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ミカニ神聖王国に向かうのは、まだまだ先だと思っていたら、いつの間にかその日になっていた。いかに自分がぼーっと生きているのかがよくわかる。
毎日研究室で愉快な研究員たちと古代語を解読したり、たまに顔を出してくれるアデラ様とお話をしたり、少し苦手な王子殿下と遭遇したり、時間のある時にはお姉様とゆったりと過ごした。
そのような平和すぎるほどに穏やかな日々を過ごしていたら、あっという間に夏が終わり、秋が深まり、気が付いたら冬になっていた。
そうして、留学に向けて、カミラはせっせと荷物をまとめてくれて、私は学ぶべきことを整理している間に忙しく日々は過ぎ、なぜか盛大なお見送りをされて家を出た。
困惑しつつも乗り込んだ馬車で、まずは王城へと向かい、共に隣国へと向かう人々と合流した。今回は、ランドルフ様と私のほかに護衛騎士が手配されている。軽く挨拶を交わして、王家が用意してくれた馬車に慌ただしく乗り込んだのが数時間前の話だ。
ガタン、と馬車が大きく揺れた。道が悪いのだろう。ひざ掛けがずり落ちたところを、慌てて掴んで元の位置に戻す。馬車であるため、風は遮られるものの、やはり空気は冷たい。
ふと視線を感じて顔を上げてみれば、斜め向かいに座っているランドルフ様が目を逸らした。決して私と目が合うことはない。先ほどからこの調子だ。
最初は、私の気のせいだと思っていたのだが、何回か繰り返すうちに、さすがにそれが気のせいではないと気が付いた。国境付近の領地を目指して長距離移動をしているところだが、今日の私たちがした会話と言えば、馬車に乗る前の挨拶くらいだ。
それからは、お互いに黙ったまま時間が過ぎている。いつもであれば、それは別に耐えがたい沈黙というわけでもないのだが、今日はどうにも様子が異なる。思い切って、ランドルフ様の方に体を軽く向ければ、彼がわずかに動揺したように見えた。
「あの、私に何かついているでしょうか」
「いや、そういうわけではない」
「それでは、何かお話されたいことがあるのでしょうか」
「……」
図星らしい。普段は、様々な感情や事柄を無表情の裏に隠している彼が、こんなにも簡単に動揺を見せることに驚きつつも、何か考え込んでいる様子のため、ただひたすらに待つ。
馬車はカタカタと音を立てながら、のどかな道を進んでいく。
どれほどの時間が経っただろうか。人によっては、待つことをやめて諦めるかもしれないほどの時間が過ぎたころ、やっと顔を上げたランドルフ様と目が合った。今度は逸らされることもなく、まっすぐとこちらを見据えていた。
「……聞いてほしいことがある」
「はい」
「私の……過去の話。それから、現在の立場」
思いがけない話題に目を見開いた。彼の立場については、いつも気にしていた。婚約者であり、常に私に対して誠実なように思える彼だが、調べた範囲で出てくる情報では、王家の狂信者と繋がっている可能性を捨てきれなかった。
その答えを聞くことができる機会を得たのだ。自分の身の振り方を考えるためにも、話は聞いておくべきだ。そう思うのに、すぐに頷くことができない。
もし、彼が私の敵だったとしたら、話を聞いたことで、この場で何かされるかもしれない、などということを考えたわけではない。それならば、私は一体何に引っかかっているのか。そこまで考えて愕然とする。
――私は彼に裏切られることよりも、彼が私から離れていくことが怖いのではないか。
彼が王家の狂信者だとして、そのことを私に話すとすれば、この後、私たちが歩んでいく道は分かれていく可能性が高い。なぜならば、王家がオールディス家の力を利用するという方針でいる以上、王家の狂信者たちは、その意向に従うはずだからだ。
当然、私と対等で良好な関係を築くことはできないだろう。私は利用される側だ。
