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「ミルドレッドお嬢様」
カミラが珍しく腰に手を当てて、こちらを向いていた。
普段なら既に起きて活動している時間になっても、私はベッドの上にいた。正確には、ベッドの上で頭から掛け布団をかぶっている。摩擦で髪の毛がくしゃくしゃになっているのが視界の端に映るが、今はそれどころではない。
「どうしてもだめ?」
「お嬢様、諦めてください」
「でも、どうして」
「それは私にもわかりかねます」
これ以上カミラを困らせるわけにはいかないことはわかっていた。彼女も私と同じように疑問に思っているし、困惑している。渋々ベッドから抜け出して、彼女に促されたとおりに鏡台前に座った。私が布団を頭からかぶったせいでぼさぼさになった髪を、ゆっくりと丁寧に梳かしてくれる。
「お姉様だけで十分だと思わない?」
「そうはいっても、王子殿下がお会いしたいとおっしゃられたのです。ミルドレッドお嬢様もお断りできないことはご存じでしょう?」
「それは、そうなんだけれど……」
今日は、王子殿下とお姉様がオールディス邸でお茶をする予定になっていた。婚約者のやり取りに、部外者が入ることは基本的にあり得ないので、普段の私は、最初の挨拶だけ済ませた後は自室に籠っている。
それが数日前、お姉様が手紙を片手に慌てて私の部屋に入ってきたことで崩れ去った。今度のお茶の際には私も同席するようにと書いてあったらしい。正直、身に覚えがない。
「カミラ、私、何か王子殿下を怒らせるようなことをしたかしら」
「お嬢様に限って、それはないかと思いますよ」
確かに、カミラの言う通りなのだと思う。私は、お姉様の婚約者である王子殿下との接触は最低限にとどめてきた。それは、身内の婚約者に馴れ馴れしくするべきではないという常識と共に、乙女ゲームのシナリオからできるだけ離れた場所にいたいと思っての行動だ。
いつの間にか髪を結い終えたカミラは、私を立たせると、今度は普段よりも上質な生地のドレスを出した。飾りやフリルは少なく、落ち着いた印象の若草色のドレスだ。控えめな刺繍が袖の端や首元に入っていて可愛らしい。
カミラは、てきぱきとドレスに着替えさせると、私を朝食へと送り出した。
あまりの緊張に手汗が止まらない。玄関ホールで両親とお姉様の隣に立って、王子殿下が訪れるのを待っているが、たった数分が数時間に感じてしまうほどに緊張していた。
「ミルドレッドったら、そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
お母様が苦笑しながら、こちらを眺めている。その横でお父様もうなずいている。
私の緊張の原因を正確に読み取っているのは、同じく乙女ゲームの内容を知っているリリアンお姉様だけだ。お姉様は、気の毒そうな目でこちらを見ているが、両親がいる手前、特に何も言えずにいるようだ。
しばらくすると、日の光にキラキラと輝く銀髪と抜けるように白い肌の王子殿下が現れた。全体的に色素が薄い王子殿下は、妖精に気に入られて連れ去られてしまうのではないかと思うほどに儚げな美形だ。
ただ、それは見た目だけであり、剣を持たせれば、その辺の騎士たちよりも強く、ペンを持たせれば、すさまじい勢いで書類仕事をこなす超人だ。
私たちは、彼が現れると同時に頭を下げた。ひらひらと手を振る気配がする。
「楽にしてくれて問題ないよ」
顔を上げると、爽やかな笑みを浮かべた王子殿下が、私たちを見回した。お父様が前に出て、私たちの代表として挨拶をすると、王子殿下を客室へと案内した。私たちも彼らの後ろを歩き、客室へと向かう。
ソファーへと腰かけた王子殿下は、お姉様を手招き、隣に座らせた。仲が良いとは話に聞いていたが、思った以上に良好な関係らしい。お姉様から聞いていた乙女ゲームのシナリオよりも仲が良いのではないだろうか。これなら、王子殿下が主人公を好きになることもないかもしれない。少し恥ずかしそうに頬を染めるお姉様は新鮮だ。
「ミルドレッド嬢も」
「失礼いたします」
