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ケネス様が本を手にしたまま螺旋階段の方向に歩いて行ってから、しばらくが経っていた。よく考えたら、初老ともいえる年齢のケネス様が、また3階まで上がってくるのは大変なのではないだろうか。
「あの、ケネス様は司書の方とお話しされているのでしょうか」
「そ、そうだと、お、思う」
「私たちの方で特にやることがないのであれば、下の階に行きませんか。ケネス様にもう一度上がってきていただくのは申し訳ないですし」
「それもそうだな」
古代語の本が並んでいる本棚から離れて、私たちが螺旋階段を降り始めたのと同時に、はっきりとした声が聞こえてきた。
「決まりを守っていただかないと困ります。基本的に図書館から持ち出すことはできません」
よく通る声であるため、話している内容が鮮明に聞こえる。どうやら、揉めている原因はケネス様のように思える。3人で顔を見合わせた。全員同じような結論に至っていたのだろう。少し早足で階段を降りていく。
あと少しで1階にたどり着くというところで、ケネス様に一歩も引かずに、背筋を伸ばして立っている人影が見えた。
「だめなの? いつもの司書さんは貸してくれるから、てっきりいいのかと思っていたよ」
「いいえ、決まりでは貸し出せないことになっています」
困惑しているケネス様だったが、私たちに気が付くと、眉を下げた。
「ごめんね、だめだったみたい」
「わかっていただけたようで何よりです」
先ほどまできっぱりと断っていた彼女だったが、ケネス様があっさり引き下がると、安心したのか柔らかな微笑みを浮かべていた。
さらさらと流れて腰まである髪は透き通るような金髪で、図書館の窓から差し込む光によってきらきらと輝いており、こちらを向いた瞳は、お姉様と同じ色をしていたが、それよりも軽やかな色合いの緑色だった。整った顔立ちをしているが、きつい印象は全くなく、どちらかというと庇護欲をそそるような可愛らしい見た目の少女がそこに立っていた。
お姉様と同い年くらいに見える。彼女が司書なのだろうか。
「し……司書さん、ご、ごめんなさい。ケ、ケネス様が、ご、ご迷惑を……」
「いえ、問題ありません。元はといえば、今まで別の司書が貸し出しをしていたことが問題です。ケネス様は決まりをご存じないだけのようでしたので」
私たちを責め立てるつもりはないようで、穏やかな微笑を浮かべている。ふと、彼女の視線が私に移った。そのまま、目線は私の首に下がっている研究員の身分証へと移り、驚きに目を見開かれた。
「あら……」
瞬きをした彼女は、すぐに微笑みを浮かべると、近くに歩みを進めてきた。
「初めまして。私、アデラ・ターナーと申します。ターナー伯爵家の三女で、文官として働いております。女性初の研究員であるミルドレッド・オールディス様とお見受けいたしますが」
「オールディス侯爵家の次女、ミルドレッド・オールディスと申します。姉がお世話になっております」
慌てて挨拶を返せば、彼女の薄緑色の瞳がきらりと輝いたような気がした。まさか初日から乙女ゲームの主人公であるアデラ様と遭遇することになるとは思っておらず、全く心の準備ができていなかったが、こうして顔を合わせてみると、お姉様の言う通り、第一印象は、まっすぐで素敵な人物のように思える。
「男性が多い中で、このように女性とお話ができてうれしいです。ぜひ、仲良くしてください」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
日の光が当たっていることもあってか、彼女自身が光り輝いているように見える。
「アデラ嬢がどうしてここにいる」
一見すると不機嫌にも思える表情でそう問いかけたのはランドルフ様だ。実際のところは不機嫌なわけではなく、表情が変わらないだけである。アデラ様と面識があることを不思議に思ったが、よく考えれば、ランドルフ様は文官として働いていたのだから、同僚といえば同僚なのだろう。
「どうして、と言われましても……」
ランドルフ様の言葉に、先ほどまでの微笑みを消して、苦い顔をした。
「実力を考えれば、アデラ嬢が司書として働いているのは、いささか不自然だ。司書も重要な役割ではあるが、ほかの仕事を割り当てた方が、全体的にも効率が上がるように思える。それなのに、どうしてここに配属されている」
