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0-2 温かな日差しに照らされた電車の中で

 ゴトン、ゴトンと電車が揺れている。温かい日差しが車内を昼寝日和の温度にしてくれていた。

 ぼんやりとした頭を振り、慌てて意識を覚醒させる。車内の蛍光板に表示された駅名を見ればあと自宅まで三駅だとわかった。

 乗り越してなかった。随分と熟睡していたから慌ててしまったけども。

「お兄さん」

 少年がすくりと立ち上がりランドセルを背負う。連絡袋にはもう「世界のお菓子」が詰め込まれていた。

「どうしたの?」

「ありがとうございました」

 これ、と黄色い連絡袋を持ち上げる。随分と律儀な子だなと驚きながら「気にすんな」とだけ笑い返した。

 鈍行電車がゆっくり止まり、扉が開く。僕に軽い会釈をして温かい日差しに満ちたホームへと下りていった。

 さて。

 僕は抱えたリュックサックを抱きしめ顎をその天辺に乗せる。はあ、と大きく溜め息をついた。

 さっきの夢じゃないよな? でも夢の方が現実的だよな。

 非科学の極み、荒唐無稽。他人から告白されたら絶対に信じないだろう。殴られたはずの頬も刺された足首も全く痛くないし外傷もない。僕の頬に残っているのといえばリュックサックの取っ手を長時間押し続けたせいでできた跡くらいである。

 それでもあれは夢じゃないと理解してしまっていた。理屈では証明できないけれど、僕とさっきの少年は化け物に襲われ、そして。

 ちらりと横を見る。二つ右の座席に先程の男女が並んで座っていた。

 僕は彼女に助けられたのだ。一体何が起こったのか。あるいは彼女自身助けた自覚がないのかもしれないが事実だった。

 でも、証明もできなければ現実でなかった方が幸せでもある。僕はどうすればいいんだ。

 もやもやとした感覚を鳩尾あたりで持て余している。ギュッとリュックサックを更に抱きしめ、また深く息を吐く。すると。

 男性の方が立ち上がり、女性に何かを告げていた。そうしてなんと男性だけがこちらに向かってきたではないか。

 ちらちら見てたのが不快だったのかもしれない。うん、素直に謝ろう。この車両には今、僕とあの男女しかいない。だから男性が向かっているのは間違いなく僕なのである。

 近づいてくれば一層背が高いと思った。背が高いというかガタイが良い、の方が正しい。それから人を外見で判断するのは悪しき行ないだが、所謂強面で少し怖い。カーキ色のシャツに黒のパンツを履いたその男性が「少しいいか」と低い声を発した。「はい」と返せば足を必要以上に広げたりせずに深く腰を下ろす。太腿一本分くらいの間隔を開けて僕達は空いている車両の中で何故か隣り合っていた。

「あの、じろじろ見て嫌な気持ちになりましたよね。それなら」

「違う。いや、正確には『じろじろ見たくなるのはわかるから気にしていない』だな」

 え、と目を瞬かせれば声を潜めて「あいつには聞かれたくない。小声で話せ」と真剣な面持ちで頼まれる。断る理由もないので了承の意を伝えれば、いきなり大声を出しそうな衝撃を与えてきた。

「蛸の化け物に殺されかかっていただろ。あれは現実……正確にはそういう化け物に現実とは異なる空間に連れ込まれていたが正しいんだが、まあ現実だ。アンタの身に降りかかった災難だったのは事実だ」

 目を飛び出しそうなくらい丸くして僕はただ頷く。その反応を見て少しホッとしたように頬を緩ませた男性はそのまま続けた。

「よく悪霊だとか妖怪だとか怪異だとか。そういう“怖い話”で出てくる奴等いるだろ? それがマジに存在していて今回たまたま通りかかったところにアンタらがいたから襲われた……そういう認識で大丈夫だ。理不尽で非科学的でまだ夢を見ているかと思うかもしれないが、俺からはそれしか言えない。忘れたかったら今日のことは俺がここから立ち去ったら白昼夢として忘れろ。それか妙な悪徳霊感商法に絡まれたと思え」

