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「あの、お姉様、そんなに落ち込まなくても……」
「いいえ……はぁ……またやってしまったわ……」
先ほど、街にそもそもいかなければよかったのではないかということに気がついたところだが、リリアンは完全に項垂れてしまっていた。
しかし、私も街に行かなければ馬に蹴られる可能性は低くなると考えたが、実際のところはどうだろうか。これから先、全く街に行かないで生活するということはなかなかないだろう。ストーリーの時系列に合わせて街に行くのならば、確かにこのタイミングなのだろうが、それが後ろにずれたとしても、街に行ってしまえば同じように馬に蹴られる可能性はある気がする。
「お姉様、先ほど、街に行かなければ馬に蹴られる可能性は低くなると考えましたが、違うかもしれません」
「え?」
「街には行かずに家に籠ることで、たとえ、このタイミングで馬に蹴られることを回避できたとして、時系列がずれるだけかもしれません。その後、私が街に出た際に馬に蹴られる可能性は十分にあります」
「確かに……」
先ほどまで項垂れていた彼女は、少し考える素振りを見せた。考えているのか、たまに視線が動いている。考えをまとめているのだろうか。
「……とりあえず、外に出てしまったから仕方ないわよね。街に行きましょう。大丈夫、今回ストーリー通りのことが起きてしまっても、死にはしないもの」
「そうですね」
「どうせ街に行くのだもの。楽しみましょう」
リリアンは笑顔を浮かべると、早速これから行く王都について話を始めた。最近、新しいカフェができたこと、話題の石鹸を扱っている店があること、治安が良いこと、その他諸々。王都の話をしているときのリリアンは楽しそうだ。ころころと表情が変わって面白い。
馬車から見える景色も変わりつつある。オールディス領は農業地帯であるため、全体的に緑が多かった。広がるのは畑、畑、畑、たまに田んぼらしきものや、森。遠くにオールディス領の街と思しきものも見えていたが、そこそこ栄えていそうではあるものの、あくまでそこそこだ。
それがどうだろう。王都に近づくにつれて、先ほどまでとは異なり、人の流れが出てきた。これから向かうであろう方向に歩いていく人、そちらから帰るところなのか反対方向に歩いている人。荷馬車や辻馬車。馬で駆けていく人。どこをみても人で溢れている。
道もきれいに舗装されているようで、先ほどよりも馬車の揺れが少なく、快適だ。街に入ると、全体的に雰囲気が統一された建物が並んでいる。まさに中世の西洋、といった感じの建物である。可愛らしくもあるその建物たちを眺めていると、場所の速度が徐々に落ち始めた。人が多く、先ほどと同じスピードでは走れないのだろう。
馬車の外からは楽し気な声が聞こえてくる。王都は随分と活気にあふれているようだ。
「ミルドレッド、あそこが話していたカフェよ」
リリアンに促されて目を向けてみれば、可愛らしい外観の建物が見えた。テラス席もあるようで、天気が良いこともあり、外でお茶をしている人々が目に入る。日差しが少し強いため、時折、まぶしそうにしている。
「まずはお昼にしましょう」
リリアンの言葉に合わせたかのように馬車の速度が緩む。やがて、速度を失って止まると、扉が開かれた。その瞬間に賑やかさが馬車の中へと入り込んできた。リリアンの後に、護衛の手を借りながら、外へと出てみると、想像以上に活気にあふれていた。音だけではない。目の前のカフェからはいい匂いが流れてきている。肉を焼いた匂いだろうか。食欲を刺激する。
リリアンの後ろについて店に入ると、先ほどのいい匂いがさらに濃くなる。外の喧騒から遮断されて、店の中は比較的静かだ。周りの客から見えない奥の方へと通される。なるほど、貴族も使用することが考慮されているのだろう。
席に向かう途中で、平民と思われる人々が、ちらりちらりとこちらを見ているが、特に声をかけてくる様子はない。この世界では平民と貴族の溝は深いのだろうか。日本人的な感覚としては、このような身分制度はやはり不思議なものに映る。
「この特製ハンバーグを2つ。それから飲み物は紅茶で、食後にフルーツタルトを」
「かしこまりました」
席に着くと、リリアンは手慣れた様子で料理を頼んだ。この世界には、ハンバーグがあるのか、などと考える。よく考えてみれば、乙女ゲームの世界であるために、食事などは奇想天外なものではなく、元の世界に準ずるものになっていてもおかしくはないことに気が付く。西洋的なこの世界には合わなそうだが、ゲームの製作者が日本人であるならば、そのうち米とも対面しそうな気がする。
そんなことを考えていると、目の前にハンバーグとライスが置かれた。思ったよりも早い米とのご対面である。でも、少し米が恋しかったから嬉しい。西洋人的な身体を持っていても、米を求めていたということは、私たちの食事の嗜好というのは生物学的なものに由来するのではなく、あくまで、自分が過ごしてきた文化やその思想に由来するものなのだろうか。
「また考え事しているの?」
リリアンに声をかけられて、はっと目を上げる。彼女は、すでに右手にナイフ、左手にフォークを手にして、ハンバーグを口にしていた。
「熱いうちの方がおいしいわよ」
「そ、そうですね」
確かに料理は温かい方がおいしい。早速、ナイフとフォークを手にして、ハンバーグを切ってみれば、じゅわりと肉汁があふれた。それを口の中に入れてみると、肉の焼けた香ばしい香りと、その上にかかっていたデミグラスソースと思しきソースの複雑で豊かな味が広がる。