「……それは」
何かを言いかけて、すぐに口を噤んだ。
それだけで、何となく状況が読めてしまった。おそらく、周りからの嫌がらせみたいなものなのだろう。新人として入ってきたアデラ様は、当然、上司には逆らえない。初めて入ってきた女性文官という立場の彼女をよく思わない人間もそれなりにいると考えられる。
理不尽ではあるが、そういった人達が無駄な結束力を発揮した結果、本来配属されるべき場所ではなく、司書に回されたということだろう。
「あぁ、なるほどね。アデラ嬢は誰かに嫌がらせされて、図書館配属になったってことか」
私たちが気を遣って直接的な言い回しを避けていたのに、ケネス様の悪気のない声が響いた。その陰で、マルコム様が頭を抱えている。
「……」
アデラ様は黙って手を握りしめているが、それが答えだろう。ケネス様が、ふとランドルフ様の方を振り返った。
「ランドルフ君、アデラ嬢の以前の部署は?」
「政策立案だったかと」
「わぁ、花形!」
にこりと微笑みを浮かべたケネス様が、本をマルコム様に手渡した。
「じゃあ、私は政策立案部に行ってくるよ。そういうわけで、マルコム君は、この本の持ち出し処理をしておいてね。ちゃんと手続きをすれば、持ち出しても大丈夫って、アデラ嬢がさっき教えてくれたんだ」
「え……あ、はい。あ、あの、……ど、どうして、政策立案部に……?」
「ちょっと苦言を呈しに」
反射的に本を受け取りながら、首を傾げているマルコム様に背を向けて、そのまま彼は図書館を出て行ってしまった。自由な人だ。
私たちは、しばらくの間、呆気に取られていたが、立ち直ったアデラ様が近くの引き出しから、何やら書類を取り出してきた。何枚かあるようだ。
「こちらにご記入をお願いいたします。本の持ち出しに必要な書類です」
「あ……ありがとう、ご、ございます」
「本は全く持ち出せないと思っていたのですが、手続きを踏めば可能なのですか」
以前、本は貸し出しができないという内容を聞いていたため、手続きがあるとはいえ、持ち出せるという話が気になった。
「条件付きではありますが、一部、持ち出しが可能です。ただ、持ち出せる範囲は王城内ですので、それほど利用される方はいらっしゃらないようですね」
アデラ様は説明しながら、ぱらぱらと貸出票と思われる書類をめくっていた。確認しながら答えてくださったようだ。
「こ、これで、だ、大丈夫、でしょうか」
書類を書き終えたマルコム様が、おずおずとそれを差し出した。受け取ったアデラ様はしばらくの間、書類に目を通していたが、軽くうなずくと、にこりと笑った。
「問題ありません。それでは、返却予定日に、またいらしてくださいね」
その言葉にこくこくと頷いたマルコム様は逃げるように図書館から退出していった。顔合わせのときから薄々感じてはいたが、極度の人見知りのようだ。先輩研究員に後れを取るわけにはいかない。私たちも研究室に戻ろうと、アデラ様に軽く会釈をしたところで、彼女に声をかけられた。
「ミルドレッド様がよろしければ、また是非お話ししませんか」
「喜んで」
反射的に答えてから、しまった、と思ったが、もう遅い。主人公にできるだけ関わらない方がよいと思っていたのだが、これでは思い切り関わる方向に進んでしまっている。
しかし、あの状況で断るのも不自然だったため、仕方がないといえば、仕方のないことなのかもしれない。先を歩いていたランドルフ様が、こちらを振り向いて立ち止まっていた。待っていてくださったようだ。
慌てて追いかければ、当然のように手を差し出された。私の手とは異なり、大きく、少し骨ばっている手だ。
彼と出会って最初の頃にも、図書館を訪れたが、その際には、エスコートはおろか、私のことを置いてスタスタと先を歩いていた。しかも、立ち止まったかと思えば、私を見て放った言葉が、君は歩くのが遅いな、だったのだ。悪気はなかったのだろう。
そんな彼が、今は私を気遣ってこちらに手を差し伸べてくれていることに、じわりと胸の奥が温かくなった。思わず、微笑みを浮かべると、彼の瞳が揺れたような気がした。すぐにいつも通りの無表情に戻った彼の手に自分の手を重ねて、図書館を後にした。
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