視し、払い飛ばし落ちたカッターを部屋の端へ蹴り飛ばした。

「お前だって、お前だって暴力に訴えてるじゃないか!」

「そうよ。否定はしない。あなたと同じよ! 今暴力で解決しようとしているのも!」

 椅子で怪異を殴る。鈍い感触があったり、絶叫が鼓膜を大きく震わせた。表情、なんてものが判別できない見た目の怪異も──そもそも顔があるかわからないやつもいた──多いがそれでもたじろいでいるのがわかった。私が反撃すると本当に考えもしていなかったのか。腹の熱が増し、増した事実で肩が重く手を止めようと訴えてくる。鼻の奥のツンとした痛みに何だか笑ってしまいそうになったが、絶対に笑ってなるものかと奥歯を更に強く噛みしめた。

 許せなかった。いたずらに人を傷つけるこいつらが。自分のことを上だと信じて、下を踏みにじり嘲笑うその行いが。

 四人も、怪異も。いや、私にとっては理不尽に自分の命を奪おうとしている怪異の方が腹立たしい!

 沸き上がった怒りは私に抵抗という勇気をくれた。死にたくない。心も身体も、踏みにじられてなるものか。怒りは力となり、目の前のこいつらに振るわれる。金属音がして足が鉈になっている化け物が倒れた。位置取りを変えた方がいい。倒れた怪異達で足の踏み場がそろそろなくなっていた。膝下くらいの大きさの目玉の集合体に目をつける。獣のような雄叫びを上げ、突撃し蹴り上げた。ぎょっとした残りの目玉の前で地団駄を踏み、僅かな道を作るとそのまま走り窓際へと抜けた。

「相沢がおかしくなっちゃった!」

「早く押さえつけて腸を出した方がいい」

 四人からすれば虚空に向かって椅子を振り回し、暴れている異常者なのだろう。それでいい。小さく吐いた息はやはり熱い。怒りの燃料で身体中の感覚が鈍くなっていた。痛みを訴えても可笑しくない腕は問題なく椅子を握りしめ暴力に肯定的だし、何度か岩のように固い怪異を蹴り飛ばした脛も膝もバネでも入っているんじゃないかってくらい軽やかだ。まだ、戦える。まだ生きている。沸き上がってくるのは何も怒りだけじゃない。歯をむき出しにして作りかけた笑みをまた押さえる。それだけはいけないと、何度も何度も私自身の心を殴った。

「可笑しいんじゃないの? 一人の犠牲で四人が助かるのよ?」

「いつもあんなに優しかったのに! こんな、殴ってきて……」

「うるさい!」

 一方で同時にのしかかってきたのは罪悪感だ。私の行ないは正当防衛だと言い訳はしたい。でもやってることはただの暴力で、床にはその“被害者”が死屍累々と転がっている。本来取ってはならない手段を行使し、他者を服従させようとしていた。怪異を殴る度に肩が重く胸の奥に痛みが走る。ゾッとするような薄暗い闇に足下から沈められそうな、息が止まりそうな気持ちに支配された。

「自分に都合の良いことを優しいって呼ばないで!」

 正論を吐き出し、正しくなんかない暴力を振るう。だって、正論を口にしなきゃ恐怖に飲まれそうだった。

 目の前の理不尽な怪異じゃない、人を傷つけることに鈍感な四人でもない。何よりも自分が恐ろしかった。

 椅子を振り回すのは楽しい。自分を下に見ていた怪異が倒れていくのに高揚する。笑みがこぼれてしまいそうなくらい。

 そんな自分の膨張する感情が恐ろしかった。他者を見下して自分が上と主張して踏みにじる、それを肯定しそうになる部分が自分にも眠っていた事実に身体が震え、汗が滴った。

 決して笑うもんか、楽しむもんか。五十歩百歩だろうとそこだけは譲れない。人を見下そうとも、内心馬鹿にしようとも表には出さない。人を快楽のために傷つけたりはしない。心に留めておくのと行動するのじゃ雲泥の差がある。

 その境界だけは守りたかった。プライドとか矜持だとかそんな格好つけた話ではない。自分が心まで化け物にならないための、自分が自分でいるための細い生命線だったのだ。

 怒りと罪悪感が混ざりせめぎ合い、喜悦が生まれ否定する。ぐちゃぐちゃになった感情のまま、私は生き残るために暴力を公使し続ける。ぐらぐらする頭を振り乱して、前髪が額に張りついた。

 突如。背中に激痛が走り、前のめりに倒れかかる。椅子で身体を支えて片手で背中を擦れば生ぬるい感触と尖った何か。無理やり引っ張れば灰色のボールペンくらいのサイズの棘が真っ赤に染まっていた。

 しまった、と後悔した時には遅かった。

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