6-1 3Ⅹ回目
迷彩柄のウインドブレーカーを買わなくては。俺は薄暗い店内で足を一歩一歩踏みしめながら進む。天井から粘性の強い液体が滴り落ちる。肉のドーム状になっている店内は美しく理想の服飾店だが、歩きにくいのも事実だった。
「結局レモンイエローに落ち着きそう?」
チカのこの場に似つかわしくない声が遠くでした。
「色……というより形が好みなんだ。……あ、悪い」
視界の端でカナタが顔の前で手を縦にして会釈をしたかと思えばスタスタとその場を去っていった。この足場でよくそんな速度で歩けるなと一瞬だけ感心し、数メートル先のメンズのアウトドア用のアウター売り場を目指す。
買い物籠が腕に食い込み赤い線を作る。いっそのこともう試着室前に置いてしまおうかと逡巡し、立ち止まった。ハンガーラックの列の中で俺は回れ右をし、足元に気をつけながら激しく脈打つ試着室へと戻った。
ソファの上に籠を置いたので再びアウトドアコーナーへと向かう。ハンガーラックには手首を手を真上に伸ばされた状態で縛られた名も知らぬ女がかけられている。ワインレッドのシャツを着た女の胸元に妙な影があったので顔を近づける。スマートフォンがネックレスのように紐でぶら下がっていた。
今考えれば夕衣を放置したのは正解だったかもしれない。俺は口元を歪ませそう結論づけた。あれからニュースにもなっていないことから、あいつは死んでいないのだろう。意識を取り戻して病院に行き、手当を受けた。そして連絡を取ってこないことを見るに、俺への敗北を悟ったらしい。
自分で勝手に足を滑らせ醜態を晒した。だから診断書を取って訴えにもこない。俺は全くの無実で、あいつは二度と俺について誰にも口を割らないだろう。それだけの恐怖を与えてやれた。満足な結果だ。
すると一斉に着信音が鳴り響く。各ハンガーラックにかけられた女の中の一人はスマートフォンを所持しているようでポツポツと青白い光が薄暗い店内に灯っていく。ええと、たしか昨年加瀬子と年末に見たイルミネーションのようだった。あれ、新子だったかもしれないな。
ひとりでにスマートフォンが通話を始める。「もしもし、勝尾君?」と朗らかな声がして、俺は悲鳴を上げた。
「ゆ、夕衣……」
「そうだよ。毎日朝昼晩と連絡をくれたのにあれから一度もくれないなんて酷いじゃない」
ワインレッドの服を着た女の胸元のスマートフォンはスピーカーになっていた。そこから肩を弾ませて微笑んでいる姿が想像できるような声がする。
「だって、俺達別れたんだろ?」
「え? 別れてくれるの? 勝尾君、返事をくれないで急に帰っちゃうんだもん。わからなかったよ」
スピーカーから口に手を添えて笑っている時の声がした。しかし違和感が拭えない。あんな状況で去った俺に対して朗らかに電話をしてきていることは勿論、何だか口調が違う気がした。こんな風に気軽に喋る女だっけ?
通話がプツンと切れる。そしてまた着信音がして三つ先のハンガーラックの女の胸から声が響いた。
「もしもし。勝尾君。別れるなら最後にね。話したいことがあったの」
「な、なあ夕衣。お前」
「勝尾君と出会ったのは九カ月前の合コンだったよね。私も勝尾君も急用ができた子の代わりに急遽参加させられ……あ、勝尾君はそういう設定だったっけ」
俺の言葉を遮り、夕衣は続ける。薄暗い店内に似つかわしくない、そして一昨日の事故に触れない声が酷く頭を揺さぶった。
「あの時さ。勝尾君にビールを渡したら『肌、白くて綺麗ですね』って言ってきたよね」
「ああ」
そして夕衣は頬を染めていた。“脈アリ”の初心な仕草だとほくそ笑んでいた。
「すっごい気持ち悪かった。いきなり人の外見に言及するの誉め言葉でも距離感おかしいんじゃないの」
床が足首を掴み、俺は盛大に転ぶ。ばしゃん、と水飛沫を上げればハンガーラックにかけられた女達が一斉に笑った。
「は、え……」
「なのにその後ずっと口説こうとしてきてさ。わからないのかな、愛想笑いで拒絶してるってのが。勝尾君みたいな勘違い野郎が逆上しないように気を遣って笑って聞き流しているんだよ」
心臓が刺されたように痛く、そして粘性のある液体塗れの顔が瞬時に熱くなった。夕衣のふんわりとした笑顔が、俺の口説き文句に手を顔の前に持ってきて恥ずかしそうに返す癖が、音を立てて俺の中で崩れていく。「馬鹿じゃないの」「いい気味」と服共が笑う。やがてまた店内が静まり返り、通話が切れたのを確認してからゆっくり身体を起こした。そして気がつけば床に放り出されたウインドブレーカーを握りしめる。ああ、試着室に向かわなければ。
