6-3 大蛇
「うわあああ!」
大蛇の身体には至る所に凹凸があった。スカートから伸びる両脚。ダメージジーンズからはみ出る肉。様々な顔、顔、顔。それが湿った布でつぎはぎのように繋がれて鱗代わりになっている。逆さになり右足首が飛び出て、左足の“服”が隣の女のタートルネックとくっついていた。寝そべるように大蛇の腹回りを構成する女の服が周囲の四肢や首と繋がっている。腹の服の部分が捻じれてできた空間から別の女の頭部が飛び出していた。
尾から頭部まで女の身体が不自然に捻じれ、歪み、繋ぎ合わされ構成されている。
そして全ての顔が外を向いていた。水浸しになり、瞬きをし、それが普通であると云わんばかりに大口を開けケラケラと笑っていた。
体表の瘤──女の顔が一斉に捻じれ俺の方を向く。視線が俺を捉え、それぞれの目が三日月型に歪んだ。
俺を狙っていた。全ての瞳が憎悪に染まっていた。
すると巨体からは想像もできない速さで首が振り下ろされる。それと咆哮の代わりに全ての女がとんでもない声量で奇声を上げた。耳を押さえる間もなく俺は必死で飛びのき、また顔からべちゃりと音を立てて着地する。
ふらつきながら鼻血を拭い、目を凝らす。案の定俺のいた場所に大蛇は首を叩きつけていた。糸を引きながら大蛇の首がまた持ち上がる。蛇の腹側──下敷きになった女達も皆“原型”を留めていて俺を睨みつけていた。
蛇に睨まれた蛙。そんな単語が脳裏を掠める。大きな影が俺を覆い、女達がまた奇声を上げる。
真っ赤な内臓のような肉でできた空間に俺は大蛇と閉じ込められている。そして目の前の悍ましい大蛇は明確に俺を憎み、攻撃してきた。つまり──
半開きの口の端から涎が垂れた。と、同時に「嫌だ……」と勝手に口が動いていた。
大蛇を見上げたまま、立ち尽くす。
これからどうなる? 思考能力だけは僅かに生きていて、当然の未来を導こうとしていた。
嫌だ。
全てを捨てその場に蹲ろうとすれば視界の端にみすぼらしい黒い布が留まる。いつの間にか肩からずり落ちていたショルダーバッグで、粉々になったスマートフォンがはみ出していた。
嫌だ、嫌だ!
瞬きを一度すれば妄想が更新される。大蛇に潰され、骨が砕け粉々になる。大蛇は嗤いながら何度も、何度もその身体を上下させる。すり潰すように身体をローリングさせ、床から離れれば、床の肉と一体化した俺がいた。俺だった何かがそこで朽ち果てていた。
堰き止めていた濁流に近い感情が遂に破裂した。
「嫌だああ!」
「ああ」だとか「うえああ」だとか無理やり表せばそんな声になる叫びが喉から絞り出された。床を必死に蹴って距離を取ろうとする。
死にたくない、死にたくない──!
妙な音を立てて、不格好な千鳥足で、俺は走る。何処にいけばいいだとかそんなのはわからない。逃げなくては。死にたくない、潰されたくない!
背後で女達が嗤い、重い物を引きずる音が断続的にした。俺を追っていると気づけば、涙が目尻に溜まる間もなく流れていく。身体中から出る体液と周囲の水が混ざっていく。粘性を持った液体のせいかずっと涙が頬に張りついているようだった。
風を切る音がして俺は目を見開きながら前へ飛ぶ。それでも間に合わずまた背中に衝撃が走り身体が宙に浮く。仰向けに転がれば目の前に無数の女達の顔が迫っていた。
「ひぃい!」
右半身に風を感じ、また床が弛んで身体がバウンドする。咄嗟にとった寝返りで寸での所でミンチにならずに済んだようだった。
だが安堵の時間は一瞬だった。添い寝をする距離に大蛇がいた。捻じれて繋がり所々突き出た女の身体と顔。女達の吐く息が俺の全身のあらゆるところにかかっていく。逸らしたくとも逸らせない地獄絵図の中で俺は残念なことにそれを発見してしまっていた。
「あ……あ、あっ」
大蛇のパーツとなって無理やり生かされてるのではなく、女達は生きていた。身体があんなことになっているのに、口も鼻も呼吸で動き、青白くもその肌からは生を感じた。憎悪に満ちた瞳、眉がつり上がった表情は生きた人間であり、そして一人一人顔が違った。
見覚えのない女が俺の足元にいた。遥か昔に二週間だけ付き合ったような気がする女が喉元で息を吹きかけてきた。腕に噛みつかんとしている女は加瀬子だったか新子だったか。
あれは雪名で……あれは。もしかしてこいつらは俺の歴代の……?
