10
さらさらとした触り心地のベッドの上で、ごろりと寝返りを打つ。投げ出した自分の右手が、暗い部屋の中で月明かりに照らされているのを見つめながら、昼間の出来事について考える。
図書館には、人がまばらにいた。別に視線を感じたからといって、それがおかしなことだとは思わない。案外、人間というのは、ぼーっとしているときに他人を見ていることもあるだろう。そうでなくても、例えば、私が知り合いの誰かに似ていて確かめるために見ていた、などもあるかもしれない。
しかし、それにしては、あまりにも感情の籠った視線だったように思う。私の背筋が凍るほどの視線だ。それに何かを話しかけてきた。何を伝えようとしていたのだろうか。
考えれば考えるほど、眠気はどこかへと飛んでいく。だめだ。全く眠くない。水でも飲もうか。
のそのそとやる気のかけらもなく、起き上がり、顔の前に垂れた髪を軽く払う。そうして、右手側に視線を移してぎょっとした。
「っ……!」
人影があるのだ。何とか悲鳴を上げずにこらえたものの、あまり意味はなかったかもしれない。相手はこちらを向いている。むしろ、私が起きていることに気が付かれているのならば、悲鳴を上げる方が正解だったかもしれない。そうすれば、誰かが助けに来たかもしれない。
「そんなに驚くなよ」
どこか気だるげにつぶやいた声は若い。少年、といった年頃だろうか。
「まったく……ここまで入るのだって、手引きがあるとは言え、大変だったんだからな」
つかつかと近寄ってくる細身の影を、ただ見つめることしかできない。人間は恐怖を感じると、体が動かなくなるのだな、などと頭の片隅で考えながらも、やがて月光に映し出されたその顔を見て、思わず小さく声を上げた。
「あっ」
「どうも、古代文字を学ぼうとしていたお嬢さん」
彼が浮かべた笑みの中にかすかな苛立ちが見える。
「本泥棒の――」
「ああ、お嬢さんのせいで僕は王国兵に引き渡されて、牢屋に入れられたよ。ま、すぐに出られはしたけれど」
かすかに感じていた苛立ちは、やはり先日の件のようだ。笑みを消して、むすっとした表情でこちらを見下ろしている。しかし、逆恨みにしては、可愛らしい苛立ちのようにも感じる。とても、こちらを害するつもりがあるようには見えない。
「お嬢さん、結構肝が据わっているよ。夜中に知らない人間が入ってきて、声を上げないだけでなく、平然とこちらを見ているなんて」
少しあきれたような声色で話しかけてきた彼を見上げる。
「でも、あなたから害意は感じない。それよりも、この間のことで聞きたいことがあるの」
「おいおい、お嬢さんに話したいことがあってきたのは僕の方だよ?」
「じゃあ、そのお話の後で構わないわ」
「はぁ」
気の抜けた返事をした彼は、やれやれといった具合に首を振ると、ベッドの端にドカリと腰かけた。反動で、ベッドが揺れる。
「いいよ、答えてあげる」
「先日、あなたが本を奪っていったでしょう。あれは古代文字の本を狙って持って行ったの? それともたまたま?」
「あの本を狙って盗ったよ」
やはり故意にあの本を狙っていたのだ。
「何のために?」
「お嬢さんのためさ」
「私のため……?」
思わぬ返答に疑問形で返してしまう。目の前の少年は、そんな私を少し馬鹿にするように、小さく鼻で笑った。
「こっちの苦労も知らないで呑気なこった。それで、聞きたいことは、それだけ?」
「あと1つ」
「ふぅん? 話してみなよ」
「今日の夕方、私のことを見ていたのはあなた?」
彼は、私の言葉を聞くと、途端に先ほどまでの飄々とした雰囲気を消して、険しい表情をした。どこか焦っているかのように、余裕のない表情でこちらを見据えると、問い返してきた。
「……どういうこと?」
その反応で、図書館で声をかけてきた人物は彼ではないとわかった。
「今日、王立図書館に行っていたのだけれど、帰ろうとしたときに視線を感じたの。それで、気のせいかなって思ったのだけれど、歩き出したときに、今度は声をかけられて――」
「何て言っていたの」
「よく聞き取れなかったの。よかったね、っていう言葉の後にも何か言っていたようなのだけれど……」
「そう」
短い返事の後に沈黙が落ちる。黙って腕を組んだ少年は、何かを考えているようだ。しばらくして、静かに首をゆるゆると振った。答えは出なかったようだ。
「……それよりも何で王立図書館なんかに行ったんだ」
