5-1 一昨日
「別れましょう!」
夕衣の毅然とした声に動きを止めた。全開にしたドアから半分出していた身体が自然と振り返る。ドアが審判のように閉まり、履きかけた靴を脱ぐ。昼食を食べた大きめのキッチンのためのスペースで俺と夕衣は対峙する。赤くなった夕衣の瞳には明確な怒りが宿っていた。
「短絡的な決定は後悔するぞ」
「もう後悔はしてる」
「なら今謝るなら」
「後悔してるのは家に上げたこと。本当は映画館に行く予定だったのに『家デートがいい』と押しかけてきた時点で“皆”の言うことを信じるべきだった」
皆? と首を傾げる前に夕衣は「自分の目で見ないと信じないって時には想像力の欠如なのかもしれない」と眉を下げていた。
「勝尾君」
夕衣が一歩前へ踏み出す。スカートから紅茶の水滴が落ちて床に丸い跡を点々と作っていく。
「正直に答えてほしいの。……浮気しているよね?」
夕衣がスカートの裾を握りしめる。俺は「は」と上擦った声を上げる。
「二週間前、池袋で別の女の人と手を組んで歩いてたよね。偶然だけど見ちゃったの」
「人違いだろ。あんなに人でごった返す場所で特定なんて」
「ううん、勝尾君だった。……動かないで、ほら」
一歩夕衣に近づこうとした身体を左手で制止される。そして右手には突き出されたスマートフォンがあった。人通りの少ない裏路地を歩く互いに向き合った俺と日毬の横顔が映っていた。俺は頬を緩め、艶めかしく日毬の指に自分の指を絡めている。
間違いなく俺だった。日毬をホテルに連れ込もうとして断られた日の屈辱が蘇る。
何か弁明しなくては。そう焦ろうにも何も言葉が浮かばない。
俺がもうずっと複数の人間と同時に付き合っているのが女にバレたのは生まれて初めてだったからだ。
上手くやっていた。はずなのに。
「本当にショックで仕事にも手がつかないくらい落ち込んでいたら、社内で色々と噂を聞いたのを思い出したの。『社内に女をとっかえひっかえしているとんでもない男がいる』って。私はそういうのあまり興味がなかったし、何も証拠もない上に、ある人は支社に左遷されたというし本社の営業部でトップの成績を収めているとも言う。容姿だって筋骨隆々で身長は百五十の人とも、細めの身長百八十を越える人とも、とにかく都市伝説のお化けみたいに皆言っていることが違う。だからあくまでも噂というか嘘だと思ってたけど、一つだけ共通点があった」
言い返さなくては。否定しなくては。そう思って動かした唇は上下をぶつけてパクパクと音を立てるだけだった。金魚──場違いにもそんな感想が浮かんだ。
「付き合った女全員に記念日のプレゼントとしてピアスを強請るんだって。そこでもう……残念だけど確信しちゃった。勝尾君……一カ月記念にプレゼントを贈り合おうって、ピアスほしいって強請ってきたよね? 噂が要領を得ないのは、正確には犯人が“社内にいなくて”特定の仕様がないから。とっかえひっかえしているのに足がつかないのも、社内にいないからわからないんだって気づいちゃった。……もしかしてあの時合コンを開いてくれた幹事さんが勝尾君をうちの社の女の子と引き合わせているのかな?」
何もかも正解で俺は頭を抱えたくて仕方なかった。否定しなくては、恫喝でもいい。黙らせなければ。なのにいつもの行動力が、気力が湧かないのだ。自分自身に生まれて初めて絶望して全身に重しをつけられた感覚を味わっていた。こんな清楚ぶっただけの女に俺の生活を壊される可能性を作られた屈辱がプライドを激しく傷つけていた。
「『女の子と付き合っては短期間で別れ、しかもあえて女の子を傷つけるような別れ方をする』……これは本当のことで、そこにまさか浮気まで加わるとは思わなかった。……噂を噂のままにしておくのはもう無理だよ。これ以上あなたといたら私、自分のことが嫌いになる。もう来ないで。連絡先も何もかも消す。割れたマグカップのもう片方と一カ月記念のネックレスも捨てておく。今帰って別れてくれるなら私は勝尾君を忘れて生きていく。……どうする?」
「ど、恫喝か?」
やっと絞り出した一言はどもっていた。そんな俺の顔を見て夕衣は憐れみを煮詰めたような顔をして両手を下ろす。
