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 すっかりきれいになった部屋の中で、静かに寝息を立てているのはマルコム様だ。本が棚に戻されたことで露わになったソファーの上で横になっている。横になって、すぐに眠りについたことから、疲れていたのだろうと推測できた。


 どうでもよいことだが、彼の眼鏡が傷だらけで曇ったようになっている原因は、先ほど判明した。眠る前に眼鏡を外した彼は、躊躇なく、それを文献やペンが転がっているテーブルの上に乱暴に置き、ケネス様も眼鏡が置いてあることを気することなく、物を置くのだ。


 むしろ、レンズが傷つくだけで済んでいるのが不思議なくらいだ。そのうちフレームが曲がるのではないだろうか。


「それで、先ほど古代語の本に私の血を垂らしてみたんだが、全く反応がなかったんだ。つまり、ここから推測されるのは、やはり、ミルドレッド嬢の血が特別だということだ。これを確かめるためにマルコム君の血を採取したかったのだが、彼は怖がりなもので、逃げられてしまった」

「……」


 次に続く言葉をある程度予測できているのか、ランドルフ様は黙って話を聞いている。少し表情が硬いようにも見える。


「というわけで、君の血を提供してくれないだろうか」


 そう言って短剣を握りしめている様子は、さながら殺人鬼といった様子だ。目の下に隈があり、顔色が悪い状態で、満面の笑みを浮かべていることが、不気味さに拍車をかけている。ランドルフ様の眉がぴくりと動いたのは、おそらく気のせいではないだろう。


「構いませんが、自分で傷をつけますので、その短剣を下ろしていただけますか」


 思わず、私もその横でこくこくと頷いてしまった。絵面的にも恐怖を感じる。できれば短剣を下ろしてもらいたい。この瞬間に研究室に入った人がいれば、間違いなく悲鳴を上げることになるだろう。


 不思議そうな顔をしたケネス様が短剣を下ろしたのと同時に、ランドルフ様は自分の指先を軽く傷つけた。その指を前へと差し出すと、勢いよく、ケネス様がその手を取った。ランドルフ様が若干引いたような顔をしている。


「ふ、ふふふ、これで何も起きなければ、私の推測は正しいのだろう」


 ぶつぶつとつぶやきながら、ランドルフ様の指を本に押し付けた。ケネス様から解放されると、さっと手を引いた様子から、不愉快だったことが伺える。ランドルフ様は、あまり表情に出さないだけで、実際のところは、色々な感情を内側に持っているのだということに、最近、気が付いた。


 ランドルフ様が左手の様子を確認している。


「ランドルフ様、手を見せてください」


 無表情な彼の顔がこちらを向いた。無言のまま左手を差し出される。思いのほか、ごつごつとしている彼の手の人差し指には、小さな切り傷ができていた。深い傷ではないが、まだ血は止まっていない。


 後ろを振り返り、細かな片づけを行っていたカミラに声をかけた。


「カミラ、包帯とかあるかしら」

「はい、お嬢様」


 カミラは包帯を取り出した。念のため持ち歩いているのだろうか。彼女は、私に包帯を手渡してくれたが、不思議そうな顔をしていた。


「触りますね」

「……」


 カミラと同様に怪訝な様子でこちらを見ているランドルフ様の左手をとり、包帯を巻きつける。あまり器用な方ではないが、さすがに包帯くらいは巻くことができる。くるくると適当な回数巻き付け、きゅっと結び、ランドルフ様に短剣を借りて余りを切る。


 ぽかんとした様子のカミラに包帯を返し、短剣をランドルフ様に返したところで、彼が意外そうに口を開いた。


「ミルドレッドは包帯が巻けるのか」

「え……?」


 何か不自然なところがあったかを考えて、気が付いた。おそらく、この世界の令嬢は、そもそも自分で包帯など巻かないのだろう。何かあれば侍女に任せればよいのだ。そう考えると、私の今の行動は少し不自然だったに違いない。


「見よう見まねで巻いたので上手くはありませんが……」


 咄嗟にそう付け加えると、なるほど、とつぶやいて、納得したように目の前の彼が頷いた。上手く誤魔化すことができたようだ。彼に怪しまれるのは避けたいところだ。


「やはり私の推測は正しかった!」


 大きな声を出したかと思うと、勢いよくケネス様が立ちあがった。とても初老の男性とは思えない、軽やかな身のこなしだ。近くにあった紙を引き寄せて、ペンで何やら書き込み、そして、こちらを見た。


「ミルドレッド嬢」

「はい」


 嫌な予感がする。まだ付き合いはかなり短いが、昨日から見ていて学んだことがある。ケネス様がキラキラと目を輝かせているときは、少し暴走気味なのだ。


「お願いがある」

「……はい」


 曖昧な微笑みを浮かべながら、相槌を打つ。


「血を――」

「申し訳ありませんが、お断りします」


 意外なことに私よりも先にランドルフ様が断った。ケネス様だけでなく、私まで目を瞬かせて彼を見る。


「連日、彼女を傷つけるのは憚られます」

「そうは言っても、このことを詳しく確認するには必要だと思うのだが」

「あの、ランドルフ様、少しであれば大丈夫です」


 ランドルフ様が、こちらを見た。眉が寄っている。それはどういった感情を表しているのだろうか。不機嫌か、心配なのか。心配されているのであれば、少しうれしいなどと考えてしまった自分に心の中で首を傾げた。


「明日以降にするべきだ。いくら浅い傷とはいえ、連日はよくないだろう」


 強めの口調でそう言われて、思わず頷いてしまう。それを見たケネス様が、がっくりと肩を落とした。若干申し訳なさを感じるが、ほかにも研究はできるため、今日はあきらめていただこう。


 それに、私としても、別で調べたいことがあるのだ。以前、クリフが、古代語の本は古代遺物の1つだと話していた。つまり、ほかにも古代遺物は存在するのだ。それらがどこにあるのかを調べることも研究になるはずだ。


「ケネス様、調べたいことがあるのです。古代遺物が他に存在するのか、探してみたいのです。何かお心当たりなどありませんか」

「心当たり……」


 考え込んでケネス様が静かになると、その後ろのソファーから声が発せられた。


「そ、そういえば、お城の中には、こ、古代語が書いてある石碑が、あ、あるよ」

「石碑ですか?」

「う、うん」


 いつの間に起きていたのか、眼鏡を探しながら、マルコム様が話を続けた。


「あ、あちらこちらに、あ、あるんだ。ぼ、僕は、こ、この部屋にひ、引きこもっているから、あ、あまり詳しくないけれど、さ、探せば、すぐに見つかると、お、思う」


 彼の言葉にケネス様とランドルフ様が頷いた。


「ありがとうございます。確認してきます」

「私も付き添おう」

「私も行――」

「ケ、ケネス様は、駄目です! ぼ、僕と予算の書類を、か、書かないと」


 華奢なマルコム様が、勢いよく飛び出していこうとしたケネス様を必死に引き留めている。その目は、私たちに早く行けと言っているようだった。


 彼がケネス様を引き留めている間に、そそくさと研究室から出るが、行きたいと駄々をこねるケネス様の声は廊下まで響いていた。扉の前で待機していた護衛騎士たちは不思議そうな顔をしている。私たちが、廊下の角を曲がっても、まだその声は聞こえていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

次回の投稿は、日曜日を予定しております。

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