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研究室に戻り、足の踏み場がない中を進む。足元をよく見てみれば、本だけでなく、書類が所々に紛れている。思わず、重要な書類ではないか気になって屈んで手に取ってみようとしたその先を虫が通っていった。
「っ!」
驚いて後ろに下がろうとして、体勢を崩したところを後ろから支えられた。
「どうした」
落ち着いた声で問いかけられた。
「あ、その、虫が……」
虫に驚いて体勢を崩したことが、だんだんと恥ずかしくなり、最後の方は言葉を飲み込んだ。意外そうな表情を見せたランドルフ様が手を貸してくださった。
「虫が苦手なのか」
「……はい」
恥ずかしさに軽く俯きながら体勢を立て直していると、部屋の奥の方で、マルコム様が慌てているようだった。
「す、すみません。こ、この部屋、む、虫、よ、よく出るんです」
「よく……」
つい先ほど、目線の先を通っていった影を思い出し、思わず身震いをした。虫は苦手だ。
「片付けるか」
そう一言口にするとランドルフ様が、その辺の本を手に取り、本棚へと戻し始めた。そのたびに埃がふわふわと舞う。かなり長い期間、この状態で放置されていたようだ。
私もランドルフ様の横に並んで、本を手に取る。それを本棚に戻そうとしていると、研究室の扉が開いた。
「おや、片付けかな」
ケネス様が興味深そうな顔をして研究室に入ってきた。ランドルフ様と私を交互に見ると、私のすぐ近くの本と書類を手に取って、本棚へと戻そうとした。しかし、少し考える素振りを見せると、既に積み上げられている本の上に何故か重ねた。
不思議な行動が気になって、そのまま様子を見ていると、手に取った本をテーブルの上に積み上げたり、床の空いているスペースに置いたり、といった様子で、片付く気配は全くない。むしろ、散らかしているようにも思える。
「あの、なぜテーブルや床に?」
「え、だって片付けるんだよね?」
問いに対して答えは返ってきたが、私の理解の斜め上をいくものだった。首を傾げたくなるが、何とかこらえて平静を装っていると、見かねたマルコム様が、眉を下げながらもケネス様に近づいた。その過程でも、歩く際にひっかけてしまった本の山が崩れて雪崩が起こり、部屋は汚くなる一方だ。
「ケ、ケネス様、も、もう大丈夫ですから。いつもの通り、じ……侍女の方に、ま、任せましょう。へ、部屋の前に、い、いますよね」
「でも、自分で片付けも楽しいよ?」
「か、片付けるどころか、ち、散らかっています」
オドオドとしながらも、はっきりと言い切ったマルコム様の言葉に、ケネス様は驚いたように軽く目を見開いた。
「え、散らかってる?」
「ち、散らかって、ます」
ケネス様が部屋を散らかしていたのは、片づけをしているつもりだったようで、しばらく目を瞬いていたが、肩を落とすと、とぼとぼと扉の方へと歩き始めた。扉を軽く開けると、廊下に控えていた侍女たちに声をかけたようで、すぐに女性たちが入ってきた。
その中には、ランドルフ様と私の侍女もいたが、部屋の様子に驚いているのは、その2人だけで、ケネス様とマルコム様の侍女と思わしき女性たちは、すました顔のまま、せっせと片づけを始めた。おそらく、日常的にこの光景を目にしていて、慣れているのだろう。
「お、お嬢様、これは……」
驚きを隠せないカミラが、困惑した様子でこちらを見ていたが、私は軽く首を横に振った。困惑を隠しきれないものの、すぐに片付けに取り掛かってくれるのは、さすが、優秀なカミラである。
同様に、ランドルフ様の侍女も不思議そうな顔をして部屋の中を見回していたが、すぐに、元の表情に戻ると、近くの本の山から片づけを始めた。
「ケ、ケネス様は、片付け、自分でしたこと、な、ないから……その、これは、仕方がないんだ」
「片付けをしたことがない……」
そこまで口にして、少し考えてみるが、片づけをしないというのは、相当大雑把な人、もしくは、自分で片付けをする必要が全くない人、ということに気が付いた。今まで全く片付けをしたことがないとなると、ケネス様は後者にあたる人物なのだろう。
確かケネス様のフルネームは、ケネス・シェフィールド。シェフィールド家と言えば、この王国の五大公爵家の1つではなかっただろうか。そう考えると、先ほど、アデラ様の件で苦言を呈してくるとおっしゃったのにも、今までの司書の方が本を貸してくださったことにも納得がいく。
本人に、その気が全くなかったとしても、周りは、シェフィールド公爵家に逆らうことなどできないと恐れていたのだろう。さらに、ケネス様は悪気が全くなく、単にお願い程度の気分で聞いているのだからたちが悪い。マルコム様がため息をつきたくなる気持ちも少しわかる。
私が考えをまとめていると、いつの間にか積みあがっていた本は大方本棚へと戻されていた。今は、埃が舞っていることを気にした侍女の1人が、ケネス様に許可を取ったうえで窓を開けたり、別の侍女が、掃き掃除をしているところだ。
