0ー1 深海のような暗闇へ向かう電車の中で
春からは離れて夏からは遠い五月中旬頃の太陽が僕のうなじを焼いている。小刻みな振動が眠気を誘って心地良い。眠りに落ちる前のぼんやりとした感覚が好きだ。
大学の講義の二限目から四限目が運良く休講になる、そう掲示板──昔は本当に学校の壁に掲示していたらしい。今では学生専用のホームページに全て記載されている──が更新されたのは二週間前だった。僕はガッツポーズをして一限目を休む予定だった。
ゴトン、ゴトンと鈍行電車が揺れる。僕の最寄り駅は特急電車が止まる駅なので普段は中々乗らないが何となくゆっくり帰りたかった。
一年目からサボらないで行きなさい! と母に叩き起こされた。入学してできた友人達が皆ベッドの中で惰眠を貪っている中で僕は眠い目を擦りながらそれでもノートを真面目に取っていた。テスト前にノートのコピーは絶対にやらないからな、と心に誓って。
二年生になったら一限目の講義は取るの止めよう。もっとも始めからそのつもりで入学早々講義を山ほど限られた時間に詰め込んだ。「一年目はとにかく必要な単位数を稼げ。特に一限目の必修科目は全部取っておけ」と何かを悟った目をする先輩の“ありがたいお言葉”を僕達は受けて、二年目以降の楽園の下準備をしている。始めた地元の本屋のアルバイトに講義と高校生活から心機一転……というわけでもなく地続きに僕の生活は続いている。新しい友人達もできたが、高校時代の部活仲間とも連絡を取り合っている。どちらともバイト代を貯めて夏は旅行に行こうとそんな話が出ていた。
──次は。
電車内にアナウンスが響き渡る。鈍行でしか停車しない駅で普段は窓から見送るだけの駅だった。緩やかに停車すれば小さな濃い緑の帽子と制服を着た小学生が乗り込んでくる。ランドセルを背負っているというより背負われていておそらく一、二年生くらいだろう。
少年は僕の目の前の席に陣取る。そしてランドセルを横に置くと、黄色の連絡袋から図鑑サイズの大きな本を取り出した。僕とこいつしかいない車両だし、ランドセルはまあそこに置くよなと一人納得し僕はうとうとと眠りの世界へ旅立とうとした。
瞼を閉じようとした時、抱えたリュックサックの先で黄色い布が滑り込んでくる。不思議そうに眺めれば「あっ」と幼い声がした。
連絡袋が僕と少年の間の道に落ちている。しょうがないなあ、と立ち上がり拾ってやる。
「はい」
「ありがとうございます。すみません」
少年が図鑑のような本──ではなく本当に図鑑だった。『世界のおかし』と書かれている──を閉じ小さく会釈する。
礼儀正しいな。僕がこれくらいの年齢の時なんて「サンキュー!」なんて調子に乗って母親に叱られてた気がする。
何だかむず痒くなってしまい「お菓子好きなの? 続き読んでなよ」と要らないことを口走る。少年は「一番好きなのは飴です」と律儀に答えてくれたが、会話はそれきりだった。ところで図鑑に飴も載っているんだろうか。飴って世界の何処発祥なんだ?
そんなことをぼんやり考えながら今度こそ眠りにつく。後で飴の発祥はネットで検索してみるか、なんて考えながら。
ゴトン、ゴトンと電車が揺れている。揺り籠のように僕の安眠を約束しているはずだった。甲高い話し声がしてぼんやりと意識が覚醒する。黒のリュックサックに顔を埋めて眠っていたので瞼を開けても視界は黒だ。左頬にリュックサックの上の取っ手を感じ、頬に跡がついてなきゃいいなとそんなことを考えた。
「えー。そうなの。アップルパイってイギリスでできたんだ! じゃあタルトは……トールタ? ……古代ローマっていつの時代? ふうん。そうなんだ!」
さっきの少年が興奮して誰かと話しているようだった。他にお客さんいたら迷惑だぞ、その声量は。なんて心の中で注意してみたが、実際にするつもりはない。
「えっじゃあさ。これ食べたことある? 本当! ねぇどんな味だった?」
ページを捲る独特の音に少年の声。もう一度眠ってしまおうかと思っていたが、さすがに声が大き過ぎる。注意してやる義務もないし、面倒事にも巻き込まれたくない。それでもどんな奴とあんなに礼儀正しかった少年が喋っているのだろうと好奇心が勝り、顔を上げた。