「ミルドレッド?」
「あ……」
心配そうに、しかし、どこか不安げに私を呼ぶ声で現実に引き戻される。こちらを見つめる赤い瞳は、以前のように揺れていた。
それを見て気が付いた。不安なのは私だけではない。彼の過去も、現在の立場もまだわからないが、何か事情があるのは確かだ。それを彼は腹を括って話してくれる気になったのだ。それに、彼が王家の狂信者とは限らない。
「すみません、また考え込んでしまって……。あの、お話を聞かせてください」
「ありがとう。……何から話すべきか考えてきたんだが、いざ話すとなると難しいな」
苦笑した彼は少し目線を下げた。珍しく素で笑っているが、それがどこか苦し気で悲し気な笑顔なことに胸が痛む。
「過去の話からにしよう。その方がわかりやすいだろうからな」
私が頷いたのを確認して、彼は話し始めた。
「悪いが、面白い話ではない。嫌になったら、すぐに言ってくれ」
平静を装っているのに、彼は白くなるほどに手を握りしめていた。
「……私が物心ついたころには、王城の一室にいた」
ぽつりぽつりと話し始めた彼の言葉に耳を傾ける。時々言葉に詰まりながら、そして、長い沈黙も挟みながら、ゆっくり、ゆっくりと、しかし、彼は過去について最後まで話し続けた。
馬車がカタカタと揺れる。
私たちの間に言葉はない。沈黙が落ちる。
しばらくして、私の目から涙が一粒落ちて、ひざ掛けにシミを作った。悲しみが胸に広がり、いっぱいになる。慌てて拭うが、また一粒涙が落ちる。
拭っても、拭っても、また一粒、また一粒と落ちていく。静かに流れていく涙は、だんだんと止まらなくなってしまい、最終的に顔を手で覆った。はらはらと涙を流す、などとはよく言うが、こういった状況のことだろうか。
涙腺が完全に緩んでしまって、もう自分の意思では止められなくなっていた。
私の様子を静かに見守っていたランドルフ様は、やはり、いつもの無表情で、ただ驚くほどに優しい声色で話しかけてくれた。
「どうしてミルドレッドが泣くんだ」
「……だって」
これは安堵の涙だろうか。そうかもしれない。でもそれだけじゃない。きっとこれは幼い頃のランドルフ様に対しての涙だろう。
「幼い子供に対して、そんな……」
「気にするな。もう過ぎたことだ」
「そうはいっても……」
結論から言うと、ランドルフ様が話した内容は、私の想像の斜め上のものだった。全く想定していなかった内容だった。
幼い頃のランドルフ様は、ブライトウェル侯爵家ではなく、王城の一室にいたそうだ。物心ついたころには、そうだったらしい。
王城の一室と聞くと、それなりに良い境遇に思えそうだが、彼から聞いた話は想像以上に酷いものだった。窓のない暗い部屋のせいで昼なのか夜なのかもわからない。時間感覚が狂っている状態のため、正確にはわからないものの、食事も一日一食くらいだったのではないか、とのことだった。
彼は、その部屋の中で、毎日のように古代語の解読をさせられた。毎日、毎日、来る日も来る日も。彼が外に出て遊びたいと言えば、容赦なくたたかれ、痛みで泣けば、また容赦なく鞭うたれる。目の前には古代語の絵本が積まれ、それを読む以外には何も許されない。
彼が泣こうと喚こうと、恐怖で震えていようと、痛みに悶えていようと、顔を隠した大人たちは、ただ静かに見ているだけか、彼に言うことを聞かせようとしてくるだけだった。
夜になって誰もいない部屋の隅で、彼は与えられた毛布に包まり、痛みと寂しさに震え、涙を流したという。
やがて、そうして感情を表に出したところで、顔を隠している大人たちは誰も助けてくれないことを学び、いつしか表情にそれらを出さなくなったころ、彼は部屋を抜け出すことを覚えた。
部屋の中の世界しか知らない彼が外に出るとは、大人たちも思っていなかったのだろう。扉に鍵はかけられておらず、ドアノブをまわして扉を押すだけで簡単に廊下に出られたという。