「もしもし勝尾君。私、日毬」
今度は日毬からの着信。俺が無言を貫こうとすれば勝手に喋り出した。
「今、じゃあ何で夕衣は俺と付き合うのを了承したんだって思ってるでしょ? あれねぇ、さっき聞いたらすっごい後悔してた。ずっと付き合うまで毎週金曜日に二人きりで会おうって連絡してたんでしょ? 『そこまで一途に思ってくれるなら』って勘違いしちゃったんだって。一生の不覚、最悪の思い出って泣いちゃって……可哀想に。夕衣さん、全く悪くないからね。悪いのはアンタだからね」
「今は本当に気持ち悪いって思ってます。無自覚なストーカーってこうやって生まれるんだって」
「私は最初から『この人付き合わなきゃ殺される……』って思って。だって、だっていつも職場の前で彼氏のように振舞って腰を抱いてくるし、時には教えてもない部屋の前に立ってて」
「災難だったね……でももうすぐ終わるから」
隣の女の胸から夕衣と……おそらく雪名の声がした。
「私には毎日朝昼晩ひたすらメッセージを送ってきたわよね。正直に認めればアンタのことを情熱的でいいなって好きだった時期だから受け入れてたけど、思い返せば異常でしかない。別に同じように毎日ずっとやり取りをしているカップルもいると思うよ? それも一つの在り方で素敵だと思うけど、お互いがちゃんと尊重し合っているからできることなのよ。アンタは一方的で相手を支配するためにやってるから恐怖でしかない。そんなに労力を割くのにすぐ別れようとするのも最低」
「勝尾君は自分の思いどおりになる女の子がいなきゃ嫌なだけなんだもんね」
「人を見下さないと生きていけないんだ」
「黙れ!」
ウインドブレーカーを床に叩きつける。そうすれば周りの女……服達が「怖~い」と茶化しだした。
「さっきから何だ寄ってたかって! 過去をほじくり返して安全圏からしか文句が言えないのか。出てこい、今すぐ! 何処かで俺を見張ってるんだろ!」
「私を殺したの、なかったことにする奴には言われたくないかな」
ゾッとした途端、夕衣の低い声が耳元でした。
耳を押さえながら飛びのけば周囲には誰もいない。たしかに耳元で息遣いまで聞こえたのに、だ。
殺した──?
俺は力無くその場にしゃがみ込む。
違う、違う。殺してなんかいない。だって頭から血を流していただけじゃないか。だって今話していたじゃないか。俺に向かって不当な罵倒を浴びせてきたじゃないか。
胃が不快感を訴え自分を抱きしめるように押さえる。
「俺は殺していない。悪くない」
「何言ってるの、現実を見て」
「違う、違う」
歯の根が合わなくなるほどガタガタと身体が震える。するとショルダーバッグに入れたスマートフォンが今度は鳴った。
他のスマートフォンは一切鳴らない。錆びた匂いと生温かい床と服と粘液で構成されたショッピングセンターの静寂を俺のバッグの中の異物が破っていた。
「取りなよ、意気地なし」
勝手に身体が動いた。当たり前のように滑り気に注意しながらスマートフォンを手にするのが止められなかった。どうして、どうしてと叫ぼうにも唇が真一文字に引っ張られ、動かない。そのまま、俺だけど俺じゃない手が代田夕衣と表示された画面を覚束ない指でタップした。
「もしもし? 勝尾君。私を殺した感想は、どう」
「殺してない!」
唇が、身体が解放される。俺は片方の手を胸に当て懺悔のように声を張った。
「だって今お前と話し……」
「いい加減“現実”を受け入れなよ」
声はスマートフォンからではなく後ろからだった。背筋に冷たいものを押しつけられた感触に襲われれば、背後に気配を感じた。誰かがいる。背後で俺を見下ろして言葉を降らせてきていた。
「女の子は皆喜んでいた。合意だった。自分から望んで従順だった。理想の恋愛をして、そして円満に別れた。自分には何も過失がない。救いようが本当にないね」
冷たい手で背を、首を撫でられている感覚に包まれていた。
「ねぇ」
また右耳元で声がする。身体が芯から冷え切っていく俺に反して、吐息は生温かくやはり錆びた匂いがした。
俺の中にある薄い膜のような何かが、壊される予感がした。
嫌だ、嫌だ、やめてくれ! そう叫ぼうとする前に、夕衣はゆっくりと錆び臭い息を吐いた。
「“いつになったら気がつくの”」
瞬間、陶器が割れたような音が頭から全身に響き渡る。俺は「ぎゃあ」と悲鳴を上げ、瞼をギュッと閉じると仰向けに倒れた。