「えっ」
少年以上の声量で悲鳴が漏れ、僕は両手で自分の口を押える。リュックサックが膝の上から落ちて床に転がった。だが、問題はそこじゃない。
窓から見える空が少年の制服と同じ濃い緑に染まっていた。掃除前のプールの苔……それをもっと濃くしたような景色が広がっていて思わず立ち上がる。
この車両の乗客は三人。僕と少年とそれから少年の話し相手だ。僕は背中に走る寒気と戦いながら少年と話し相手に視線を落とした。
少年の話し相手は蛸の化け物だった。
僕よりも大きなサイズの蛸に更に無数の足をつけた生き物が少年に密着し寄りかかっている。席なんて腐るほど空いているのに少年の両肩に触手を這わせ頭を帽子越しに撫でていた。本来蛸の目がある場所よりも上部にカマキリのような目が四つ並んでいる。そしてその下に何故か人間の口がついていて、紫色の長い舌が分厚い唇から飛び出して左右に揺れていた。
「お、おい……」
膝が震えて、声が上擦った。夏の前だというのに異常に汗をかき額から頬に伝っている。足を一歩前へ踏み出す。楽しげに笑う少年へと近づいた。
「あの……大丈夫か?」
「うんうん。じゃあ葛餅とわらび餅ってどう違うの?」
「大丈夫か!」
少年はまるで僕の言葉なんか聞こえないというように蛸に笑顔を向けている。蛸の目が四つぎょろぎょろと動き、唇がぱくぱくと震えれば少年が楽しげに頷く。
「おい、その……少年! 周り見てみろ。可笑しいぞ!」
「蕨って植物があるんだ。デンプン? 何それ」
「わらび餅の話をしてるんじゃない!」
傷害罪。暴力。そんな単語が過ぎったが手段を選んでいられなかった。僕は触手に覆われた肩を掴もうと手を伸ばした。
途端、頬に鋭い衝撃が走り、身体が宙に浮く。濃い緑に染め上げられた窓が視界の左右に流れ、少年と蛸から遠ざかっていく。背中と後頭部に痛みが走り、周囲の風景が止まった。
「あっ……」
蛸の触手が一本、こちらに向かってひらひらと「シッシッ」と云わんばかりに振られていた。その触手に頬を殴られ、車両半分くらいの距離を吹き飛ばされたのだと頬の痛みと共に実感する。
カタカタと歯の根が合わなく震え始めた。
「助けてくれぇ!」
僕は車両の端で絶叫し、隣の車両に逃げようと立ち上がる。もう少年なんかどうでもよかった。何が起こったかなんてわからない。ただ電車に乗っていたはずが、気がつけば見慣れない場所を走っている。そして不気味な蛸の化け物が現れた。殺されてしまう、殺されなかったとしてもこの先一体どうなるんだろう。無事では済まない確信だけはあった。
連結部分の扉を開けようと先程ぶつけられたそちらに振り返り息を呑む。後ろに車両がなく真っ平な壁となっていた。よく見れば車両の左右も深緑に飲まれた景色を映す窓だけになっていて両開きの扉は消え去ってしまっていた。
電車から降りられない。逃げられない。ここは動く棺桶なのだとそう自覚すれば眩暈がして、膝から崩れ落ちた。
「うっ……うう」
涙が勝手に零れ落ちていく。しゃくり声を上げながら脳内では走馬灯が流れていた。ムカつくところもあるがそれでも困った時には助け合いたいと思える両親。生意気で我儘だけど世話焼きな妹だって同じだ。大学の合格を誰よりも喜んでくれたじいちゃん。遊びに行く度に「沢山食べなさい」と山盛りの白米と唐揚げを出してくれるばあちゃん……ごめん、皆よりも先に僕は死ぬ。ごめんな。うつ伏せになり、土下座のようなポーズでしばらく嗚咽を漏らしていた。
反して少年は相変わらず楽しげな声を上げている。蛸とのお菓子談義は加速していって、全く聞いたことのない菓子名まで表れ始めていた。
ゴトン、ゴトンと電車が揺れている。この電車は何処に向かっているのだろう。嗚咽を漏らしていれば鼻の奥が痛くなり、ふと顔を上げる。
蛸の無数の触手が車内に広がっていた。そして頭部がこちらを向き、少年の方に触手が生えている根元部分を向けている。どんどんその根元部分が大きく広がっていく。
蛸の口って根元にあるんじゃなかったっけ?
