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暖かな空気の中で意識が浮上していく。今は冬で寒かったはず、などと頭に浮かぶものの、確かに感じられた暖かな陽気に目をゆっくりと開けた。
「あ」
見慣れた光景に思わず、小さな声を上げる。
寝転んでいたのは芝生。目の前に見える建物は、この世界で目覚めたときから過ごしてきたオールディス邸。後ろを振り返れば、美しく手入れがされた庭。
見慣れているのに、記憶のものよりも建物がきれいで新しい。
ミカニ神聖王国にいたはずなのに、という思考は、庭へと歩いてきた二人の姿を見て消えていく。片方は知らない男性、もう片方は見覚えのある女性。
「あぁ、これは姫巫女様の記憶ね」
どうやら、眠りについたことで、再び姫巫女様の記憶を見ているようだ。彼らに私の姿が見えることはない。そっと立ち上がり、下を見る。寝転んでいたのに芝生は私の服にはついていないし、ましてや、地面に影も落ちない。やはり、私は記憶を見ているだけで、この記憶の中においては実体はないらしい。
見えないのをいいことに、二人の近くまで歩いていく。
姫巫女様の隣にいる男性は、今までの記憶で見たことがないが、振る舞いや服装から貴族であることが分かる。そして、姫巫女様の隣を歩き、この屋敷内を自由に動き回れるということは、オールディス家の人間で間違いないだろう。
「ライラ様はお花がお好きだと伺っています。王城の庭園と比べると小さいですが、こちらにご用意させていただきました」
「ありがとうござます。でも、私のことはそれほど気になさらないで構わないの。あなたも噂は聞いているでしょう。陛下の寵愛を受けることなく、冷遇された隣国の姫巫女って……。それで下げ渡されたはいいものの、あなたにも想う相手がいたでしょうに、私のせいで……ごめんなさい」
「いいえ、私には特にそう言ったお相手はいませんでしたので。それに、随分と酷い噂が広まっているのですね」
おそらくオールディス家の当主だろうと思われるその男性の言葉に、姫巫女様は暗い顔をしてうつむいた。ゆっくりと歩いていた足も止まってしまっている。
「……噂どころか、本当の話だもの。仕方ないわ」
「本当の話?」
はて、といったように首を傾げる。わざとらしい動きだ。その行動に、呆れたように姫巫女様が顔を上げるが、彼女が口を開くよりも先に、彼がそっと指をさす。
「それでは、その子は?」
「……気が付いていたのですね。殿下の気まぐれではないでしょうか。まだ、それほど関係が悪化していないときのことですが。……私をどうするつもりですか。離縁して屋敷から追い出しますか。それもまた仕方のないことでしょう」
「いえ、別にそのようなことは致しません。普通に私たちの子として育ててしまえばよいでしょう」
穏やかな笑みを浮かべて、彼はまた歩き出す。呆気に取られていた姫巫女様だけがその場に残されていく。数歩分距離が空いたところで、彼がふと立ち止まり、振り返った。
「それに、陛下はライラ様のことをお嫌いになどなっていません。それどころか、今でもお好きでしょうね」
「冗談でしょう。私は実際に城を追い出されて、ここにいるのよ」
「えぇ、まぁ、ここが一番安全だと思ったのでしょうね。オールディス家は中立派ですし、余計な争いには巻き込まれません。それなりの家格で周りからちょっかいをかけられることもほぼありません。辺境伯も考えたのでしょうけれども、まぁ、王家と対立しかねませんし、争いごとになったら巻き込まれるのは確実でしょうからね。と、ざっとこんな感じではないでしょうか。ライラ様も本当は心のどこかでわかっていたのでしょう?」
「……」
ぐっと押し黙る姫巫女様に対して、愉快そうに笑った彼は、一人庭園へと足を踏み入れた。小さな花がたくさん咲いている。春の訪れを祝うかのように、可愛らしくあちらこちらで庭を彩っていた。
お腹を片手で軽く撫でている姫巫女様を見ながら、私は混乱していた。てっきり、私たちはオールディス家の血と姫巫女様の血が流れていると思っていた。それなのに、今の話では王家と姫巫女様の血が流れていることになってしまうではないか。
それに、姫巫女様は見捨てられてなどいなかった。ミカニ神聖王国の人々も、枢機卿であるクリフもこのことは知らない。確かに、初代の国王陛下が何か理由があったとはいえ、姫巫女様を下げ渡したのは、行動だけ見れば理不尽そのもので、怒りたくもなる。
しかし、今のやり取りを見る限りでは、どうにも伝えられている話と事実が異なりそうだ。
「さぁ、こちらへ。少しはゆっくりなさってください」
「でも、私がこうしてゆっくりしている間にも、陛下は――」
「おやおや、それが陛下の仕事ですよ。このようなことを申し上げると、多方面から怒られそうですが、国をまとめ上げていく中で、反対勢力を上手く抑えながら、ライラ様をお守りするだけの力がなかっただけです。でも、それなりに優秀なお方ですから、きっとこれから上手くやってくださいますよ。ですから、私も頼まれた通りに、ライラ様をお守りいたします」
「……そんなことを頼まれていたの?」
目を軽く見開いた姫巫女様の言葉を無視して、ニコニコと笑った彼は、そっと彼女の手を引いて庭へと招き入れた。庭には小さなテーブルと椅子が用意されていて、侍女たちがお茶を準備している。
困惑しながらも、そっと腰を下ろした彼女は、しばらくして小さく微笑んだ。
「そう、私、見捨てられていなかったのね。それどころか、こんなに良くしてもらっていたなんて」
「ちなみに、手を出したら殺すと申し付けられております」
「そんな過激な……」
「はは、そうですね。陛下はライラ様のことになるといささか冷静ではなくなりますね。まぁ、それでよくライラ様を自ら突き放したものですよ。絶対裏で泣いていますよ」
「それはちょっと見てみたかったかもしれないです」
お互いに小さな笑い声をあげて、何やら別の話を始めた。
混乱する私を置いて、二人の姿はどこか幸せな光景のように映る。姫巫女様は、確かに傷ついていた。それでも、歴史に伝わっているように、最後までそうだったわけではないようだ。
そして、オールディス家もまた、初代国王から直々に姫巫女様を頼まれるということは、何やら深い関係があったのだろう。今の時代のオールディス家は、別に強い影響力もない、ごく普通の上流貴族だ。
姫巫女様の記憶をたどれば、何かがわかりそうだと思っていたのに、こうして見れば見るほどに謎だけが増えていく。足元がぐらりと揺れて、風景も歪んでいく。もうすぐ目が覚めるのだと理解する。起きたらまた考えなければならない。
何か戦争を止めるための方法が隠されているかもしれない。オールディス家や姫巫女様の秘密を知ることができれば、使える古代遺物があるかもしれない。
完全に景色が歪み切って、すべてが闇に包まれる。意識だけが浮上していく感覚に任せて、そっと目を閉じた。
すみません、少し過ぎてしまいました。
次回の投稿は土曜日を予定しています。
また、来週末からは元の投稿頻度に戻ります。




