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6-2 36回目

 高校の生物の時間に見せられた心臓の鼓動の動画によく似ている。壁も天井も床もドクン、ドクンと動いていた。

 わかっているのは、今まで催眠術か何かを──夕衣からすれば“遅い”らしいが、こんなものを当たり前だと信じ込まされるなんて強い超常的な力が俺を追い詰めたに違いないのだ──受けていて、恐怖の世界を当たり前だと信じ込まされていたこと。そして無理やり解かれ突然、悍ましい世界に自分が今までいたことを認識させられたことだけだった。だがそれを認識して何が変わる?

 呆然と立ち尽くす。俺はどうすればいい? 何をすればいいんだ?

「おい、夕衣」

 返事はなく、ハンガーラックがうねうねと動き俺を嘲笑う。

「夕衣!」

 忘れようとした女の名でもいい。現実との接点を自ら作らなければどうにかなってしまいそうだった。

 肉厚な床の上だというのに、ハンガーラックの群れはキャスターを回転させ動き始めた。液体がカーテンのように撥ねて俺の全身にかかった。

「てめ……」

 己を奮い立たせようと罵声を浴びせようとした瞬間、ハンガーラックで揺れる女の一人に違和感を覚え目を凝らしてしまう。

 顔は周囲の“水”のせいで髪の毛が張りつき確認できない。水を吸って色濃くなったブラウスにスカートを纏っていた。濡れた布は女の身体のラインを浮き上がらせていて、こんな時でなければ煽情的とも言えたのかもしれない。青白い肌に艶めかしい服の女はハンガーラックが動く度に左右に揺られ、手首からギシギシと不快な音を立てていた。その割に手首はしっかりとブラウスと同じ色の綱のようなもので固定されていると視線を上にやっていけば、それが蚯蚓のように蠢いたのだ。

 「あっ」と叫んでいる間に、何が起こっているか理解してしまう。綱は女のシャツの袖からそのまま伸びている服の一部となっていた。そしてゆっくりと這い寄るように動き、まずは手首から上を包み込んだかと思うと胴体と同じくラインを浮かび上がらせていた。そして浮き上がった両手が少しずつ薄く、小さくなっていく。両手の膨らみが平坦になり──

 女の両手が消え、鉄パイプを布で包んだような見た目となっていた。そしてそのパイプ──腕があるはずの場所も蠢いた後に、平たくなっていく。

 蛇は獲物を捕食し、ゆっくりと腹の中で消化する。学生時代に教師がそんなことを言っていたのを思い出す。餌は冷凍保存されたマウスで腹の膨らみがなくなるのを観察するのが楽しみだと歯を見せる教師に吐き気がした。

 女も同じだった。服に触れている部位が次々に不自然に平らになっていく。

 やがて、できあがったのは奇妙な吊るされた案山子だった。

 服が覆っていない顔とスカートから伸びた膝下だけが立体的に切り取られたように残っている。それが服に綺麗に括りつけられているような状態だった。

 それでも女は嗤っている。髪を振り乱し、目元以外が露出すれば青白い肌が暗がりに浮かび上がった。ケタケタと嬉しそうに口を開け、安定しない頭部が激しく揺れ動く。舌が覗けるほど大口を開け首が一周したところで目元の髪が左右に剥がれた。

 日毬が水浸しになりながら満面の笑みで、こちらを見ていた。

 せり上がってきたものを今度こそ俺は嘔吐した。

「ひ、日毬……。日毬ぃ!」

 見知った女が異形となり、目の前にいた。顔と足を服に繋がれ、嗤っているのだ。あの柔らかい身体はもうこの世には存在しない。そう考えればまた食道が熱を帯び、口から胃液が逆流する。独特の味に俯いた顔を必死で上げればペットボトルを踏み潰したような不快な音が立て続けに響いた。

「あ……あああ」

 至る所でハンガーラックの女の身体の服で覆われている部分がベコン、ベコンと空気を無理やり押し出すように平たく伸ばされていた。いや消化されているのか、あの服と一体化したのかもしれない。でも何だってよかった。ショルダーオープンブラウスの女の肩だけが風船みたいに浮き出ていた。ダメージジーンズの破けた部分だけが平面から生え、前の女の身体だった場所にぶつかり妙な音がした。チョーカーをつけた女の首が……自分の喉を思わず押さえれば女達の視線が集まり、裂けんばかりに口角が上がる。ピアスをしていたであろう耳の原型がない女と目が合えば真っ赤な、周囲の壁と同じ質感の舌を出される。何だって悍ましいのに変わりはないのだ。

 ハンガーラックが激しく揺れる。バランスの悪い“身体”をした女の後頭部がぐらぐらする。キャスターがギュルギュルと回転しゆっくりと動き回る。

 逃げなければ。

 女達、正確にはハンガーラックの群れは蠢いているだけで、こちらに近寄ってはこない。後頭部が大量のメトロノームのように踊っているのを見ながら今のうちだとそっと横歩きをし始める。平らになっていく女なんか見たくはないが、視界から外すのも恐ろしかった。あの女の肉を平らにする服が俺の元へやってきたら。無理やりパーツを繋げたような女の顔に接近されたら。膝が震え、拳で叩き無理やり動かす。それでも足を一歩肉の上から離し、また下ろす度に嫌な想像は脳内で膨らみ続けた。あの服に触れたら俺の身体もなくなるのか。硫酸は人の皮膚を爛れさせるというが同じく燃やされるような激痛と共に溶かされるのだろうか。それとも実は服の裏側に無数の口があって生きたまま齧られるのか。無数の鼠に集られる。そんな想像をしてしまい、ぞわぞわと腹の奥が痛んだ。瞬きの度に妄想が鮮明になっていく。首だけになって布切れと一体化した自分が生温かい肉の上で溺れそうになっている。助けてくれと叫ぼうにも声帯が服と一体化してしまい、空気だけが抜ける間抜けな音がするのだ。そこに猛スピードでハンガーラックが飛び込んでくる。何度も、何度も俺の身体を轢く。途中、何度も、何度もかけられた女達と目が合い微笑まれた。そして最期は平らな面から遂には残された頭部へと狙いを定められる。女達が似つかわしくない喜びの声を上げた。