歯の根が合わずにガチガチと音を立てていた。こいつらは全員俺を恨んで? ここまで付き合い捨てていた記憶が全くなかった。だが少しでもこいつらの機嫌を損ねた途端、大蛇が転がれば俺は終わる。恐怖に駆られれば駆られる程縫い付けられたように動けなく、この場に留まり生温かい息を受けるしかなかった。
あの顔はやはり知らない。あれは……。ふと上を見上げれば、大蛇の頭部の部分が二つに割れていた。女達が身体を上手く組み合わせて大蛇の口を模しているらしい。その上唇に日毬がいた。そして、隣に。
「夕衣……」
あの部屋と同じ表情をして大蛇の丁度目のあたりに夕衣が顔を出していた。俺の声に反応し首が動く。
視線が合ってしまった。「ゆ……」と名を呼ぼうとした途端、女達が突如一斉に震え始めた。
「夕衣! その、俺が悪かった。怖かったんだ、お前を失うのが。だから逃げてしまった!」
掠れた声で謝罪の言葉を叫ぶ。こいつらは振った俺を恨み、自ら望んで生きたまま被害者同士で繋がり化け物になったのだ。俺が振った恨みなら俺が解消すれば──! 一縷の望みをかけてまずは暴力沙汰の解消を狙おうと必死に呼びかけた。
「どうか許してくれ……。俺はたしかにお前の優しさを覚えているんだ。キスを強請った時に照れながら答えてくれたのも、ラメが入ったネイルはけばいからナチュラルな方がいいと言った次のデートでネイルが桜色になっていたのも……俺に合わせてくれてたんだよな」
そっと起き上がり土下座のポーズを取る。女達は依然震えたままで床が揺れるが、姿勢を崩さぬように身体に力を入れる。ここを逃したら負けだ。どうか元の優しさを取り戻し、他の女達を説得してくれ──
「だからゆ……」
ピタリと女達の動きが一斉に止まる。顔を上げれば大蛇が身体をくねらせ“顔”が俺の目の前にあった。
「ヒッ」と声が漏れる。額から汗がボタボタと落ちた。
夕衣が冷ややかな目で俺を見下ろし、その唇がゆっくりと開き──
奇声を発したかと思えば大きく左右に揺れ、俺めがけて突進してきた。
「ごっ……!」
大蛇の閉じた口が鳩尾に入る。吐くものがなくなった胃が痙攣し、「かっかっ」と喉が鳴れば黙らせるかの如く襟元をくわえられ、喉が締まった。湿った肉の床の上を猛スピードで引きずられる。滑り気を帯びた柔らかい肉でも擦れていれば摩擦が起き、腹と鼻に熱を感じ声にならない悲鳴が喉奥で消えた。
痛みに耐えていれば放り投げられ、壁に叩きつけられた。慌てて周囲を見渡せば部屋が縮み肉の壁が四方周囲数メートルのところに存在し動転する。更にその一面から光が放たれ俺は奇声を出して飛び上がった。
「か、鏡……?」
鼻梁から鼻背にかけ皮が剥けていた。シャツも摩擦で破け、床に落ちる。全身水浸しの、泣き腫らした目と鼻が赤い上半身裸の男が絶望を煮詰めた目をしてこちらを見ていた。
中央の血管のような管が通った部屋。試着室だった場所に俺は投げ入れられた。そして。
けたたましい音を立てて鏡が粉々になる。試着室の肉壁が突然に近づき身体全体を圧迫したと思えば、その肉がゆっくりと溶解し、消えていく。
「ぎゃああ!」
圧迫だけが続き両腕から鈍い衝撃が走る。腰や背骨がメキメキと軋み、先程の鏡を思い出さされた。
大蛇が俺の身体に巻き付き締め上げている。口を上下にカポカポと鳴らし、女達の奇声と混ざっていった。