どこか責めるような口調で問われて、思わず肩がはねる。図書館に行くことが、それほど悪いことだろうか。悪いことをしたつもりはないが、何となく後ろめたさを感じながら答える。
「どうしてって、古代語を学ぼうと思って……。行ってはいけないの?」
「それ本気で言ってる?」
「え?」
「……は」
私の反応が思わぬものだったのか、彼は文字通り絶句した。微動だにしない状態に、私が慌て始めたころ、やっと動き出した彼は、頭を抱えた。
「ちょっとまって。まさか知らないのか」
「何を……?」
「自分の立場を」
「立場? エルデ王国のオールディス侯爵家の次女、とか?」
「それから」
「お姉様が古くからの誓約で王族に嫁ぐから、私は婿を迎えて家を存続させる……とか」
「ほかには」
「ほか……?」
ほかに何かあっただろうか。私自身は何の変哲もない――転生者という点を除くと何の変哲もない――ただの貴族の娘だ。立場としては話したこと以上に何かあるとは思わない。
「その様子だと本当に知らなそうだな。古い誓約の内容は知っているの?」
「お姉様から聞いた話では、確か、オールディス侯爵家に2人女の子が生まれたら、長女を王族に嫁がせるっていう話だったかと」
「その誓約の意味は知っているか? 何のための誓約なのか」
「知らないわ」
「誓約の意味も失われた……か。古い誓約であるがゆえに、時間とともに意味が忘却されていったということか……?」
「誓約の意味ってどういうこと? 私と何か関係あるの?」
少年は、じっとこちらを見ながら考えている様子だったが、しばらくして目を伏せると、大きくため息をついた。そのまま目を合わせることなく、話を続ける。
「知らないというのは想定外だったが、ある意味知る必要はない事柄というものかもしれない。むしろ、知らない方が幸せかもな。誓約については、これ以上話さないでおくよ。ただ、その代わりに忠告をしておくよ」
「忠告……」
「古代語からできるだけ距離を置け。それから古代遺物。あぁ、王立図書館にも近寄らない方がいいかもしれない。……とは言っても、すでに目をつけられた可能性があるから、いずれ巻き込まれる可能性はあるかもな」
巻き込まれるとはどういうことだろうか。やはり、今日の夕方に感じたあの視線、かけられたあの言葉は、何か関係があったのだろうか。
少年は険しかった表情を和らげると、静かに笑った。
「あと、これは忠告じゃない。でも覚えておいて。何かあったら必ず力になると約束する。そのときは呼んで」
どこか優しさを感じる声色で発したその言葉とともに、彼は立ち上がった。彼が座っていたことで、少し沈んでいたベッドが上方向へと揺れる。言葉の意味を考えているうちに、いつの間にか部屋の出入り口の近くまで歩いて行ってしまった彼を見て、慌てて声をかける。
「まって、呼んでって言われても、私はあなたの連絡先を知らないわ」
「さっき言っただろう? 手引きをしてくれた奴がいるって。そいつに頼んでくれれば、その時は手を貸すよ。そうならないことを祈っているけれどね」
そういうと、静かに扉を開けて、振り返ることもなく廊下の闇へと音もなく消えていった。慌てて追いかけて扉を開け、部屋から廊下を覗いてみるが、先ほどの影はもう見当たらない。
使用人も誰もいない廊下は、窓からの月明かりをただ落としているだけで、静寂に包まれていた。はらりと髪が顔にかかる。その感覚で、夢ではなかったのだと改めて実感し、静かに扉を閉めて自室へと戻った。
すっかりと覚醒してしまった頭で考える。
どうやら、私は思ったよりも面倒ごとにかかわっている気配がある。リリアンから聞いた話では、乙女ゲームの地味顔悪役令嬢という話だったが、それだけではなさそうだ。誓約がかかわっているのならば、私だけでなく、リリアンも面倒ごとに巻き込まれている気がする。
これについては、後日、彼女に相談して、再度、ストーリーについて聞きだしたり、彼女の意見を聞く必要がありそうだ。
それよりも先に確かめておくべきことがある。彼の言っていた話が本当ならば、この屋敷内に手引きをした者がいる。それは誰か。教えずに帰っていったということは、私が考えればわかるということだろう。それならば、おそらく――。
お読みくださり、ありがとうございます。
続きは明日投稿予定です。
(少し立て込んでいるため、投稿できなかった場合は、明後日にまとめて2話分投稿します。)