促されて向かい側のソファーに腰かける。窓からは、すっかり葉を落としてしまった寂しげな木が見えている。
「それでは、私たちはこれで」
私たちが座ったことを確認すると、両親は部屋から出て行った。暖炉からはパチパチと音が聞こえる。すぐに、リリアン付きの侍女が、お茶を準備して王子殿下の前に出した。紅茶からふわりと湯気が上がる。殿下の水色の瞳がこちらを向いた。表情は穏やかだ。
「やぁ、久しぶりだね」
「お久しぶりでございます。婚約者同士の交流のお時間に私を混ぜていただいて恐縮でございます」
「そんなにかしこまらなくていいよ。それに呼んだのは、私なのだから」
なぜ私を呼んだ、と言いたいが、ぐっとこらえて微笑みを浮かべる。前世の私は、微笑みを浮かべるなんてことはあまりしなかったが、こちらの世界に来てから、随分と自然に微笑むことができるようになった気がする。
お姉様が、殿下の袖を軽くつまんで、くいくいと引っ張った。
「アイザック殿下、ミルドレッドを呼んだ理由をお聞きしても?」
「何だい? 嫉妬かな?」
「なっ、嫉妬なんてしておりません!」
からかうような態度の殿下に対して、お姉様がわかりやすく顔を赤くして慌てた。私は一体何を見せられているのだろうか。いや、婚約者同士の交流に横入りしているのは私なので文句を言える立場でもないが、微妙な気分だ。少し眉が下がることを自覚する。
そのことに気が付いたお姉様が、さらに慌てたように口を開いた。
「ミ、ミルドレッド! これは違うのよ」
「いえ、私のことはお構いなく」
「それじゃあ、遠慮なく」
お茶目に笑った殿下が、お姉様の髪を一房手に取ると、流れるようにキスを落とした。それと同時に、お姉様の顔がみるみると赤くなり、彼女は声にならない声を上げて、うつむいた。美形のお姉様がそのような反応をすれば、並大抵の男であれば失神しそうなほどの破壊力だが、殿下は余裕そうにニコニコと笑っている。
私も微笑んで誤魔化す。身内のこういった姿を見るのは複雑な気分だ。もちろん、2人の仲が良いのは素晴らしいことだと思っているが、気まずい気持ちもいくらかある。むしろ、気まずい気持ちの方が強い。
まだ照れているお姉様はそのままに、殿下は先ほどの質問に答えた。
「いや、大した用事があったわけではないんだけれどね。以前、ミルドレッド嬢に古代語の文献を贈ったと思うんだけれど、感想を聞きたくて」
「そのことでございましたか」
自分が何かやらかしたわけではなかったことに、ほっとしつつも、話題が古代語の文献ということで、警戒もしてしまう。できるだけ、感情を隠して、穏やかな表情を心がける。
「実は、読んでいるところなのですが、なかなか解読が難しく……。お恥ずかしながら、まだ内容を掴むことができておりません」
「やっぱり難しいよね。リリアンは、家庭教師から古代語を習っていると聞いていたけれど?」
少し意地悪な声音で片眉を上げながら、お姉様に問いかけると、気を取り直して座っていたお姉様が口を尖らせた。
「アイザック殿下、私が外国語が苦手なことをお忘れではありませんか」
「ごめんごめん、わかっているよ」
ふふっと笑って、お姉様の頭を撫でる。本当に仲が良い。
「もう知っているかもしれないけれど、ミルドレッド嬢の婚約者であるランドルフは古代語をある程度読めるんだ。今度教えてもらったらいい」
「はい、ありがとうございます」
「家庭教師を見つけるのも大変らしいね。こちらでも探してあげたいけれど、あいにくそういった知り合いはいなくてね」
「とんでもございません。お気遣いいただきありがとうございます」
その後の会話はどれも変わったことのない平凡なものだった。
お姉様が最近の流行りの小説の話をすれば、殿下も今度読んでみるとおっしゃったり、最近の公務のお話を聞いたお姉様が新しい事業の提案をなさったり、穏やかな時間が流れていった。仲睦まじい婚約者の間に、私が挟まってしまっていて大変申し訳ないこと以外に特筆すべきこともないお茶会は、随分と長い時間続いた。
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