大人たちがいない夜にこっそりと部屋を抜け出しては、静まり返った城の中を歩きまわった。物心ついたころから部屋の中で過ごしてきた彼にとって、最初は恐ろしい世界に思えたそうだが、だんだんと慣れてきて、中庭や薬草畑などにも赴くようになったという。
使用人用の通路などを知っていたり、薬草の効能を知っているのは、おそらく、こうした経験ゆえなのだろう。
昼間の王城と異なり、夜は人が少ない。見回りの護衛や王族の部屋の前で寝ずの番をしている護衛くらいしか夜中は起きていない。そのため、度々、城内を歩き回っても、人と遭遇することはなかったらしい。
ある日、昼間に鞭うたれた手が痛み、いつもと同じように部屋を抜け出して薬草畑に向かっていたところ、たまたま明かりを持った見回りの護衛騎士と遭遇した彼は、顔を隠している大人の仲間だと思い、反射的に逃げ出したそうだ。
それでも、子供である彼が護衛騎士を撒くことができるはずもなく、あっさりと捕まり、もう駄目だと思ったところで、怪訝そうな顔をした護衛騎士に問われたそうだ。
「年頃は王子殿下と同じだが、明らかに異なる。そうなると、どこかの家の子なんだろうけれども、君はどこから入ってきたんだい?」
どこからと問われて、地下に続く道を指しても首を傾げるばかりで、話が通じない。しばらくの間は、ランドルフ様の言葉を冗談だろうと笑っていた護衛騎士だったが、ランドルフ様が全く意見を曲げないため、不思議に思って、今度は名前を聞いてきた。
しかし、ランドルフ様は名前がわからずに首を振った。ずっと幽閉されていた彼は、自分の名前を呼ばれたことがなかった。そのため、知らなかったのだ。
「名前がない……? 貴族の子じゃないのかい?」
そう問いかけられても、ランドルフ様は首を傾げるばかりで、いよいよ何かがおかしいと思い始めた騎士は、彼を連れて休憩場所に戻った。
そこにいた同僚に相談して、ランドルフ様をどうするべきかを話し合っていたところで、一人がぽつりと言ったらしい。
「黒髪に赤い瞳って珍しくねぇか。これじゃあ、まるで数年前に誘拐された子供みたいじゃねぇか」
その言葉で集まっていた騎士たちは騒然とした。彼らは、あれこれとランドルフ様の特徴と誘拐されたとされる子供の特徴を並べ立てて、比べ、完全に一致することを確認して、大急ぎで報告に行った。
こうして、ランドルフ様はブライトウェル侯爵家の誘拐された子供だったということが判明し、家に帰ることができたのだという。
それと同時に、彼がいたとされる地下室も捜索されたが、顔を隠した大人たちは現れることもなく、結局、誘拐事件の犯人は捕まらず、動機も謎に包まれたままだった。
これが彼の過去の話だ。
「……でも、私、ランドルフ様が誘拐されていたというお話を聞いたことがないのです」
「それはそうだろうな。貴族の子供が誘拐されるなど、その家にとっては醜聞になるだけだ。貴族の子供が社交の場に出るのは、早くて六歳くらいから、遅いと十歳くらいの者もいる」
「つまり、ブライトウェル侯爵家が誘拐されたことを隠していた、ということですか」
「別に私のことをほったらかしにしていたわけではない。父上も母上も兄上も心配してくれていた。自分たちで手がかりを探したり、王家に内密に捜索を依頼していたらしい。その依頼がなければ、私は騎士たちに気が付いてもらえなかったわけだ」
やっと止まった涙を拭いながら、彼の言葉にうなずく。
ただ、話を聞いている限り、顔を隠した大人たちというのは王家の狂信者たちのように思えるのは気のせいだろうか。
「難しい顔をしているところ悪いが、まだ話は残っている。今度は、今の私の立場について話そう」
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