見たことのない光景が瞼の裏で高速で再生されていく。船酔いのような猛烈な吐き気に襲われ、のたうち回れば錆び臭い水が鼻に入り奥が痛んだ。食いしばった歯の奥から唾液が漏れ、床の液体と混ざる。何とも言えない臭気を放つ液体を顔に塗しながら、それでも知らない映像がただ見たくも無いのに目の前で再生される。頭が釘を打ちつけられたように痛む。「がぁがぁ」とガチョウのような声が喉から飛び出す。鋭い痛みが更に強くなり脳天を断続的に殴り出した。頭蓋を震わされている。そして頭皮が熱く湿ったと思えば、顔の皮膚の内側をゼリー状の物が這っていき、脊髄を撫でたみたいな感覚がやってきた。身体の中で自分じゃない何かが蠢いている。何度も俺は痰が絡んだ拒絶の悲鳴を出すが、意にも介さずゼリーはぬるぬると皮膚と肉の間を這っていくようだ。ゼリーが頭蓋の隙間から脳へ到着する。更に加速して映像がそのまま脳に埋め込まれていく感覚がした。
肉の塊のような理想的な店内。錆び臭い水に塗れながら俺は服を抱きしめて、身体を擦りつける。ぶよぶよとした床を踏みしめ次の“服”を探すための服を探す。遠くで不快なカップルの声がする。
当たり前の買い物の光景を俺は見せられていた。
ハンガーラックの列をかき分ける。女の群れに手を伸ばし、試着室へ連れ込み抱きしめる。いらなくなった“服”を床に打ち捨てれば、自らの足で服は元の居場所に戻っていった。遠くで不快なカップルが笑っている。耳障りで仕方がないが、無視するのが一番。
やはり今日の俺の買い物の光景だった。
次に流れ込んできたのは知らない場所だった。白く清潔感の溢れる妙な場所の中央には試着室と書かれた半個室がある。革靴がコツコツと床を叩く。ダークブルーのシャツを取るために、邪魔なシャツを丸めて木製の棚の奥に追いやった。ここはいつも騒がしく、目障りな客も多い。邪魔なガキが入口を塞いでいる。家族連れが通路に広がって歩き舌打ちしたくなる。ああ、そうだ。あのビビっていた老婆の顔は最高だった。あの不快なカップルもいて……。
あれ? これも俺の買い物光景だ。
パチンと、閉じた瞼の前で破裂音がした。ドクンと心臓が跳ね、目を強制的に見開かされる。
「え?」
錆びた匂いが、異様に鼻腔をつく。生温かく噎せ返る暑さ。
「なっ何だよ、此処は……」
即座に起き上がるとそのままぶよぶよの気持ち悪い床に足と取られ、また倒れた。
「嘘だろ! 何でこんな……!」
痛みと吐き気で靄がかっていた意識が、正確にはずっと虚ろに夢を見ていた意識がはっきりと覚醒してしまっていた。
「俺はショッピングセンターにいたはずだろ。なのに」
理由はわからなかった。だが無理やり記憶を埋め込まれる……いや正確には思い出したため、理解していた。
受け入れざるを得なかった。
赤くてらてらと光っている化け物の体内。そう形容するのが相応しい光景が広がっていて俺は悲鳴を上げた。
「気持ちわりぃ! 何だよ、何処だよここは!」
大声を上げた口に頬にこびりついた液体が流れ込む。堪らず咳き込み、鼻から息を吸ったところでようやく悟った。
床も、液体も生温かく錆臭い。ずっと嗅いでいたこれは夕衣の部屋の血と紅茶が混ざった匂いだった。なのに透明なのが一層恐怖を駆り立てた。
「うふふふふふふふ」
「ひっ、ひぃぃ」
悪趣味と言える光景が広がっていた。ハンガーラックに服ではなく、両手を上にして手首を結ばれた女が無数に吊るされている。その女達が皆、俺を見て嘲笑っていた。
──まさかそこまで現実を受け入れるのが下手だとは思わなかった。いつ自分から気づくか楽しみにしてたけど……もう飽きたからいいや。
ペラペラとしゃべり続ける夕衣の声が部屋中に響き渡った。
──こうすればもう向き合うしかないでしょ。
心底愉快だと「うふふ」と笑う。無数の女達も続く。
「三十六回。勝尾君がゆっくりと“ここ”に来るまでに繰り返した買い物の回数だよ。さすがに十回目くらいには違和感を覚えて、自分から正気を取り戻して泣きじゃくってくれるかと思ったけど。そんなに強い催眠じゃないし……あ、でもそうならないからこんな末路を迎えるんだよね」
ガタガタガタガタとハンガーラックが蛇行し揺れる。かかっていた女達が揺さぶられ、甲高い声を上げる。
「もう記憶も正気も取り戻しちゃったから、残念。じゃあね、地獄に堕ちろ屑」
夕衣の声が途絶え、女達の笑い声が一層大きくなった。