すっかりお腹が満たされた私たちは、再び馬車の中にいた。髪やドレスに先ほどの香ばしい匂いが若干ついてしまったようで、動くたびにハンバーグの香りがかすかに漂う。
次に向かうのは、問題の古本屋である。古本屋自体は楽しみだが、そのあとに馬に蹴られる可能性があると考えると憂鬱だ。ストーリー通りに進むのならば、私が古本屋を出たところで、少年に本をすられて、反射的に追いかけてしまうはずだ。つまり、できるだけ本を奪われないように対策をして、仮に奪われてしまっても、慌てて追いかけないことを意識すればよい。……できるだろうか。少し自信がない。
「古本屋が先でよかったのですか? お姉様が行きたいお店に行ってもよかったのでは……」
「いいのいいの。それに気がかりなことは早めに終わらせてしまいたいでしょう」
「確かにそうですね」
緩やかな速度で馬車は進んでいく。古本屋に行ったら、どんな本を買おうか。そういえば、カーティスから渡された本の中には古代語に関するものはなかったはずだ。もし、見つけることができたなら買ってみてもよいかもしれない。
買った本を奪われないようにするには、どうするべきだろうか。抱えるように本を持つことで、ただ手にしているよりは奪われにくい気もするが、それ以上の方法は私には思いつかない。それならば、慌てて追いかけないという方向で進めた方がよいだろう。本が奪われてしまう前提なのは悲しいことだが、仕方がない。
奪われた瞬間に少年を取り押さえられれば、そもそも追いかける必要はないが、ミルドレッドの身体能力はそれほど高くないように思える。そもそも、取り押さえられるほど身体能力が高いのであれば、ストーリー内でも少年を取り押さえていたに違いない。
トラップを仕掛けるという手もあるかもしれないが、私にトラップの知識などない。これも却下だろう。ではどうするか。
「ねぇ、また考え事? ミルドレッドって何も考えていない時間とかないの?」
「そうですね……何かしら考えていることが多いと思います」
リリアンの鈴のような声に我に返って返事をする。そういえば、ミルドレッドは身体能力が低いが、リリアンはどうだろうか。見た目からはどう見ても、ただの華奢な少女であり、あまり期待はできないが、聞いてみるだけ聞いてみてもいいかもしれない。
「お姉様は運動神経が良かったりしますか」
「運動神経? また随分と話が飛んだのね。そうねぇ、護身術くらいは叩き込まれているけれども、あくまでその程度ね」
やはり期待はできそうにない。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「いえ、本を奪った少年を取り押さえられたら、馬のところまで彼を追いかける必要も、本を諦める必要もないかと思ったのですが……やっぱり、本は諦めます」
私の言葉に、リリアンは大きな目をぱちぱちと瞬いていたが、すぐに微笑んだ。
「まぁ、そう気落ちしないで。もしそうなったら、私も頑張ってみるわ」
馬車の速度が緩んでいく。やがて小さな可愛らしい建物の前で完全に停車すると、馬車の扉が開かれた。先ほどと同様に、護衛の手を借りながら馬車をあとにすると、古本屋の扉を開いた。少し薄暗い建物の中は、本特有の香りが漂っていた。
奥の方に、眼鏡をかけた高齢の男性が腰かけているが、ほかに人は見当たらない。おそらく、彼が店主だろう。男性は手にしていた本から目線を上げて、こちらを見ると、ゆっくりと立ち上がって、お辞儀をした。私たちの服装や護衛の様子から貴族と判断したのだろう。
近くにあった本棚に目を向けてみる。どの本の背表紙にも題名が書かれている。『祝福の花嫁』『騎士と獅子』『町はずれの森の魔女』といった具合だ。おそらく、小説の類がこの棚には並べてあるのだろう。リリアンは、その棚を眺めながら、口を開いた。
「あぁ、忘れていたわ。お父様からの伝言で、今日買っていいのは3冊までだそうよ」
その言葉にうなずいて、別の棚へと近づいてみる。先ほどとは変わってこちらは歴史書のようだ。その右側には、植物図鑑や農業に関する本。オールディス侯爵家のものとしては、オールディス領の農業を知るためにも、こういった本を読むのもよいかもしれない。
少し奥に進んでみると、語学に関する本が並んでいる。主にミカニ語に関するものだ。隣国、ミカニ神聖王国の公用語だろう。『やさしいミカニ語』という本を手に取る。この本棚に語学の本が集まっているのならば、古代語の本もあるだろうか。きょろきょろと見回していると、後ろに護衛以外の人の気配を感じた。振り向いてみると、穏やかな表情の店主が立っていた。
「何かお探しですか」
「はい、あの、古代語の本があれば見てみたかったのですが」
「ほう、古代語ですか。学ぼうという方も珍しいですね。この国ではなかなか見かけない本なもので」
その言葉に肩を落としかけたところで、穏やかな声がかかる。
「しかし、お嬢様は運が良いようですね。先日、ちょうど1冊売っていったお客さんがいましてね。この棚の……ええと、どれどれ」
店主は棚の右側を中心に探していたようだが、やがて、目当ての本を見つけると、それを手に取り、差し出してきた。題名は『古代文字の基礎』。
「ありがとうございます!」
「いえいえ。ただ、少し内容が難しいから、読むのは大変かもしれないですね」
そう言うと、穏やかな表情を浮かべたまま、店主は店の奥へと消えていった。ミカニ語と古代語に関する本を手に、小説の棚で待っていたリリアンに声をかけた。
「お姉様、決まりました」
お読みくださり、ありがとうございます。
本日も、もう1話投稿予定です。