「噂を信じるだとかお前の言っていることは正気じゃない。小学校の音楽室のポスターの目が夜になったら動くから音楽の授業を受けたくない……このレベルのことを言ってるんだぞ」
「私もそう思った。だから会社の同期に相談したの。『今付き合っている人がいるんだけど、もしかしたらそれが噂の人かもしれない』って」
呆然として立ち竦んでしまっていた。それは──
「約束が違うだろ。お前が初めての恋人だって話だったから『付き合いに慣れるまで最低でも一年は付き合っている話を互いに職場ではしない』って俺言ったよな?」
「名前は出してないし、本当に仲の良い同期達だけだよ。それに、約束だって私は皆に言って良かったのに今日のデートみたいに勝尾君が勝手に決めたんじゃない」
「勝手、勝手って……最終的にお前も同意したじゃないか」
「勝手に命令して、話を終わらせるのを同意とは呼ばないわ」
「俺が全部悪いみたいに言うな! 本心では泣いて自分が悪いと思っている癖に!」
「悔しいから泣いたのよ! あなたみたいな人間と付き合ってしまった自分が不甲斐なくて!」
ビクリと肩を跳ねさせたのは俺の方だった。たかが女のヒステリーなはずなのに夕衣の顔は鬼気迫っていた。
「それに別れると決めたのは何も噂の正体が勝尾君だったという“あなたからしてみれば都市伝説を信じて踊らされている”からじゃない。皆には止められたけど、私は勝尾君ともう一度過ごして目で見て、話して、それで決めたかった。一緒に歩いていた女の人が実は妹だとかそういった僅かだけど有り得る可能性に縋りたかったの。だから今日、デートしようってあなたからの誘いに乗った」
メッセージアプリの返信をふと思い出す。いつもどおり「わかりました。待ち合わせは?」と返事があり、数回やり取りをした後、おやすみと猫の隣に吹き出しがあるスタンプが送られてきた。策士め。今日一日が俺を試すための審判だったとようやく察し、一層燃えるような熱さに身体が支配された。
「勝尾君。決定打は今日のあなたなの。噂は本当に噂かもしれない。私が見かけたあの女の人は浮気相手じゃなくて本当に妹かもしれない。そうだったとしても今日一日の行動で別れるに値するの。いきなりデート先を変更した上に家に押しかけてくる。料理やお茶を催促しながら自分は何もしない。パスタの麺だってストックが一人前しかなかったから殆ど勝尾君にあげたのも気づいてないでしょう。更に嫌だと言っているのに暴力的な映画を観て、突然身体を触ってきて合意も取らずに性行為に及ぼうとする……私はそんな人と恋人でいたくない。だから」
夕衣の豊満な胸が上下する。互いの荒い呼吸音が部屋を支配し、張り詰めた空気が夕衣を鼓舞し、俺を責め立てた。
その後の単語は嫌でも予想できる。そしてその単語以外を俺はこの女から聞き出さなければならなかった。人の口に戸は立てられぬというがあそこまで口止めしてもここまで噂になると思うべきか、噂程度で済んでいる上に実態がこいつ以外に判明していない俺の実力を褒めるべきかは置いておく。
大切なのは夕衣がどこまで誰に相談したか、特に噂に浮気の情報まで加えてないかは確実に聞き出さないとならない。
浮気は特に知られるとまずいのだ。浮気された者同士で傷の舐めあいが発生し、やがて俺に反発するための力となる。仲間を作らせないために、孤立させるために実家に写真を送ったりビラ巻きまでしたこともあるのに台無しになってしまう。
様子からして夕衣は俺の名前までは出していないはずだが、社内を敦也に探らせた方がいいだろう。今後、俺が今までどおりの生活を送り、女で着飾るには間違いなく必要な確認だった。
夕衣の手指が震えている。可哀想に。きっと面と向かって俺に楯突くのが恐ろしいのだろう。従順で可愛かったはずのそれだけの女が歯向かおうとする罰だ。だから、だから。
脳内で理屈をこね回す。目の前の女の欠点をあげつらい、見下そうとする。同じ土俵に立つなと理性で警告し、冷静に聞き出さなければ、と自分に言い聞かせる。
なのに、腹の奥から揺らめく怒りの炎は俺の全身を焼き尽くそうとしていた。夕衣のスカートから紅茶が滴るように、俺の汗が床に落ちていった。
夕衣が息を吸う。そうして予想どおりの言葉を吐き出した。
「別れましょう。そして今すぐ出て行って。できないならこっちもそれ相応の対応を」
