15
月明かりだけが部屋の中を照らす。使用人の中には、まだ起きている者もいるだろうが、多くの人々が寝ているであろうこの時間は、静寂に包まれている。
本については話し合った結果、まずは、ランドルフ様に貸していただいた本は私が、王子殿下に頂いた本はお姉様が読んでみるという話になった。
夕食後に早速本を読み始めてみたのだが、正直なところ、進捗は微妙だ。すでに家庭教師に古代語を習っているお姉様がどの程度読めるのかはわからないが、少なくとも、独学の私では太刀打ちができない。単語の推測から始めているため、解読にはかなりの時間がかかるだろう。
鍵を開けて、少し軋む窓を開けてみる。満月に近いため、今夜はかなり明るい方だが、それでも、星がよく見えた。外からの冷たい空気が部屋の中へと流れこむ。少し肌寒い。何か上に羽織るものはあっただろうか。そういえば、最近は冷えるから、とカミラが椅子にショールを置いて行ってくれたはずだ。
窓辺から離れて、薄暗い中で椅子へと近づき、ショールを手に取ったとき、わずかに影が落ちた。
「やあ、お嬢さん。窓を開けたままなんて不用心だね」
聞き覚えのある声だ。ゆっくりと振り向く。窓枠に腰かけている少年の影が見える。何となく、今日は彼が来る気がしていた。
「本泥棒さん」
「……その呼び方やめない?」
「あなたの名前を知らないのだもの」
「そういえば、そうだったね」
ひょいっと部屋の中に入ると、彼はにこりと笑った。
「僕のことはクリフと呼んでよ」
私が頷くと、満足そうな顔をした。そのまま、前回部屋に侵入してきたときと同様にベッドの上へと座る。遠慮がない。
「古代語の本を贈られちゃったんだって?」
「どうして知っているの?」
「簡単なことさ。僕とつながっているのは、護衛騎士君だけじゃないってこと」
なるほど。確かに、ほかにもつながっている人間がいてもおかしくはないだろう。もしかしたら、オールディス侯爵家だけでなく、別の場所にも彼の仲間はいるのかもしれない。
「それでどうだった? もう読んだんでしょ」
先ほどよりも、少し声のトーンが落ちた。彼を見てみれば、真剣な表情をしている。ここからはまじめな話ということなのだろう。
「単語の解読をするところから始めないといけないから、かなり時間がかかりそうなの」
私が首を横に振りながら話すと、彼は明らかに安堵したような表情へと変わった。
「そう」
「安心しているの?」
「まぁね。読めない方がいいと思うよ」
彼は、私が古代語の本を読んだのか、そして、その結果がどうだったのかを知りたかっただけらしい。さっさと立ち上げると、入ってきた窓へと歩いて行った。窓枠に足をかけたところで、思い出したように振り返る。
「また来るよ。ちゃんと窓は閉めなよ」
私が返事をするよりも先に、夜の闇の中へと消えていった。慌てて外を見ても、動いている影は見当たらない。前回もそうだったが、不思議なものである。
注意された通り、窓を閉めると、鍵をかけた。右肩からずり落ちたショールをかけなおして、ベッドに座る。クリフは、読めない方がいいと言うが、個人的には、本は読むためにあるのだから読みたいと思ってしまう。
ベッドの隣にある机に目を向けると、ランドルフ様から借りた本が積み上げられている。私物だと言っていたが、エルデ王国では古代語の本は珍しい。それを1冊だけでなく、何冊か手に入れているということは、余程本が好きなのだろう。それとも、古代語に何か惹かれるものでもあるのだろうか。
1番上の本に手を伸ばす。夕食後に読んでみようとして、全く読むことができなかった本だ。おそらく、エルデ語であれば、内容はそれほど難しくないのだろう。ただ、いくら絵本とは言え、それが全く習ったこともない古代語となると話が変わってくる。可愛らしい表装とは裏腹に、解読はかなり困難だ。
本を開いてみると、可愛らしい絵が描かれている。王立図書館で、古代語の絵本を読んだときにも思ったが、古代語の絵本は絵がとても可愛らしい。無駄な線を省き、シンプルではあるものの、それがより可愛らしさを引き出しているように思う。