 ──たしか、ここが。ここが変わり果てたショッピングセンターなら。

 妄想を掻き消そうと自分の頬を叩く。駄目だ、考えろ。どうせ妄想するなら好ましい夢を見ろ。そのために動いているんだろ。

 既に最初の記憶で脱出を失敗している。外に出たのにも関わらず、センター内に戻ってきていたのを俺は思い出していた。

 でも、もう、これしかない。俺が助かるには。

 この地獄の空間は俺がいたショッピングセンターとは似ても似つかない世界だ。ただ、俺がゆっくりと変化を受け入れさせられていたように、完全に異なるわけではない。

 中央に天井から血管のような管が通った大きな肉の塊がある。あれはおそらく試着室だったものだろう。そして広さも服飾コーナーとほぼ同じといっていい。服飾コーナーの奥は壁となり塞がっているが、それ以外配置は同じだ。ということは。

 革靴の中で粘性のある液体が混ぜられる。歩く度に隙間から流れ込むので不快な感触が増していった。

 気にしていられるか。と前へ、前へ足を進める。肉の壁に手を当てつんのめるように前へ。

 服飾コーナーの横にある道に俺はいるはずだ。この壁の向こうは本来ならエスカレーターで下の階へと繋がっている。

 この下は地下駐車場なはず。後数メートル先で左に曲がり、そこから脱出にかけるしかなかった。妄想に近い可能性でも夢を見るしかなかった。

 一歩、一歩先に進む。キャスターが相変わらず動いている。女の後頭部が揺れていた。

 何故か近づいてこない女達の後頭部を睨みつけながら、ほんの少しだけ安堵の息を吐こうとして──

「──後頭部?」

「キャハハハ」と一斉に女達が俺の疑問に応えた。あいつらは嗤っている。だが、皆俺に背を向けその憎らしい笑顔が見えないのだ。

 背筋に冷たいものが走り、俺は遂に横歩きをやめなりふり構わず目的地に足を更に進めた。ハンガーラックは俺に背を向けゆるゆると進んでいた。そして一定の場所に近づいた物から更に速度を緩めていく。

 右往左往しているようで試着室の隣にハンガーラック達は集まり始めていた。

 角が後、数歩のところに近づく。肉でできた床が歪み足首を掴み靴が踵から外れた。構わないと靴下のまま、俺は走ろうと必死に太腿を上げた。後、五歩、四歩。

 激しい金属音が何度も右からする。見てはいけない、時間がない──! 三歩、二歩。左手を壁にかける。曲がらなければ、下に降りなければ。俺は最後の力を振り絞って──

 途端、背に激痛と衝撃が走り、視界が上昇した。肺にあるはずの酸素が口から全て吐き出されていく。何か強い衝撃で吹き飛ばされた、と認識できたのは顔面から落ち、鼻血で視界が真っ赤に染まった後だった。

 目の奥が瞬時に熱くなり、視界に膜が張る。四つん這いで酸素を必死に吸えば血の味がして頭から垂れる錆び臭いけれど透明な粘液を鼻血と一緒に飲み込む。そうすれば噎せてまた酸素を求めるの繰り返しだった。

 何だ、何が起きたんだ。じたばたと暴れながら激しく酸素を求めれば、激しい衝撃と共に床が弛み、衝撃の方に身体が傾いた。隣に何か大きく重い物が落ちた。痛い、動きたくない。でも状況を確認しなければ。必死で霞む視界の中で固い何かを抱き着くように掴めば、触ったところからへし折れていって強かに顎を打ちつけた。

 背後を確認しなければ。

 隣の何かも気になるが、それよりも背後だった。背後から俺への明確な一撃。痛むだけで動けることから最悪の事態は免れたのだけは理解したが、それだけでは不十分だ。だが。

 ──背後を見て、俺は正気でいられるのだろうか。

 最初に試着室で恐怖を覚えた時と同様に、夕衣の声が耳元でした時と同じようにぞわぞわと視線を感じた。

「……夕衣?」

 恐る恐る唇を震わせる。切れていたようで口の端に痛みが走った。

「夕衣なのか?」

 忘れようとした女に俺は縋っていた。頼むから夕衣がいてくれと心から願っていた。

大きく咳き込んだ衝撃で目の膜が決壊し雫が零れていく。歪んだ視界が鮮明になったのを見計らい覚悟を決めて振り返れば──俺は喉をひくつかせて乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

 肉の壁が崩れて、唯一の脱出経路のエスカレーターがあったはずの穴が見事に塞がれている。俺の隣にハンガーラックだったものが一つに丸められ、鉄の塊として転がっている。だがそんなのはどうでもよかった。

 

 肌色と様々な色でまだら模様を作っている天井まで届く大蛇がそこにいた。


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