「信じます。その……証明はできませんが実感としてあれが現実だとは思っているので」

「そうか。じゃあ俺から伝えたいのは二つ、だな」

 指を二本、男性は立てた。そして人差し指だけにして更に続けた。

「まず一つ目。……さっき下車した子どもだが、もう安心だ。というかアンタのお陰で助かったんだ。アンタが殴りかかって時間を稼いだから喰われずに済んだ。見ず知らずの子だろ? 純粋に尊敬する」

「は?」

「聞こえなかったのか。俺はアンタの行ないを」

「聞こ……えてます」

 思わず声を張ろうとして寸でのところで踏み止まった。男性は不安気な顔を一瞬だけ作って腕を組んだ。

「でも、僕そんな偉い人間じゃないですよ。正直あの子のこと途中まで見捨てようとしてましたし」

「ほう」

「少なくともあの子が食べられている間は自分が生きていられると考えました。それに仮にあの蛸の化け物が『子どもを俺に捧げたらお前の命は助けてやる』って言ってきたらそうしてたと思います」

「それが普通だろ。誰だって自分の命が大切だ」

「それに何で自分でも動いたのかよくわかってないんです。気がついたら無性に腹が立って、それで」

 「殴りかかった、と」と言われ、首肯した。

「……罪悪感を持つなよ」

 心の奥底の感情を見抜かれ身体を強張らせていれば背もたれが揺れる。男性が少し乱暴に体重を預けたからだ。

「いいか。どんな人間でも生命の危機に晒せれれば平常時から見れば醜い感情を抱き、あるいは行動を取る。よく本性が出るとか下らない“高説”を垂れる馬鹿がいるが大間違いで、非常事態の自己を守るための行動を卑下する必要は全くないんだ。高潔に振舞える奴もいるが、それはそいつが凄いだけで例外だ。その例外への憧れは俺もあるが……とにかく」

 淡々と、それでも優しさが滲んだ声だった。

「悪いのはむしろ他者を命の危機に晒す奴だけだ。それだけはどんな時も間違いない。それにお前はどんな感情があったとしても例外側の行動を取り、そのお陰で一人の命を救った。……凄い奴だと、誇っていいだろ」

「なんか、その照れ臭いんですが」

 顔が朱に染まっているのがわかる。強面のはずの顔が穏やかに見下ろしてくるものだから思わずリュックサックに顔を埋める。

 そうか、僕、頑張ったのか。目頭が熱くなってきて、何だかようやく息を吸えたような感覚に襲われた。息を吸って、吐く。生きて戻ってこれた、そして名も知らない一人の人間を助けられた。

「ありがとうございます。……でも」

「ん? まだ不要に落ち込んでいるのか」

「違いますよ。二つ目の話。何となくですがわかるんです」

 非日常に襲われた現状の説明と僕の心のケアをこの人はしてくれた。でも、あえて触れていない核心部分が存在していた。

「僕はあなたの言うとおり“時間稼ぎ”しかできなかったんです。ああ、別に自分を卑下しているんじゃなく、事実としての話をしてくれるんでしょう」

 ここまで僕を褒めてくれているのにも関わらず、彼は一点だけ譲らなかった。

 時間稼ぎ。僕が殴った一撃があの化け物に対する致命傷になったのではなく、あくまでも“何か”に対する時間稼ぎだとそう言ったのだ。事実そうなのは理解している。だからこそ。

