6-4 光の巨人
タッタッタ、と湿った柔らかな床ではなく、フローリングをパンプスで蹴るようなそんな足音が耳元で鳴った。
大蛇がビクリと身体を震わせ、締めつけが緩む。女達の愉快そうな奇声が途端、騒めきに変わり、そして絶叫となった。
「なっ……!」
ぼんやりとした意識が瞬時に覚醒し全身の激痛を思い出す。外れたのは左肩の関節なようでのたうち回りたかった。「あああ!」を堪え切れない悲鳴を上げながら、キョロキョロと回りを見渡す。何が、起きている?
──か。……し……ん……。
途切れ途切れながらも聞き覚えのある音がたしかにこの空間に響いた。
「一体……」
何だ、何だよ! 激痛と混乱でとにかく動く首だけをせわしなく左右に振る。すると身体が激しく揺れ、重力に逆らう感覚がした。俺ではなく大蛇が揺れている。いや震えていた。大蛇もその“首”を激しく振り乱し、同時に女達は更に絶叫する。視界に入った無数の顔は全て恐怖に歪み青ざめていた。
──だ……か。ど……し……ん……か。
途切れ途切れの切羽詰まった音が響けばまた大蛇が震え、何人かの女が遂に涙を流し始める。そして、全身が解放感に包まれ、視界が天井から遠ざかっていき、ビシャと背中に冷たい感触が広がる。落とされた──解放された喜びよりも困惑と激痛が強い。何が、何が起きている? 痛みを訴える背中が、正確には床が弾み、仰向けに捨て置かれた俺の身体が揺さぶられる。首だけ何とか上げれば、ズリズリと凄まじいスピードで大蛇が床を這い、俺なんかどうでもいいと云わんばかりに壁に突進する姿が確認できた。
──だい……すか。どうし……ん……すか。
音……違う。声だった。聞き覚えのある声が肉でできたこの空間を今や支配していた。大蛇は一心不乱に肉でできた壁にその身体で何度も体当たりを喰らわせている。鈍い打撃音の中に女達の泣き叫びやすすり泣く声が混ざっていた。逃げようとしている。まさかこの声から? でも何故。
──だい……う……ですか。どうし……ん……か。
視界が光に包まれ俺は思わずギュッと瞼を下ろす。女達が「ギャア!」と悲鳴を上げた。
──だいじょうぶですか。どうし……ん……か。
大丈夫ですか? はっきりと言語として認識すればようやく思い出す。あの女──チカの切羽詰まった呼びかけだと俺は気づいて恐る恐る目を開けた。
「巨人?」
眩い光の大蛇と同じくらいの身長の巨人が大蛇とは反対側の壁の近くに立っていた。目や鼻といったパーツは確認できない。ただ大きな人の形をした眩い光の塊がそこに猫背気味に立っている。大蛇が一瞬振り返り、慌てて身体全体での壁へのタックルを繰り返す。女達もただ泣き声を上げるばかりだった。もはや俺のことなどどうでもいいのかもしれない。
いい気味だとは思えなかった。むしろ命は繋がったものの恐怖の代わりに困惑に支配されていたからだ。呆気に取られている俺はただその巨人と大蛇を交互に見ながら、全身の激痛に耐えていた。
恨みという理由があった方がまだ思考が働いていた。何故あの不快なカップルの片割れの声が。そして光の巨人が。大量の疑問に思考が潰されていた。
そんな俺を他所に巨人がゆっくりと歩き出した。
──だいじょうぶですか。どうし……ん……か。
──だいじょうぶですか。どうし……ん……か。
大股開きで俺や大蛇の方に近づいてくる。輝きが増し、俺のボロボロの身体を、肉の空間を、女達で構成された大蛇を照らしていく。
何かが焼ける音がして、巨人の足元を見れば通った場所から水気が蒸発していた。
──だいじょうぶですか。どうしたん……か。
不思議と眩い光を直視できていた。気がつけばまた視界が滲んで、目尻から温かいものが流れていく。
これは大丈夫なものだ。自然に俺はそう信じ込んでいた。トクン、トクンと心臓が高鳴る。痛みが和らぎ何か別の温かいものが身体中を駆け巡り、胸の奥が痛いような心地良いようなそんな気持ちを抱いた。畏怖、崇拝。そういった気持ちをこの光の巨人に抱き始めていた。
──だいじょうぶですか。どうしたん……か。
一歩、一歩と俺達の方へ歩いてくる。恍惚としていれば反対方向から「がああ」と耳障りな絶叫と共に破裂音がした。
振り返れば蛇の尾が、そこにいた女達が軽快な音を立てて端から透明になり、そして桜吹雪のように白い粒子となり舞う。俺が目を凝らせば腹にいたおそらく新子の顔が端からうっすらと透明になり、破裂音と共に粒子となる。きらきらと大蛇が輝いているようで、不気味を通り越して滑稽だった。
──だいじょうぶですか。どうしたん……すか。
大蛇の身体が、憎悪に囚われた女達が光となる。ふと鼻をひくつかせば錆びた匂いも消え去っていた。胴体部分が消え、日毬も粒子となる。その頃には巨人は俺から後一歩までの距離に来ていた。
「夕衣」
首だけになった大蛇が藻掻いている。その中央右に夕衣の顔があり、必死の形相で俺を睨みつけていた。最期までお前はそうなのか。いっそ憐れみすら覚えてきた。
「謝っただろ」
謝られたら許してやれと習わなかったのか、お前は。今度は俺だと嘲笑えばほんの少しだけ溜飲が下がった気がした。
一層光が輝く。光の巨人が俺の隣に遂に立っていた。
──だいじょうぶですか。どうしたんですか。
どうしたんですかって何だよ、もう。
「大丈夫なわけないだろ! 助けてくれ!」
光の巨人が屈み、俺の手を取る。視界全てが真っ白に染まり、遠くで夕衣の悲鳴がした。