ぱらぱらと本をめくってみる。単語の意味も、当たり前だが、文章も解読はできない。それでも、絵を見ると、本の内容にある程度の予測はつく。
遊んでいる動物、けがをしてしまう描写、ピメクルス教の司祭、祈りをささげる様子、ピメクルス教の神様、傷が治る描写、喜ぶ動物たち。
これらをまとめると、おそらく次のような物語なのだろう。
動物たちは遊んでいたがけがをしてしまう。そこにピメクルス教の司祭が歩いてきて、そのことに気が付き、祈りをささげた。司祭の祈りに答えて、ピメクルス教の神は姿を現し、動物たちのけがを治してあげた。動物たちは傷が治ったことに喜び、神に感謝をした。
この推測をもとに、単語を割り出していくしかないだろう。
軽くため息をつきながら、ぱらぱらとページをめくっていると、ピリッとした痛みが、右人差し指に走った。
「っ!」
紙で切ってしまったようだ。油断していたが、体感的には、最近は湿度も下がってきていた。紙で指を切る季節になってしまったということだ。
「あっ」
どうでもよいことを考えていたために、無意識に血がにじんできていた右人差し指でページをめくってしまった。これはランドルフ様からの借りものだ。それなのに、血で汚してしまった。一瞬で血の気が引いていくのを感じた。
よくある大衆向けの本であれば、謝罪をして新しいものを用意すればよいが、不幸なことに、この本は古代語の本。希少な本でエルデ王国ではほとんど見かけない。しかも、全く同じ本となると、買いなおすことは不可能だろう。
それでも起きてしまったことは仕方がない。過去には戻れないのだから、誠心誠意謝るしかないだろう。項垂れながらも、これ以上、本を汚さないためにも、一旦本をベッドに置いて、鏡台に向かう。確かこの辺にカミラが包帯を置いてくれていたはず。包帯を巻くほどのけがではないが、この世界に絆創膏がない以上、仕方がないだろう。
適当な長さに切って、右人差し指に巻き付ける。左手で結ぶのは難しいが、やっとのことで何とか結び終えた。かなり不格好だが、明日にはどうせ外すのだから問題はないだろう。
包帯を片付けると、ベッドに戻ろうと振り向いた。そこで違和感に気が付く。今夜は満月に近い夜。月明かりに照らされている部屋は、比較的明るい方だ。
しかし、ここまで明るかっただろうか。それに、おかしなことに、青っぽい光が見える気がする。月明かりは青色か。意見が人によって分かれるかもしれないが、少なくとも、一般的には違うと言えるのではないだろうか。では、青色の光の発生源はどこか。
――ベッドだ。
恐る恐る近づいていくと、状況が読めてきた。光っているのはベッドではない。開いたまま、ベッドの上に置いた古代語の本。ランドルフ様から借りたその本が青色の光を放っていた。
「なに、これ……」
両手でそっと本を持ち上げる。私がつけてしまったはずの血の汚れはない。にじんで薄くなったわけではなく、跡形もない。
本を持ち上げてわかったのだが、本自体が青色に光っているわけでもなかった。絵本のページから青色の文字が浮き上がっていた。もともとの文字や絵はそのままに、別の文字が絵本から浮き上がっているのだ。注意深く、その文字を見てみる。
「これも、古代語だわ」
ページをめくると、別の文字が浮き出てくる。この絵本の本来の内容よりも、かなり文字数が多い。普通の文庫本のように、ぎっしりと文字が浮き出てくる。読めないながらにページをめくり、最後までたどり着くと、ぱたりと本を閉じた。それと同時に青い光は消えた。
もう一度本を開いてみても、先ほどのように青色の文字が浮き出てくることはない。なんの変哲もない、ただ珍しいだけの古代語の本だ。
「……どういうことなの」
つぶやいた声が静かな部屋の中に消えていった。
お読みくださり、ありがとうございます。
続きは明日投稿いたします。