テーブルの上には、依然として本が積み上げられているが、床に関してならば、少なくとも足の踏み場がないということはなくなった。
先頭に立っていた侍女はケネス様付きの侍女だったのだろうか。髪はきっちりと結ばれており、かけられている眼鏡がきつい印象を際立たせていた。
「ケネス様、どうして、このような状態になるまで呼んでくださらなかったのですか」
「いや、だって面倒だし」
「限度がございます。私、前回も申し上げましたよね。今後、部屋が荒れるようなことがあれば、次からは定期的にお掃除させていただきます、と。特に、本日からは女性の研究員を迎えているのです。今後は定期的にお掃除させていただきますので、よろしくお願いいたします」
ケネス様が慌てたように彼女を呼び止めているが、その呼びかけに応じることもなく、速やかに退出していった。他の侍女たちも、そのあとに続いて部屋を後にしていく。
がっくりと項垂れたケネス様が扉の前に残されていたが、マルコム様は気にした様子もなく、私たちを手招きした。その手には、先ほど王立図書館で借りてきた本があった。
「さ、早速、た、試そう」
「ケネス様は……」
後ろを振り返り、いまだに項垂れているケネス様を見ながら問いかけるが、マルコム様はゆるゆると首を横に振った。
「だ、大丈夫。お、面白いことが、起きれば、ケ、ケネス様も立ち、直る、から」
そう言って本を手渡された。本の表紙を観察してみるが、手の込んだ絵が描いてあるくらいで、特に変わった部分はない。本を開いてみても、それだけでは変わっている部分は見当たらない。
「あの、何か、そうですね。短剣などあるでしょうか」
「な、な、何に使うの……!?」
「ここにある」
驚くマルコム様の横で、いたって冷静なランドルフ様が腰から短剣を引き抜いた。文官だった彼が持っているということは、あくまで護身用の短剣なのだろう。鞘に入っている状態で目の前に出されたため、受け取ろうとすると、止められた。
「ミルドレッドは血が苦手だっただろう。手を出せ」
名前を初めて呼ばれたことに驚きつつも左手を差し出した。その様子を見ているマルコム様の顔色が見る見るうちに悪くなってきたかと思うと、青い顔で私たちの間に立って、ランドルフ様から私を引き離そうとした。
「や、やめて、く、ください! ひ、ひ、人を傷つけるのは、よ、よくあり、ありません!」
余程動揺しているのか、後ろから見ていても彼の肩が震えているのが見えた。震えということは、動揺ではなく、恐怖だろうか。そんなことを考えていると、すぐ横に人が立った気配を感じた。
「何をしようとしているんだい?」
特に動揺もしていない普段通りの声でケネス様が問いかけてきた。見下ろされるかたちになりながら、顔を上に向けると、ケネス様の穏やかな表情が目に入った。
「研究です。以前、古代語の本に血を垂らしたときに本が光りましたので、おそらく、この本も光ると思います」
「血を……?」
「そ、それは、た、大量の血がひ、必要なのですか」
「いえ、そのようなことはありません。数滴で問題ないかと」
その言葉を聞いたマルコム様が大きく息を吐きながら、床にへたり込んだ。どうやら、ランドルフ様が短剣を取り出したことで、私が大けがをするような事態を想定していたようだ。これは、細かい説明をせずに、いきなり行動した私たちに落ち度があるだろう。
「誤解を与えるような行動をしてしまい、申し訳ありません」
「い、いや、ひどいことに、な、ならないなら、いいんだ」
「誤解が解けたのであれば、手を差し出せ」
ランドルフ様に言われて、再び左手を取ると、手のひらが上になるように向きを変えられた。傷つける指を選んでいるのか、彼の手が指を触る感覚が少しくすぐったい。それほど時間をかけることなく、人差し指を軽くつままれたかと思うと、指先にチクリとした痛みを感じた。
「これで十分だろう」
「ありがとうございます」
離された自分の手を確認してみれば、確かに小さな傷がつけられており、僅かな血がにじんでいた。それを開いた本の1ページ目の端に押し付ける。
端を選んだのは、もし、この本が古代遺物ではなく、シミが残ってしまった場合に、できるだけ目立たないようにするためだ。そうは言っても、そのような状況に陥れば、アデラ様には怒られてしまいそうではある。貸し出した本が汚されて返されたら、司書が怒るのは当たり前だろう。
そんな心配をよそに、本は淡い光を放ち始めた。やがて強くなってきた光は、はっきりとした青色へと変化し、文字を浮かび上がらせる。
「な、な、何!?」
「これは、どういうことだ……」
驚きに声を上げる2人の横で、ランドルフ様はいつも通りの無表情だった。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
また、誤字報告をしてくださった方もありがとうございます。
予定よりも投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。
続きは本日の夜に投稿予定です。