「やめろ! やめてくれ!」
女の身体の“残った部分”が凸凹として俺の身体を更に不規則に圧迫していた。そして脛、太腿、腕、腹、背中と様々な部分に鋭い痛みが走っていく。痛みと熱を帯びた場所から笑い声がして何が起きたかを悟りまた涙が溢れた。
身体に顔が密着している女達が俺の皮膚を噛みちぎる勢いで噛んでいる。鼠に食われて、との想像があながち間違っていなかった現実に身体から血の気が失せていった。
「許してくれ! 夕衣! 日毬! 加瀬子! 新子! ……雪名! 助けてくれ死にたくない!」
死にたくない、死にたくない! 無我夢中に先程見た顔を呼んだ。朧気な記憶から必死に過去の女達の名を引っ張り出し、叫ぶしかなかった。
「暁乃! 雨音! いるなら返事をしてくれ、助けてくれ!」
ミシ……と腕や背骨から音がしている。指先の感覚がなくなってきたのに、全身の痛みだけは鮮明に俺に命の危機を伝えてくる。いつ致命的な音がするか恐ろしくて、掻き消すように俺は泣き喚いた。
「悪かった! 俺が悪かったから、ごめん。すまない。謝罪する! しゃ……ごぼっ!」
一層強まった締めつけに吐き出した唾液に血が混じっていた。すると大蛇の頭部がうねうねと動き、ゆっくりと俺の目の前にやって来る。
鼻と鼻がくっつく距離に頭に傷などない夕衣の顔が迫った。
「ゆ……い……」
その瞳から憎悪が消えていた。俺の告白を受け入れた時のような爛々とした穏やかな光を湛えていた。
「ゆ……!」
助かるかもしれない──! 俺が精一杯笑おうと口角に力を込めれば、顔が離れていく。そして。
夕衣は笑っていた。この世の幸福を全て手に入れたように頬を緩め、うっとりと瞳を潤ませて俺を見つめていた。
──あ、駄目だ。
痛みよりも悪寒が勝り、瞼が痙攣する。ぼろぼろと涙が大蛇の身体に降り注いでいった。世界が無音になる。喚き声を上げることが億劫になった。酷く自分の身体が重く、意識がぼんやりとしてくる。
憎悪に満ちた目付きよりも、耳障りな笑い声よりも、説得力があった。
彼女の、この女達の幸福は俺を殺すことなのだ。それ以外は何も望まない。俺が助けを求めようと嘆願しようと始めから聞く耳を持ってなかったのだ。
ゴキン、と身体の何処かからおそらく関節の外れる悲鳴が聞こえた。けれどもう、痛みはない。ただ恐怖だけがあった。
この世にこんな底無しの憎悪があることが、それが自分に向けられる事実に寒気が止まらなかった。
寒い。眠い。
夜通し電話を誰かとした日の記憶が不意に蘇る。走馬灯かもしれない。起きていたいのに瞼が重く、意識が靄がかる。眠りに落ちる前のそんな感覚に似ていた。
視界が狭まっては開く。狭まってはまた開く。緩慢になった瞬きで俺は最期の光景をただ瞳に映していた。せめてこんな女達じゃないものが見たいと赤い肉の床を見る。化け物の体内。“催眠術”が解けた時にそう感じたのを思い出した。
なんだ、最初からもう逃げ場はなかったのか。
ここはこの大蛇の腹の中。あの試着室もだ。始めから俺はもう喰われていて、消化されるのを待つ運命だったのか。
笑えるなと今度こそ自然に口角が上がる。ただ、もう視界の殆どが赤い肉ではなく黒だった。
重い瞼がゆっくりと下りていく。これが閉じたらもう、開かない気がした。
死にたくない、よ。こわい、こわ……。
意識を手放そうとした時だった。