 ちらっと遠くの席に座る女性に視線をやる。つまらなそうにスマートフォンを見ていた。

 男性がぐっと僕の耳元に顔を寄せる。初対面の人間にされたら拒む行為だが、今回は別だ。そして一層小さな声で囁くように呟いた。

「そういう体質なんだ、昔からあいつ」

 その声に悲しさが込められていて、僕は息を呑んだ。

「悪霊だとか妖怪だとか怪異だとか。人間を襲う邪悪な奴等を近寄っただけで爆発させ光に変え倒しちまう。あいつらが張った結界も問答無用で破壊して侵入してしまうんだ」

「知っているんですか?」

「おそらくアンタが想像しているとおりだ。あいつは何も知らない。自分がいるだけで怪異を倒しているなんて考えもしないだろうな」

 やっぱりと合点がいってしまう。彼女が世間話をしながら閉ざされていた車両に侵入してきたこと、その瞬間から電車や窓の外が元通りになり蛸の化け物が苦しみ始めたこと、今僕と話しているのがあの人ではなく目の前の男性なこと──不思議に思っていたことに説明がついてしまうのだ。

「あいつは悪霊が見えもしないし、感じとれもしない。大抵の人間と同じように『お化けが存在するのかわからないけど、殆どの心霊スポットは嘘だと信じて生きているし、怪談話にはトリックがあると思って』いる。だから知らない方がいいと思って黙っている。でだ。俺が言いたいのは」

「言いませんよ。言う機会もない気がしますが」

 顔が耳元から離れていく。切れ長の瞳が少し大きく見開かれていた。

「大丈夫です。誰にも言わないで生きていきます。あ、僕次の駅で降りますので」

 停まっていた電車が発車し、アナウンスが流れる。もうすぐ長い帰り道も終わりを告げるのだ。

 男性は少し困った顔をして組んでいた腕を崩す。こめかみを押さえながら「あー」と唸り出した。

「お礼を言えないのはちょっと申し訳ないですが、代わりにあなたに」

「実を言うと、俺は」

「はい」

 罪悪感に塗れた声だと、僕は苦笑した。

「アンタが余計なこと言いそうだったら困るから釘を刺しにきたんだ」

「なんとなくそんな気がしてました」

「でも、見ず知らずの子どもを助けに行ったのを尊敬してるのは本当だ。俺は絶対にしないからな」

 電車がゆっくりと止まる。そうして両開きのドアが開いた。

 眩い日光にホームは照らされていた。屋根をつければいいのにとずっと思っているが今日は別だ。

「それでは、ありがとうございました」

「ああ。こちらこそ」

「ちなみにアンタのことは前にバイト先の店によく来ていた人ってことになってるから」

「わかりました」

 そうあの女性に説明したのか。僕は何だか可笑しくて笑ってしまった。男性が緩く手を振る。僕も振り返していれば扉が閉まった。

「大変な一日だったな……」

 まだ昼前だというのに一日中講義があった夕方のような感想が漏れる。それでも清々しい気持ちに包まれて、僕は全く痛くない右足を踏み出す。

 不思議な体験だったと思う。

 ホームを歩きながら考えるのはやはりあの二人のことだ。友人なのか血縁なのか、恋人なのか。結局何も解らず仕舞いで、でもそれで良かった。

 男性が何故“悪霊だとか妖怪だとか怪異だとか”の事情に詳しいのか。彼女が何故あんな力を持っているのか。それを何故男性の方は知っているのか。そして何故あんなにも女性の方を守ろうとしているのか。

 尽きない疑問が脳を転がり支配する。でも答えは出ないのだろう。

 ゆっくりと深呼吸をする。息を吸って、そして疑問と一緒に空気を吐き出した。

 ──これでいい。

 そうしたら残るのはちょっとだけ頑張った自分と、いつものちょっと忙しくて地続きな日常だ。両手を天に突き出し、伸びをする。眠気もすっかり覚めてしまった身体で改札に向かう。

 どうかあの少年も、男性も僕を助けてくれた女性もこの温かい日のように過ごせますように。そんなことをカッコつけて願ってみた。

 よく晴れた穏やかな日差しが温かい日のことだった。


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