ゾワッと汗が全身から噴き出す。ああ、つまりそうか。僕達はあいつの餌なんだ。きっと少年はお菓子代わりに喰われてしまうのだろう。そのために気を引いているのだとようやく理解した。
助けなければ、という意思は恐怖と諦念に押し潰されていた。第一、どうやって助ければいいのだ。相手は触手の一振りで僕の身体を吹き飛ばす化け物だ。立ち向かったところで勝てるはずもない。それに倒したところでここからどう脱出すればいい? だったらいっそのこと楽しい大好きなお菓子談義をしている最中に何もわからぬまま死なせた方が幸福なんじゃないだろうか。蛸の化け物に捕食される恐怖なんて知りたくはないだろう。それに僅かでも少年に蛸の意識が向かっていればその間は僕は死なずに済む。悪いが自分の身が一番可愛いのだ。
「ごめん……」
それでも自分勝手に罪悪感は沸く。だから聞こえないように小さく謝罪の言葉で唇を震わせた。ごめん、ごめん、見捨ててごめん……。また大粒の涙が零れ、床を濡らした時だった。
ゴトン、ゴトンと電車が揺れる。黄色い連絡袋がこちらに流れてきた。
あの時の申し訳なさそうな顔が脳裏を過ぎった。小さい手。昔繋いだ妹の手と似ていると思った。あいつはあんな礼儀正しいガキじゃなかったけども。
「嘘だろ、待て待て……」
自分の意に反して僕は立ち上がっていた。頬に熱が溜まる。殴られて腫れているのかもしれない。足ががくがくと震える。怖いんだろう、死にたくないんだろ、じゃあじっとしてろよ。でも!
「おいこら! 何してんだぁっ!」
ゴトン、ゴトンと揺れる電車を僕は走った。やけっぱち、犬死。そんな単語が浮かび、そして消えていく。うるさい、黙れ。それでも!
蛸の化け物のこちらに向いた頭部に素手で殴りかかる。震えた右の拳はぬめぬめとしている表面を滑り、目玉の一つを捉えた。「ギュエエエ」と気持ち悪い声と感触がする。広がる根元の口がピタリと止まる。僕はそのまま勢い余って転びそうになり──足の激痛と共に逆さに吊り上げられ、元々自分が座っていた位置のつり革に片足を繋がれた。
「ぐぅぅぅぅ……!」
ポタポタと自分の血液が降り注ぐ。右足首を尖らせた触手に刺されたのだ。痛い、痛い。ちくしょう、こんなことするんじゃなかった。けど、ざまあみろ。あいつの目一つ潰して……。
蛸の口の部分が一層大きく拡張される。そしてゆっくりと肩を掴んでいる触手が少年の身体を持ち上げ始めた。
「おい、やめろ……」
化け物が口をあんぐりと開ける。少年は無邪気に図鑑を開いたまま笑っている。そのまま口に放り込むつもりだ──!
「やめろ! ふざけんな! 何してんだよこのクソ野郎!」
何もできなかった。むしろ足を怪我し、少年が無残にも喰われる様を特等席で眺める羽目になったのだ。悔しさと恐怖が混ざり怒号となる、それだけだった。
蛸の口が上に向く。気がつけば触手でぐるぐる巻きにされていた少年の身体が持ち上げられその上で固定される。そしてその触手がほどけていった。
絶叫し、手を伸ばした。その時だった。
「ごめん! 虫苦手なの! 車両移動しよう」
ガラガラガラと何故か“連結部の扉”が開く音がして女性の声が凛と響いた。
途端、緑の空が見慣れた青空へ戻っていく。車内の触手が次々と光の粒子となり、消えていった。
僕が吹き飛ばされた方へ顔を向ければ、電車の連結部分が、背後の車両が復活していた。そして当たり前のように連結部分を女性と男性が通ろうとしていた。
女性は背が高く、髪を短く切り揃えている。そしてその後ろにもっと背の高い強面の男性が不機嫌そうな顔をしていた。
「びっくりしたよ、大きな蛾がドアから入ってきて」
呑気にも女性がそんなことを言って一歩この車両に足を踏み入れる。すると。
「ギュエエエェェェ!」
不快な悲鳴を轟かせ蛸の化け物がのたうち回った。僕と少年を拘束していた触手も光の粒子となり、床に落とされる。あの少年は? 足を引きずりながら這い寄っていけば図鑑を抱きかかえたまますやすやと眠りについていた。「何だよ眠りこけやがって」と捻り出した言葉が熱く、視界が滲んでいった。
そして。
「何処に座ろうか」
そう男性に話しかけながらもう一歩踏み出した瞬間、蛸の化け物の本体が一瞬で光に包まれ透き通っていく。そして叫び声さえ軽やかな破裂音に掻き消され、最初からいなかったかのように消滅したのだった。
光の粒子がいつもの電車内に舞っている。僕と少年が床に倒れている以外はただの普通の鈍行列車の光景だった。
何なんだ、一体。
命が助かった感激よりも強い感情が生まれ、呆然とした。
女性が全くこの車両の惨状に気づかず突然車両に入ってこようとしたら、化け物が爆散し光になった。蛾より恐ろしい存在には全く気づいていない。
ポカンと大口を開けたまま、女性の方を見ればまるで僕達にも気づいていないように座席で寛いでいる。
ゴトン、ゴトンと電車が揺れている。当たり前のような日常がそこにあった。
ゆっくりと呼吸を繰り返す少年に安堵しながら、僕は意識を手放した。