「あああああ!」
理性の警告は無駄だった。俺は夕衣の右肩に掴みかかり、もう片方の手で頬を張る。暴力は診断書という証拠を生むからいけないと自分に警告したのに無駄だった。
だってこいつが悪い。この女が悪い。
「やめて!」
健気にも夕衣は身じろげば、もみ合いになる。スパゲッティを食べた時にこいつがしまい忘れたタバスコが床に吹っ飛んでいった。
「お前が悪い、お前が悪い!」
「悪いのはあなたでしょう!」
脊髄から何かが焼き切れたような感覚があった。目の前には白のワンピースがあるはずなのに真っ赤に染まっても見えない。
「口答えするなぁ!」
床に押し付けようと腹を蹴れば夕衣の身体が一瞬よろめく。そのままタックルを決めるように突進して俺は雄叫びを上げた。
──瞬間、鈍い音と「があっ」という聞いたことのない声が下からした。
夕衣を下敷きにして床に落ちる。すかさず両手を一纏めに抑え込み、もう一回頬を張ってやろうと上体を起こそうとすれば、錆びた蛇口から無理やり水を捻り出したような匂いがした。
「え」
そこには当然、夕衣がいた。抑えた手首が弛緩してぐにゃぐにゃしている。半開きの口から涎が垂れ、開けたままの瞳は虚空に向かったまま動かない。
「夕衣?」
頭からつま先まで寒気がした。俺はそっとのしかかっていた腹の上からおりて、立ち上がる。全身を見渡す。虚ろな表情。万歳をしたように上げられた両腕。横に曲げられた首と広がる黒髪。仰向けになった身体。投げ出された両脚とめくれ上がった紅茶に染まったワンピース。呼吸をする度に上下していた胸は動かず、口から漏れた唾液がフローリングに水溜まりを作っている。
「夕衣、お前ふざけるなよ。騙されないからな」
目が離せなかった。生きていて始めて俺は一人の女を凝視していた。
やがて広がった黒髪の後ろから、液体が滲みじんわりとフローリングを汚す。円形に広がりつつ髪と腕を辿って流れていくそれはフローリングの隙間を辿り、夕衣の白のワンピースの肩口を染め始めた。
真っ赤な色だった。血の気を失っていく夕衣の唇とは真逆に存在を主張するようにワンピースが染まっていった。
「あっあああああ……」
自分の口を両手で押さえる。嘘だろ、だってそんなつもりじゃ。ここまでやる必要も予定もなかった! 俺はただこいつを黙らせようと、違う“口封じ”じゃなくて。
視界が回転し、尻餅をつく。後退りすれば先程俺が座ってナポリタンを食べていたテーブルの角にべったりと赤がついていた。
打ち所が悪く……。その言葉が思考の隙間までみっちりと敷き詰められていく。
夕衣はもう。
上下しない胸を見つめた。瞬きを失い、半開きのままの瞳から目を背けた。
「……俺は悪くない」
震える太腿を殴りながら俺は立ち上がる。胃の奥から喉までせり上がってきた物を飲み下せばケチャップと胃液が混ざった味がした。
「悪くない。殺意はなかった。こいつが勝手にぶつけただけだ」
よろめきながら割れたマグカップの破片を避け、窓を閉める。またせり上がってきた吐瀉物を飲み込めば涙が零れそうになる。自分の肩口で拭ってショルダーバッグを手に取った。
「悪くない。俺は、悪くない」
呟きながら部屋を見渡す。動かない夕衣を見下ろす。夕衣が本当にもう二度と動かないのか確認するのは憚られた。触れたくなかった。確定してしまえば、俺の中の何かが壊れてしまうからだ。
「お前が悪い。勝手に頭をぶつけやがって。俺がやったんじゃない。俺が……俺が……」
その後の記憶は正直、ない。
証拠隠滅をしたのか、しなかったのかすら覚えていない。ただここから離れたかった。夕衣という疫病神から離れなければ俺の人生が滅茶苦茶になる事実だけは確信できた。
気がつけば自宅にいて、今日着ていた全ての衣服、鞄までもゴミ袋に入れていた。
あれから当日を入れて三日経過したが、夕衣から連絡もなく、ニュースに名前が出ることもない。
俺はただ何もしない方がいいと、連絡を入れずに一昨日の「じゃあ十時に駅前で待ち合わせね。映画楽しみ~」と書かれた守られなかった約束のメッセージを時折見ては閉じるを繰り返していた。
夕衣がどうなったのか。俺は何も知らない。知らないまま嵐が過ぎ去るのを待つとそう決めた。




